12話
その日は、なかなか寝付けなかった。
決して、アルバとの修行で手を抜いたわけじゃない。
むしろ逆だ。
リエリエッタとの話が終わったあと、僕はすぐにアルバのもとへ向かい、いつもより早く修行を始めてほしいと頼んだ。
あんな話を、それも一方的にされたあとだ。
身体を動かして、気を紛らわせたかった。
一心不乱に剣を振る。
頭を空っぽにして。
何も考えないように。
――考えることをやめるな?
知るもんか。
リエリエッタに対して、反抗心のようなものを覚えていた。
けれど、それ以上に。
ショックだった。
悲しかった。
悔しかった。
僕はもう、この船の――ヤクモ商会の一員になったつもりでいた。
毎日働いて。
剣を教わって。
文字や計算を覚えて。
見張りにも立つようになって。
少しずつ、ここにいていい人間になれていると思っていた。
けれど、そう思っていたのは僕だけだった。
勘違いしていたんだ。
そう思うと、恥ずかしさの奥から、今度は怒りが込み上げてくる。
だったら、僕は何なんだ。
この船にとって。
リエリエッタにとって。
僕は――何だったんだ。
行き場のない感情を、今はただ剣に乗せるしかなかった。
振る。
また振る。
何度も、何度も。
とうとう腕が上がらなくなった。
振り上げようとしても、木剣は途中で止まる。
そこでようやく、剣以外のものが少しずつ意識に入り始めた。
暗い。
汗でぐっしょりと濡れた服が肌に張りついている。
吹き抜ける風が冷たくて、火照った身体からじわじわと熱を奪っていく。
ぼんやりと顔を上げると、月が見えた。
高い。
頭の上まで昇った月は、いつもより少し大きく見える。
綺麗だな。
そんなことをぼんやり考えていると――。
「ナナシ、もう気は済んだか?」
後ろから声をかけられた。
振り返る。
階段に腰掛けていたのは、ザックスだった。
いや、ザックスだけじゃない。
隣にはマームとマリアンヌも座っている。
「……いつからいたの?」
「さあな」
ザックスはニヤリと笑うと、手に持っていたタオルをこちらへ放り投げた。
「ほら」
「わっ」
慌てて空中で受け止める。
「ありがとう。でも、どうしてここに?」
「どうしてって、そりゃお前。一日中ずーっと木剣振り回してたんだぞ?」
「……一日中?」
その言葉が、妙に引っかかった。
一日中。
もう一度、辺りを見る。
暗い甲板。
冷たい風。
頭上まで昇った月。
「…………あ」
そこでようやく、それまでばらばらに入ってきていたものが、一つに繋がった。
「もう夜じゃん……」
「だからそう言ってんだろ」
いつの間に。
昼食どころか、夕食まで逃してしまったらしい。
それほどまでに、何も見えなくなっていたということだろう。
「それにアルバさんがいくら話しかけても、お前、なーんにも反応しなかったって呆れてたぞ」
「……あ」
そうだ。
アルバがいない。
こちらから早めに修行を始めてほしいと頼んだ手前、随分と悪いことをしてしまった気がする。
「そうですよ。それでリエリエッタ様、アルバ様に『お前、ナナシに何かしたんじゃないか?』って言ってました」
マリアンヌが少し口を尖らせ、リエリエッタの口調を真似る。
似せようとはしているのだろう。
けれど、あまり似ていなかった。
「……ボスが?」
「はい。なんだか変だったんですよねぇ」
マリアンヌは少し首を傾げた。
何か思い当たるものでもあるのか、そのまま考え込むように目を細める。
「でもナナシ、何も食べないのは良くない」
亜麻色の髪を揺らしながら、マームがこちらへ歩み寄ってきた。
「さっき厨房から分けてもらった。食べて」
差し出されたのは、干し肉とパン、それからコップ一杯の水だった。
それを見た途端、忘れていたものを身体が思い出した。
ぐぅぅ、と腹の底から盛大な音が鳴る。
「……ありがとう」
急に襲ってきた空腹に耐え切れず、受け取ったパンと干し肉を口へ押し込んだ。
干し肉の強い塩気が、疲れ切った身体に染み渡る。
硬いパンだろうと、今は気にしていられない。
肉、パン、肉。
一度に詰め込みすぎて口の中が渋滞を起こし、危うく喉を詰まらせそうになったところへ、慌てて水を流し込む。
「んぐっ……!」
どうにか飲み下す。
そんな僕を見て、三人はどこか微笑ましそうに笑っていた。
「ナナシさん」
不意に、マリアンヌが口を開いた。
「リエリエッタ様と、何かありましたか?」
「……どうして?」
「なんとなく、なんですけど……」
マリアンヌは少し首を傾げる。
「リエリエッタ様の様子が、いつもと少し違う気がしたんです」
そんなことを言われても。
今はリエリエッタの様子なんて、知ったことじゃない。
「リエリエッタ様は、ナナシさんの様子を直接見に行くことはあまりないんですけど、私には結構聞いてくるんですよ。ナナシさんが目を覚ます前とか、落ち込んでいたときとか。『今日はどうだった?』って」
「……」
「でも、今日は何も聞いてこなくて」
マリアンヌはそこで一度言葉を止めた。
「そのくせ、アルバ様にはあんなことを言ってましたから。……それがちょっと引っかかったんです」
そう言いながら、顎に指を当てる。
僕は手の中に残ったパンへ視線を落とした。
「…………ボスに、船を降りろって言われた」
三人の空気が止まった。
「アヌトゥスで降りて、そのあとは連れて行くつもりもないって」
実際には、もう少し色々と言われた気がする。
今すぐ決める必要はないとか。
アヌトゥスを自分の目で見てから考えろとか。
けれど、今の僕の頭にこびりついているのは、それだけだった。
「僕は……この船で目を覚ますより前のことを、何も覚えてない」
声が震えた。
「だから、僕にとってはここが……この船が、今の世界の全部なんだ」
目頭が熱くなる。
押し込めていたものが、一度溢れ始めると止まらなかった。
「ここが、僕の家なんだって……そう思ってた」
頬を伝った涙が顎先から落ち、甲板の木目に小さな染みを作る。
「……でも、そう思ってたのは……僕だけだったんだ」
「そんなこと……」
マリアンヌの表情が変わった。
驚き。
それから、怒り。
「…………私、ちょっとリエリエッタ様に言ってきます!」
「え?」
止める間もなかった。
マリアンヌは勢いよく立ち上がると、そのまま船長室へ続く階段を上っていく。
やがて扉を叩く音がして、その姿は船長室の中へ消えた。
「マリアンヌって、見かけによらず結構行動力あるよねー」
マームが消えていった背中を眺めながら、ぽつりと呟く。
「見た目はめっちゃお嬢様って感じなのに。怖いもの知らず?」
「……それ、本人の前では言うなよ」
「なんで?」
「なんとなく」
ザックスはそう返してから、頭をぽりぽりと掻いた。
「あー……なんだ。多分だぞ?」
いつもの勢いが、少しだけ鳴りを潜める。
「船長はきっと、お前にもっと広い世界を知ってほしいんじゃないか?」
「広い……世界?」
「ああ。俺も村を出てから分かったんだけどさ。やっぱ世界って広いんだよ」
ザックスは甲板の向こうへ視線を向ける。
夜の砂海は暗く、青白い月明かりを受けた砂だけが、波のような起伏をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「行った先々に街があって、村があって、そこに住んでる奴らがいる。その数だけ、生き方がある」
「わたしたちは、そんな世界を見て回る」
マームが言葉を引き継いだ。
「見たことのないものを見て、知らないものを知る。そうやって、まだ誰も辿り着いたことのないところを目指す」
二人が何を言おうとしているのか、まだよく分からなかった。
「……二人は、なんのために冒険してるの?」
尋ねると、ザックスが待ってましたと言わんばかりに笑った。
「こいつ、魔法の才能があるんだ」
そう言って、隣のマームを親指で示す。
「系統魔法全部に適性があるんだぜ? そんな奴、村の教会の牧師様にも、魔法学校の先生にも、冒険者組合の魔法士にも、一人もいなかった!」
「ふふーん。わたしはすごい」
マームは得意げに胸を張り、両手でピースを作った。
「それでな。魔法ってのは、想像する力が大事なんだと」
ザックスの声が少し弾む。
「だったら、世界中を見て回って、いろんなもんを見て、感じて、知ればいい。そうすりゃこいつは、もっとすげぇ魔法士になれる」
「世界一」
「そうそう。世界一すげぇ魔法士」
「違う。世界一の魔法士」
「細けぇなぁ」
「大事」
マームは真顔だった。
ザックスは困ったように笑って、それから僕を見る。
「ま、それが俺とマームの夢だ」
「その道の果てに何が待ってるかは、まだ分からない」
いつも眠たげなマームの瞳が、今だけは月明かりを映して爛々と輝いて見えた。
「でも、わたしたちならやれるって信じてる」
「それで、いつか俺たちの冒険が歌になる」
ザックスが歯を見せて笑う。
「どっかの酒場で、会ったこともねぇ吟遊詩人が俺たちの話を謳ってる。そんな冒険者になれたら最高だろ?」
それを語る顔は、まるでもう、その光景が見えているかのように楽しそうだった。
「だからよ、ナナシ」
ザックスが立ち上がる。
「落ち込むのは、まだ早いぜ」
「……」
「アヌトゥスに着いたら、もっとお前の世界は広がる。船に残るにしたって、降りるにしたって、それ見てから考えても遅くねぇだろ?」
僕の横を通り過ぎざま、背中をぽん、と軽く叩く。
「道なんて、一つじゃねぇんだからさ。焦んなよ」
そのままザックスは船内へ戻っていった。
マームも僕の肩へ手を置く。
「ザックスの言う通り。焦らなくていい」
ぽんぽん、と二度。
「……ご飯はちゃんと食べて」
「……うん」
最後にそれだけ言い残し、マームもザックスの後を追って姿を消した。
甲板に残された僕は、二人が消えていった先をしばらく見つめていた。
――世界は、広い。
リエリエッタも。
ザックスも、マームも。
同じようなことを言っているんだ。
それなのに。
どうしてだろう。
僕には、その言葉を素直に受け入れることができない。
先ほどまでの賑やかさが嘘だったかのように、辺りは静寂に包まれていた。
夜になると、船は進まない。
砂中に潜む魔物たちを余計に刺激しないため、その場に留まるのだと聞いた。
だから今は、船底を伝ってくる砂の振動もない。
肌を焼き尽くすような日差しもない。
昼間とは何もかもが違っていた。
静かだ。
あまりにも静かで、耳鳴りがする。
時折、砂海を渡る風だけが、甲板の上を鋭く吹き抜けていく。
僕は疲労を訴える身体を、そのまま甲板へ預けた。
仰向けになれば、視界いっぱいに夜空が広がる。
黒いキャンバスの上へ、光の絵の具を無造作に散らしたような星々。
広いなぁ。
空も。
砂海も。
きっと世界は、これよりもっと広い。
ザックスとマームには、夢がある。
リエリエッタには、信念がある。
なら――僕は?
この船に残りたい。
恩を返したい。
そう思うこの気持ちは、嘘なのだろうか。
それとも、今の僕がそう思い込んでいるだけで、いつかは一時の気の迷いだったと笑えるようになるのだろうか。
右手に残った木剣へ視線を向ける。
握力の抜けた手のひらには、じんじんとした痛みが残っている。
その上に、木剣の重さがずっしりとのしかかっていた。
この手を選べば。
この船に残ることを選べば、その先に待っているのは、きっと困難ばかりだ。
また砂海を渡る。
幾つもの死線と向き合うことになるかもしれない。
数え切れないほどの人と出会い、その数だけ別れも経験するのかもしれない。
今度は、空っぽの左手を見る。
この手の先には、きっと安寧と平穏がある。
戦いとは無縁の場所で、危険な砂海を渡る必要もなく、穏やかに暮らしていく。
けれど――。
本当に、そうなのだろうか。
右手には危険がある。
左手には平穏がある。
そんなふうに考えていた。
でも、右手を選ぶということは、今までと同じ船に残るということだ。
左手を選べば、この船を降りる。
知らない街で。
知らない人たちに囲まれて。
何も知らない世界へ、自分一人で踏み出すことになる。
どちらが変化なのだろう。
残ることが挑戦で。
降りることが逃げ。
そんな単純な話でもない。
きっと、その逆でもない。
――まだ、たった一節だろう?
心のどこかで、もう一人の僕が囁く。
たったそれだけの時間しか、この船では過ごしていない。
何をそんなに未練に感じることがある。
リエリエッタは背中を押してくれている。
恩だって、いつかまた巡り会えたときに返せばいい。
それでいいじゃないか。
――けれど。
僕にとっては、ここが世界の全てだ。
この船で目を覚まして。
名前をもらって。
初めて知っている人ができて。
初めて自分にできることを教えてもらった。
それより前を何一つ持たない、空っぽの僕にとって。
ここにあるものが、今の僕の全てなんだ。
それを捨てる?
僕に、できるのだろうか。
分からない。
考えれば考えるほど、思考が絡まっていく。
一つ解こうとすれば別の何かが絡まり、そこからまた考え直して、気がつけば同じところへ戻っている。
何度も。
何度も。
同じ場所を巡った末に、空っぽの左手を宙へ伸ばした。
指の隙間から、星空が見える。
きっと、あの空は何も変わらない。
幾千、幾万もの星々は、僕がこうして悩んでいることなんて知りもしない。
何百年も前から。
そして、きっと何百年も先まで。
変わらず、同じように光り続ける。
――あぁ……憎らしいなぁ。
自分でも、変なことを考えていると思う。
――狡いなぁ……。
何も知らないくせに。
何も迷わないくせに。
ただそこにあって、光っている。
辺りが静かだからなのか、思考ばかりがよく巡る。
身体はもうくたくたなのに、頭だけが妙に冴えていた。
考えられる。
いくらでも考えられる。
なのに、答えだけが見つからない。
いっそ、全部投げ出してしまいたくなる。
誰かが無理矢理にでも、この先の僕の運命を決めてくれたら。
そうすれば、きっと楽なのに。
でも。
リエリエッタは、きっとそれを許さない。
僕が考えることを放棄したら、彼女はどう思うだろう。
呆れるだろうか。
失望するだろうか。
もう口も利いてくれなくなったりして。
――それは、嫌だなぁ。
リエリエッタには、信念がある。
ザックスとマームには、夢がある。
きっとアルバにも。
マリアンヌにも。
この船で働く他の人たちにも。
それぞれ、自分の中に何かを持っているのだろう。
自分がどこへ向かうのか。
何をしたいのか。
何のために生きるのか。
僕には、それがない。
本当の名前も。
過去も。
帰る場所も。
これから何をしたいのかさえ、分からない。
何もないのは、僕だけだ。
「あぁ、なんで……」
伸ばした左手を、星空へ重ねる。
どれだけ伸ばしても、当然届くはずなんてない。
「羨ましいなぁ……」
答える者はいなかった。
ただ星だけが、何事もなかったかのように瞬いている。
今夜は、眠れそうになかった。




