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砂の中のアストラ  作者: 絹笠 悠
第1章

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12/20

12話


 その日は、なかなか寝付けなかった。


 決して、アルバとの修行で手を抜いたわけじゃない。


 むしろ逆だ。


 リエリエッタとの話が終わったあと、僕はすぐにアルバのもとへ向かい、いつもより早く修行を始めてほしいと頼んだ。


 あんな話を、それも一方的にされたあとだ。


 身体を動かして、気を紛らわせたかった。


 一心不乱に剣を振る。


 頭を空っぽにして。


 何も考えないように。


 ――考えることをやめるな?


 知るもんか。


 リエリエッタに対して、反抗心のようなものを覚えていた。


 けれど、それ以上に。


 ショックだった。


 悲しかった。


 悔しかった。


 僕はもう、この船の――ヤクモ商会の一員になったつもりでいた。


 毎日働いて。


 剣を教わって。


 文字や計算を覚えて。


 見張りにも立つようになって。


 少しずつ、ここにいていい人間になれていると思っていた。


 けれど、そう思っていたのは僕だけだった。


 勘違いしていたんだ。


 そう思うと、恥ずかしさの奥から、今度は怒りが込み上げてくる。


 だったら、僕は何なんだ。


 この船にとって。


 リエリエッタにとって。


 僕は――何だったんだ。


 行き場のない感情を、今はただ剣に乗せるしかなかった。


 振る。


 また振る。


 何度も、何度も。


 とうとう腕が上がらなくなった。


 振り上げようとしても、木剣は途中で止まる。


 そこでようやく、剣以外のものが少しずつ意識に入り始めた。


 暗い。


 汗でぐっしょりと濡れた服が肌に張りついている。


 吹き抜ける風が冷たくて、火照った身体からじわじわと熱を奪っていく。


 ぼんやりと顔を上げると、月が見えた。


 高い。


 頭の上まで昇った月は、いつもより少し大きく見える。


 綺麗だな。


 そんなことをぼんやり考えていると――。


「ナナシ、もう気は済んだか?」


 後ろから声をかけられた。


 振り返る。


 階段に腰掛けていたのは、ザックスだった。


 いや、ザックスだけじゃない。


 隣にはマームとマリアンヌも座っている。


「……いつからいたの?」


「さあな」


 ザックスはニヤリと笑うと、手に持っていたタオルをこちらへ放り投げた。


「ほら」


「わっ」


 慌てて空中で受け止める。


「ありがとう。でも、どうしてここに?」


「どうしてって、そりゃお前。一日中ずーっと木剣振り回してたんだぞ?」


「……一日中?」


 その言葉が、妙に引っかかった。


 一日中。


 もう一度、辺りを見る。


 暗い甲板。


 冷たい風。


 頭上まで昇った月。


「…………あ」


 そこでようやく、それまでばらばらに入ってきていたものが、一つに繋がった。


「もう夜じゃん……」


「だからそう言ってんだろ」


 いつの間に。


 昼食どころか、夕食まで逃してしまったらしい。


 それほどまでに、何も見えなくなっていたということだろう。


「それにアルバさんがいくら話しかけても、お前、なーんにも反応しなかったって呆れてたぞ」


「……あ」


 そうだ。


 アルバがいない。


 こちらから早めに修行を始めてほしいと頼んだ手前、随分と悪いことをしてしまった気がする。


「そうですよ。それでリエリエッタ様、アルバ様に『お前、ナナシに何かしたんじゃないか?』って言ってました」


 マリアンヌが少し口を尖らせ、リエリエッタの口調を真似る。


 似せようとはしているのだろう。


 けれど、あまり似ていなかった。


「……ボスが?」


「はい。なんだか変だったんですよねぇ」


 マリアンヌは少し首を傾げた。


 何か思い当たるものでもあるのか、そのまま考え込むように目を細める。


「でもナナシ、何も食べないのは良くない」


 亜麻色の髪を揺らしながら、マームがこちらへ歩み寄ってきた。


「さっき厨房から分けてもらった。食べて」


 差し出されたのは、干し肉とパン、それからコップ一杯の水だった。


 それを見た途端、忘れていたものを身体が思い出した。


 ぐぅぅ、と腹の底から盛大な音が鳴る。


「……ありがとう」


 急に襲ってきた空腹に耐え切れず、受け取ったパンと干し肉を口へ押し込んだ。


 干し肉の強い塩気が、疲れ切った身体に染み渡る。


 硬いパンだろうと、今は気にしていられない。


 肉、パン、肉。


 一度に詰め込みすぎて口の中が渋滞を起こし、危うく喉を詰まらせそうになったところへ、慌てて水を流し込む。


「んぐっ……!」


 どうにか飲み下す。


 そんな僕を見て、三人はどこか微笑ましそうに笑っていた。


「ナナシさん」


 不意に、マリアンヌが口を開いた。


「リエリエッタ様と、何かありましたか?」


「……どうして?」


「なんとなく、なんですけど……」


 マリアンヌは少し首を傾げる。


「リエリエッタ様の様子が、いつもと少し違う気がしたんです」


 そんなことを言われても。


 今はリエリエッタの様子なんて、知ったことじゃない。


「リエリエッタ様は、ナナシさんの様子を直接見に行くことはあまりないんですけど、私には結構聞いてくるんですよ。ナナシさんが目を覚ます前とか、落ち込んでいたときとか。『今日はどうだった?』って」


「……」


「でも、今日は何も聞いてこなくて」


 マリアンヌはそこで一度言葉を止めた。


「そのくせ、アルバ様にはあんなことを言ってましたから。……それがちょっと引っかかったんです」


 そう言いながら、顎に指を当てる。


 僕は手の中に残ったパンへ視線を落とした。


「…………ボスに、船を降りろって言われた」


 三人の空気が止まった。


「アヌトゥスで降りて、そのあとは連れて行くつもりもないって」


 実際には、もう少し色々と言われた気がする。


 今すぐ決める必要はないとか。


 アヌトゥスを自分の目で見てから考えろとか。


 けれど、今の僕の頭にこびりついているのは、それだけだった。


「僕は……この船で目を覚ますより前のことを、何も覚えてない」


 声が震えた。


「だから、僕にとってはここが……この船が、今の世界の全部なんだ」


 目頭が熱くなる。


 押し込めていたものが、一度溢れ始めると止まらなかった。


「ここが、僕の家なんだって……そう思ってた」


 頬を伝った涙が顎先から落ち、甲板の木目に小さな染みを作る。


「……でも、そう思ってたのは……僕だけだったんだ」


「そんなこと……」


 マリアンヌの表情が変わった。


 驚き。


 それから、怒り。


「…………私、ちょっとリエリエッタ様に言ってきます!」


「え?」


 止める間もなかった。


 マリアンヌは勢いよく立ち上がると、そのまま船長室へ続く階段を上っていく。


 やがて扉を叩く音がして、その姿は船長室の中へ消えた。


「マリアンヌって、見かけによらず結構行動力あるよねー」


 マームが消えていった背中を眺めながら、ぽつりと呟く。


「見た目はめっちゃお嬢様って感じなのに。怖いもの知らず?」


「……それ、本人の前では言うなよ」


「なんで?」


「なんとなく」


 ザックスはそう返してから、頭をぽりぽりと掻いた。


「あー……なんだ。多分だぞ?」


 いつもの勢いが、少しだけ鳴りを潜める。


「船長はきっと、お前にもっと広い世界を知ってほしいんじゃないか?」


「広い……世界?」


「ああ。俺も村を出てから分かったんだけどさ。やっぱ世界って広いんだよ」


 ザックスは甲板の向こうへ視線を向ける。


 夜の砂海は暗く、青白い月明かりを受けた砂だけが、波のような起伏をぼんやりと浮かび上がらせていた。


「行った先々に街があって、村があって、そこに住んでる奴らがいる。その数だけ、生き方がある」


「わたしたちは、そんな世界を見て回る」


 マームが言葉を引き継いだ。


「見たことのないものを見て、知らないものを知る。そうやって、まだ誰も辿り着いたことのないところを目指す」


 二人が何を言おうとしているのか、まだよく分からなかった。


「……二人は、なんのために冒険してるの?」


 尋ねると、ザックスが待ってましたと言わんばかりに笑った。


「こいつ、魔法の才能があるんだ」


 そう言って、隣のマームを親指で示す。


「系統魔法全部に適性があるんだぜ? そんな奴、村の教会の牧師様にも、魔法学校の先生にも、冒険者組合(ギルド)の魔法士にも、一人もいなかった!」


「ふふーん。わたしはすごい」


 マームは得意げに胸を張り、両手でピースを作った。


「それでな。魔法ってのは、想像する力が大事なんだと」


 ザックスの声が少し弾む。


「だったら、世界中を見て回って、いろんなもんを見て、感じて、知ればいい。そうすりゃこいつは、もっとすげぇ魔法士になれる」


「世界一」


「そうそう。世界一すげぇ魔法士」


「違う。世界一の魔法士」


「細けぇなぁ」


「大事」


 マームは真顔だった。


 ザックスは困ったように笑って、それから僕を見る。


「ま、それが俺とマームの夢だ」


「その道の果てに何が待ってるかは、まだ分からない」


 いつも眠たげなマームの瞳が、今だけは月明かりを映して爛々と輝いて見えた。


「でも、わたしたちならやれるって信じてる」


「それで、いつか俺たちの冒険が歌になる」


 ザックスが歯を見せて笑う。


「どっかの酒場で、会ったこともねぇ吟遊詩人が俺たちの話を謳ってる。そんな冒険者になれたら最高だろ?」


 それを語る顔は、まるでもう、その光景が見えているかのように楽しそうだった。


「だからよ、ナナシ」


 ザックスが立ち上がる。


「落ち込むのは、まだ早いぜ」


「……」


「アヌトゥスに着いたら、もっとお前の世界は広がる。船に残るにしたって、降りるにしたって、それ見てから考えても遅くねぇだろ?」


 僕の横を通り過ぎざま、背中をぽん、と軽く叩く。


「道なんて、一つじゃねぇんだからさ。焦んなよ」


 そのままザックスは船内へ戻っていった。


 マームも僕の肩へ手を置く。


「ザックスの言う通り。焦らなくていい」


 ぽんぽん、と二度。


「……ご飯はちゃんと食べて」


「……うん」


 最後にそれだけ言い残し、マームもザックスの後を追って姿を消した。


 甲板に残された僕は、二人が消えていった先をしばらく見つめていた。


 ――世界は、広い。


 リエリエッタも。


 ザックスも、マームも。


 同じようなことを言っているんだ。


 それなのに。


 どうしてだろう。


 僕には、その言葉を素直に受け入れることができない。


 先ほどまでの賑やかさが嘘だったかのように、辺りは静寂に包まれていた。


 夜になると、船は進まない。


 砂中に潜む魔物たちを余計に刺激しないため、その場に留まるのだと聞いた。


 だから今は、船底を伝ってくる砂の振動もない。


 肌を焼き尽くすような日差しもない。


 昼間とは何もかもが違っていた。


 静かだ。


 あまりにも静かで、耳鳴りがする。


 時折、砂海を渡る風だけが、甲板の上を鋭く吹き抜けていく。


 僕は疲労を訴える身体を、そのまま甲板へ預けた。


 仰向けになれば、視界いっぱいに夜空が広がる。


 黒いキャンバスの上へ、光の絵の具を無造作に散らしたような星々。


 広いなぁ。


 空も。


 砂海も。


 きっと世界は、これよりもっと広い。


 ザックスとマームには、夢がある。


 リエリエッタには、信念がある。


 なら――僕は?


 この船に残りたい。


 恩を返したい。


 そう思うこの気持ちは、嘘なのだろうか。


 それとも、今の僕がそう思い込んでいるだけで、いつかは一時の気の迷いだったと笑えるようになるのだろうか。


 右手に残った木剣へ視線を向ける。


 握力の抜けた手のひらには、じんじんとした痛みが残っている。


 その上に、木剣の重さがずっしりとのしかかっていた。


 この手を選べば。


 この船に残ることを選べば、その先に待っているのは、きっと困難ばかりだ。


 また砂海を渡る。


 幾つもの死線と向き合うことになるかもしれない。


 数え切れないほどの人と出会い、その数だけ別れも経験するのかもしれない。


 今度は、空っぽの左手を見る。


 この手の先には、きっと安寧と平穏がある。


 戦いとは無縁の場所で、危険な砂海を渡る必要もなく、穏やかに暮らしていく。


 けれど――。


 本当に、そうなのだろうか。


 右手には危険がある。


 左手には平穏がある。


 そんなふうに考えていた。


 でも、右手を選ぶということは、今までと同じ船に残るということだ。


 左手を選べば、この船を降りる。


 知らない街で。


 知らない人たちに囲まれて。


 何も知らない世界へ、自分一人で踏み出すことになる。


 どちらが変化なのだろう。


 残ることが挑戦で。


 降りることが逃げ。


 そんな単純な話でもない。


 きっと、その逆でもない。


 ――まだ、たった一節だろう?


 心のどこかで、もう一人の僕が囁く。


 たったそれだけの時間しか、この船では過ごしていない。


 何をそんなに未練に感じることがある。


 リエリエッタは背中を押してくれている。


 恩だって、いつかまた巡り会えたときに返せばいい。


 それでいいじゃないか。


 ――けれど。


 僕にとっては、ここが世界の全てだ。


 この船で目を覚まして。


 名前をもらって。


 初めて知っている人ができて。


 初めて自分にできることを教えてもらった。


 それより前を何一つ持たない、空っぽの僕にとって。


 ここにあるものが、今の僕の全てなんだ。


 それを捨てる?


 僕に、できるのだろうか。


 分からない。


 考えれば考えるほど、思考が絡まっていく。


 一つ解こうとすれば別の何かが絡まり、そこからまた考え直して、気がつけば同じところへ戻っている。


 何度も。


 何度も。


 同じ場所を巡った末に、空っぽの左手を宙へ伸ばした。


 指の隙間から、星空が見える。


 きっと、あの空は何も変わらない。


 幾千、幾万もの星々は、僕がこうして悩んでいることなんて知りもしない。


 何百年も前から。


 そして、きっと何百年も先まで。


 変わらず、同じように光り続ける。


 ――あぁ……憎らしいなぁ。


 自分でも、変なことを考えていると思う。


 ――狡いなぁ……。


 何も知らないくせに。


 何も迷わないくせに。


 ただそこにあって、光っている。


 辺りが静かだからなのか、思考ばかりがよく巡る。


 身体はもうくたくたなのに、頭だけが妙に冴えていた。


 考えられる。


 いくらでも考えられる。


 なのに、答えだけが見つからない。


 いっそ、全部投げ出してしまいたくなる。


 誰かが無理矢理にでも、この先の僕の運命を決めてくれたら。


 そうすれば、きっと楽なのに。


 でも。


 リエリエッタは、きっとそれを許さない。


 僕が考えることを放棄したら、彼女はどう思うだろう。


 呆れるだろうか。


 失望するだろうか。


 もう口も利いてくれなくなったりして。


 ――それは、嫌だなぁ。


 リエリエッタには、信念がある。


 ザックスとマームには、夢がある。


 きっとアルバにも。


 マリアンヌにも。


 この船で働く他の人たちにも。


 それぞれ、自分の中に何かを持っているのだろう。


 自分がどこへ向かうのか。


 何をしたいのか。


 何のために生きるのか。


 僕には、それがない。


 本当の名前も。


 過去も。


 帰る場所も。


 これから何をしたいのかさえ、分からない。


 何もないのは、僕だけだ。


「あぁ、なんで……」


 伸ばした左手を、星空へ重ねる。


 どれだけ伸ばしても、当然届くはずなんてない。


「羨ましいなぁ……」


 答える者はいなかった。


 ただ星だけが、何事もなかったかのように瞬いている。


 今夜は、眠れそうになかった。

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