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第二章 聖騎士(せいきし)と茶碗蒸(ちゃわんむ)し

ミリサが新しい仲間たちを連れて【脱皮の一杯】を訪れた時。


そのパーティーの聖騎士――そして、ミリサの幼馴染でもあるレオンは、店内の光景に言葉を失った。


彼が最初に目にしたもの。


それは、店内を歩き回る黒い肌の種族たちだった。


ダークエルフ。


しかも、ただのダークエルフではない。


彼らは大胆に仕立て直された東方の絹衣を身に纏っていた。


大きく背中を露出した衣装。


注文を取る者。


テーブルを拭く者。


そして厨房の奥で料理を運ぶ者。


その全てが、地底に住まう闇の種族だった。


「……ダークエルフ?」


レオンは思わず低い声で呟いた。


喉が乾く。


彼は隣にいるミリサへ、警戒した声で囁いた。


「男女……両方いるのか」


本来なら。


光の届かない深淵に潜み。


百毒后を崇拝し。


残虐と邪悪の象徴として恐れられる存在。


それがダークエルフ。


しかし今、彼らは繁盛する酒場の中を優雅に歩いている。


その手に握られているものは、暗殺用の短剣でもなければ、猛毒の瓶でもない。


清水のように透明で香り高い酒。


そして、白い湯気を立てる味噌汁だった。


彼らが着ている服も、レオンには見覚えがなかった。


極めて高価な深紫色や黒色の絹で織られた、東方の礼装。


正面から見れば、着物の襟は幾重にも重なり、幅広い帯が腹部を整然と締めている。


その姿は、エルフ特有の細く優雅な腰の線を際立たせていた。


どこか禁欲的でありながら、同時に神聖な儀式服のような威厳すら感じさせる。


レオンの手は、いつの間にか腰の長剣へ伸びていた。


その瞬間。


――寒気が走った。


背筋を凍らせるような視線。


同時に、戦士としての本能がけたたましい警鐘を鳴らす。


身体が震えた。


まるで、幼い竜の雛が本物の竜を目の前にしたように。


「お客様」


いつの間に現れたのか。


レオンの隣にはヴィサスが立っていた。


足音も。


衣擦れの音も。


何一つ感じさせずに。


「店内規則には明記されています」


ヴィサスは淡々と言う。


「――武器の抜刀は禁止です」


「レオン……!」


ミリサは慌てて彼の剣へ手を伸ばした。


「早く戻して!」


「もし門番の半獣人たちに三つ折りにされて海へ投げ込まれたら……神殿の蘇生術でも間に合わないわよ!」


彼女は声を抑えながら言う。


「鋼骨と砕牙は……レベル10の半獣人戦士なんだから……!」


気付けば、ミリサの手にも冷たい汗が滲んでいた。


ゆっくりと。


レオンは剣を鞘へ戻す。


完全に刃が収まった瞬間。


頭上から圧し掛かっていた、凍り付くような殺気が消えた。


「秋刀魚定食を四つ、ですね」


ヴィサスは何事もなかったかのように羊皮紙へ注文を書き込む。


そして、その場を離れていった。


しばらく沈黙した後。


パーティーの一員であるドワーフの魔術師バリンが、赤茶色の髭を撫でながら、テーブルの下で密かに魔力探知の術式を組んだ。


次の瞬間。


「……ッ!」


彼は息を呑んだ。


「先祖よ……!」


バリンは震える指でレオンを指差した。


「レオン! お前の頭の中には聖水しか詰まっていないのか!?」


「お前、あと少しで俺たち全員を殺すところだったぞ!!」


ドワーフ特有の大声が、酒場中に響き渡る。


「な、何を言って――」


レオンが問い返す前に。


バリンはさらに叫んだ。


「あいつは伝説級領域の暗殺者だ!!」


「あの黒い肌の化け物から漏れ出している影の魔力……地底深淵の重油よりも濃いぞ!!」

「第十五階級の影刺客だぞ……!」


バリンは怒りで髭を震わせながら叫んだ。


「こんな大物、俺の故郷なら一瞬で地下迷宮の主の首を斬り落として、蹴り飛ばして遊べるような化け物だ!」


「深霧城の執政官を暗殺しろと言われても、十分すぎるほどの実力者だぞ!」


「鉄床神よ……!」


ドワーフの魔術師は頭を抱えた。


「そんな怪物が……!」


「尻すら隠さないような奇妙な服を着て、こんな港町の木造酒場で、ただ黙ってグラスを拭いているだと!?」


「この店の主人は頭を地底牛に踏み潰されたのか!?」


「それとも……」


バリンは店の奥を見る。


「本当に狂った魔王なのか!?」


しかし、ハーフエルフの遊撃手メルフィは、それほど驚いていなかった。


彼は冷たい麦茶を一口飲む。


その飲み物を、彼はかなり気に入っていた。


冷たく。


穀物由来の優しい甘みがある。


深霧城の湿った空気の中では、妙に心地よい味だった。


「俺も、さっき完全に動きを見失った」


メルフィは淡々と言う。


「だから最初から分かっていた」


「あいつには絶対に手を出してはいけないってな」


「その領域に到達したダークエルフの暗殺者なら、今までに殺した人数は軽く数百を超えている」


「光の届かない深淵で、そこまで登り詰めた奴なんて……」


「仲間の死体を踏み越えてきたような連中ばかりだ」


メルフィはレオンを見る。


「だから俺は最初から弓に手をかけなかった」


「この隊の中で、一番危機感がなかったのは……」


「お前だけだよ、レオン」


レオンは恥ずかしそうに俯いた。


しかし、その時。


隣の席で酒を飲んでいた傭兵が、大声で笑い始めた。


「ガハハハ!」


「坊主、お前まさか外の二人の半獣人を飾りだと思っているのか?」


傭兵は豪快に笑いながら言った。


「教えてやるよ!」


「あの鋼骨と砕牙はな……断剣港の地下闘技場で名を轟かせた元チャンピオン兄弟だ!」


「もし本当に玩具みたいな剣を抜いていたら……」


「三秒も経たずに、港で鮫の餌になっていたぞ!」


傭兵は腹を抱えて笑う。


その振動で木製の机の上に置かれた酒杯が揺れた。


その時だった。


先ほど酒を運んでいた男性ダークエルフの店員が、彼の横を通り過ぎる。


大きく背中を露出した深紫色の絹衣。


しなやかで鍛えられた肉体。


黒曜石のような美しい肌。


傭兵は酒の勢いもあり、軽い冗談のつもりで――


「ぱんっ」


その男性ダークエルフの臀部を、軽く叩いた。


レオンは思わず立ち上がりそうになった。


だが。


予想していた殺戮は起こらなかった。


男性ダークエルフは一瞬だけ足を止める。


しかし、その黒曜石のような美しい顔には、屈辱も怒りも浮かばなかった。


代わりに。


少しからかうような。


そして、どこか妖艶な笑みを浮かべる。


彼は優雅に振り返る。


露出した背中をわずかに傾け。


自ら衣服の襟元を近づけた。


「へぇ……」


傭兵は楽しそうに笑う。


慣れた手つきで銀貨を一枚取り出した。


そして。


開いた絹衣の襟元へ。


銀貨を滑らせる。


鍛えられた胸元に沿う布地の奥へ。


「ありがとうございマス」


男性ダークエルフは丁寧に礼をする。


その指先が、ほんの一瞬だけ傭兵の荒れた手首を撫でた。


そして彼は。


空いた酒盆を持ち上げ。


黒豹のように優雅で軽やかな足取りで、その場を去っていった。


レオンは呆然と見つめていた。


理解できない。


頭が追いつかない。


「こ、これは……」


「なんと汚らわしい……」


彼が呆然と呟いた、その時。


「レオン」


ミリサが小声で言った。


「辰さんは、客同士の軽い戯れを禁止してはいないわ」


「でも……この店には明確な線引きがあるの」


彼女の言葉が終わる前だった。


店の奥から。


ガシャァン。


清酒の瓶が割れる音が響いた。


一人の女性ダークエルフ店員。


その手首を、外から来た冒険者が掴んでいた。


「やめてください」


彼女ははっきり拒絶する。


しかし男たちは笑った。


「嫌だ?」


「お前ら地底の女エルフっていうのは、男を『狩る』のが好きなんじゃないのか?」


「今さら恥ずかしがるなよ」


その瞬間。


レオンが動こうとした。


しかし。


先に動いた者がいた。


入口に立っていた、巨大な影。


鋼骨だった。


鋼骨。


その巨大な半獣人は、ゆっくりと歩き出した。


まるで山のような巨体。


鍛え上げられた筋肉の塊が、酒場の床を軋ませる。


次の瞬間。


彼の大きな手が、冒険者の腕を掴んだ。


「……え?」


男が間抜けな声を漏らす。


鋼骨は何も言わなかった。


ただ――


メキッ。


嫌な音が響いた。


冒険者の腕が、あり得ない方向へ曲がる。


「ぎゃあああああああっ!!」


悲鳴が酒場中に響き渡る。


だが鋼骨は止まらない。


レベル10の半獣人戦士。


その怪力は、人間の常識を遥かに超えている。


次に掴まれたのは、男の脚だった。


反対方向へ。


ゆっくりと。


確実に。


筋肉の繊維が引き裂かれる音。


骨が軋む音。


そして――


ボキリ。


他の客たちが息を呑む中。


男の両足は、鋼骨によって完全に反転させられていた。


つま先が、本来向くはずのない後方を向いている。


その姿は、まるで人間の身体を無理やり捻じ曲げた「ねじれた人形」のようだった。


男の叫び声は、あまりの激痛によって途中で掠れる。


反転した足は力なく宙で震え、身体は歪んだ形で床へ崩れ落ちる。


鋼骨は、低い声で言った。


「主人の決めた掟は――掟だ」


そして。


ゴキリ。


最後の音。


男の背骨が折れた。


完全に力を失った身体は、閉じた貝殻のような姿勢になり、鋼骨によって店の外へ投げ飛ばされる。


霧に包まれた深海色の海へ。


大きな水音ではなかった。


ただ、小さな水飛沫だけが夜の港へ消えていった。


店内は静まり返る。


しかし。


カウンターの奥にいた辰は。


満足そうに小さく頷いた。


そして、先ほど拒絶していた女性ダークエルフ店員を呼ぶ。


彼女が落ち着けるように、自然な動作で裏手へ通した。


「申し訳ありません」


辰は客たちへ言う。


「少々、店内の掃除が入りました」


その言葉を聞いた瞬間。


店内の常連客たちは、一斉に笑い出した。


「またかよ!」


「港の外から来た馬鹿は本当に懲りねぇな!」


「この店のルールも知らずによく入ってくるもんだ!」


誰も怯えていない。


誰も騒がない。


むしろ、いつもの出来事として酒を飲み続けている。


ある者は外の海へ消えた冒険者を笑いながら。


ある者は辛口の清酒を豪快に飲み干しながら。


数秒後。


先ほどまでの騒動は、完全に消えていた。


他のダークエルフ店員たちは、何事もなかったように長い箒と布巾を持ってくる。


割れた酒瓶を片付ける。


床に残った血を拭き取る。


まるで――


先ほど起きた人体の破壊が。


ただの簡単な掃除だったかのように。


「……これが」


ミリサは呆然とするレオンを見る。


「これが……【脱皮の一杯】よ」


彼女は、レオンの剣の柄に置いていた手を。


ようやくゆっくりと離した。



その時。


黒い漆塗りの木皿が、彼らのテーブルへ運ばれてきた。


黒い陶器の長皿。


その上に乗っていたのは、一匹の秋刀魚。


皮は香ばしく焼かれ、わずかに焦げ目がついている。


横には新鮮な檸檬の薄切り。


そして、味付け用の白い海塩。


黒い椀には、熱々の味噌汁。


レオンはそっと箸でかき混ぜた。


すると。


それはまるで、嵐の後に海底の砂が舞い上がるように。


汁の中で様々な具材がゆっくりと広がっていった。


これが。


レオンにとって初めて味わう味噌汁だった。


普段飲んでいる濃厚なスープや肉汁とは違う。


塩味。


だが、ただ塩辛いだけではない。


海の香りが、幾重にも重なって舌の上を流れていく。


半透明になるまで煮込まれた大根。


豆腐。


乾燥魚を砕いたもの。


海藻。


しかし、そこには海水のような苦味はない。


代わりに。


土と穀物が発酵したような、優しい香りが口いっぱいに広がる。


その温かな汁は、深霧城特有の湿った空気を押し流していくようだった。


まるで身体に溜まった余分な水分を、汗として外へ追い出してくれるように。


そして。


青白い縦縞模様の茶碗。


その蓋を開けた瞬間。


中に入っていたものを見て、レオンは首を傾げた。


鏡のように滑らかな表面。


「……バター?」


そう思った瞬間。


「熱っ!?」


口に入れた途端。


強烈な熱が舌を襲った。


慌てて口を開き、息を吐く。


しかし。


それはバターではなかった。


卵。


だが、ただの卵料理ではない。


過熱しすぎた卵特有の臭みはなく。


代わりに濃厚な旨味が広がる。


さらに奥へ箸を進める。


そこには。


小さな鶏肉。


蛤。


そして琥珀色に透き通った銀杏。


まるで宝探しだった。


一口進めるたび。


新しい発見がある。


「茨の恩寵……」


レオンは感動した声を漏らした。


「こんなに美味いもの……俺は初めて食べた」


「まさか……ダークエルフたちは、普段から深淵でこんな料理を食べているのか?」


再び茶碗蒸しの熱さに驚きながら呟く。


それを聞いたメルフィは笑った。


「まさか」


「ダークエルフが深淵で普段食べているのは、光る苔とかだ」


「これはたぶん……」


彼はカウンターを見る。


「酒ばかり飲んでいる、あの店主の故郷の料理だろうな」


カウンターでは。


辰の手元にある酒杯は、一度も空になっていなかった。


飲み干せば。


三秒もしないうちに。


背中を大胆に露出した絹衣のダークエルフ店員が、自然に酒を注ぐ。


辰はその辛口の清酒を、水のように飲んでいた。


表情一つ変えず。


乱れることもなく。


長い呼吸のまま。


その様子に気付いたのか。


黒髪の蛇妖は、レオンへ視線を向ける。


そして。


小さく笑った。


隣で酒を注いでいた女性ダークエルフを、軽く抱き寄せる。


しかし彼女は拒絶しなかった。


むしろ楽しそうに笑い。


冷たい指先で辰の唇をなぞる。


だが。


カウンターの反対側。


グラスを磨いていたヴィサスが、冷たい視線を向けた瞬間。


女性ダークエルフは危険を察知した兎のように身を翻した。


悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべながら。


するりと辰の腕から抜け出していく。


「……」


レオンは妙なことに気付いた。


なぜか。


ヴィサスの視線が。


辰を切り刻もうとしているように見えた。


「……パキッ」


その瞬間。


レオンの手の中にあった木匙へ、ひびが入った。


冒涜。


これは、何という異端なのか。


治安維持隊に所属する見習い聖騎士レオンは。


椅子に座ったまま、完全に固まっていた。


彼が信じてきた正義。


彼が守ってきた戒律。


彼が学んできた神殿の教え。


それら全てが。


この酒場に存在する。


種族を超え。


性別を超え。


生死という禁忌すら超越した――


奇妙で。


妖しく。


そして不思議な調和によって。


音を立てながら、崩れ始めていた。

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