第三章 血塗(ちぬ)れの麻袋(あさぶくろ)と鯖(さば)の塩焼き(しおやき
数日後。
レオンは他の聖騎士たちと共に、街道の巡回任務に就いていた。
深霧城は湿気が多いことで知られている。その日も、街全体を覆うような濃霧が発生していた。さらに激しい豪雨が霧を押し固め、視界はわずか数メートル先すらも霞むほどだった。
聖騎士たちの身に纏う環状鎧は、雨に打たれた泥水によって汚れていた。
その泥の中には、鼻を刺すような悪臭が混じっている。
それが裏路地の抗争で流れた血なのか、それとも腐った鼠の死骸から染み出した汚水なのか、もはや判別することすらできなかった。
そんな濁った街並みの中で、ひときわ目立つものがあった。
「脱皮の杯」。
その酒場の入口に吊るされた深紅の提灯は、霧の中でも松明よりも鮮明に浮かび上がっていた。
それを見たレオンの先輩聖騎士は、露骨な嫌悪を込めたため息を漏らした。
まるで、その店の存在そのものが気に入らないと言わんばかりに。
「まったく……あの酒場は本当に汚らわしい場所だ。聞いた話では、中で客を相手にしているのはダークエルフばかりらしいぞ。それに店主も、男だろうが女だろうが見境なく手を出すような下種だそうだ」
その言葉を聞き、レオンは兜の下で小さく頷いた。
「先輩。実は俺も一度、中へ入ったことがあります。噂通りでしたよ。店主は……あのダークエルフたちを平然と抱き寄せていました」
そう言いながら、レオンは入口脇に立つ二人の獣人の護衛へ視線を向けた。
あの時の記憶が、わずかに蘇る。
旅の冒険者。
彼が背骨をへし折られた時の、あの鈍い音。
それは今でも、レオンの耳の奥にこびり付いていた。
「ふん」
先輩聖騎士は鼻を鳴らし、剣の柄へ手を添えた。
泥濘へ踏み込んだ革靴が、ぬちゃりと嫌な音を立てる。
「団長が城主から捜索許可証を手に入れれば、いずれあの場所も潰される。地下の邪悪な種族を匿う巣窟など、放置しておく理由はない」
レオンは答えなかった。
雨水が兜の隙間から入り込み、冷たい雫が首筋を伝う。
だが、先輩は知らない。
今この瞬間、レオンの空腹に苦しむ胃袋が、あの「汚らわしい酒場」で食べた小さな茶碗蒸しの味を、正直なほど鮮明に思い出していることを。
あれは、彼が初めて口にした、チーズよりも滑らかな卵料理だった。
あまりにも美味しくて。
聖騎士である自分が食べていいものなのかと、少し罪悪感を覚えるほどだった。
巡回を続けようとした、その時。
聖騎士たちが「脱皮の杯」の近くにある二つ目の路地を通り過ぎようとした瞬間だった。
突然。
強烈な悪臭が鼻を突いた。
先頭を歩いていた先輩聖騎士が、足を止める。
「……待て」
眉間に皺を寄せ、周囲を見渡す。
「なんだ、この臭いは?」
黒い路地には、雨水と混じった血の臭いが漂っていた。
裏社会の争いで流された血。
腐った鼠の死骸。
そんなものが混ざり合った最悪の環境ですら、その異臭は圧倒的な存在感を放っていた。
それは、高湿度の中で狂ったように発酵した腐肉の臭いだった。
レオンは先輩の肩越しに前方を見た。
二つの山積みになった粗大ゴミの間。
そこには、一つの巨大な麻袋が静かに横たわっていた。
雨水を吸い込み、すでに布は腐り始めている。
袋の隙間からは、暗黒色の血液が絶え間なく染み出していた。
「レオン。確認してこい」
先輩は鼻と口を覆いながら、一歩後退した。
嫌悪を隠そうともせずに。
「……了解です」
レオンは息を止め、重い足取りで近づいた。
戦靴が泥水の溜まった場所を踏み抜く。
ぱしゃり、と音が響いた。
その泥水は赤黒く染まっていた。
そして次の瞬間。
レオンの爪先が、麻袋へ触れた。
中には明らかに重量のある何かが入っている。
激しい雨に打たれているにも関わらず、袋から流れ出る血は止まらない。
不安と好奇心が入り混じった感情を抱きながら。
レオンは麻袋を開いた。
豪雨が瞬間的に布を洗い流した。
そして露わになったものを見た瞬間。
レオンの呼吸が止まった。
そこにあったのは――。
四肢を残酷なまでに折り曲げられ、身体を丸めるようにして詰め込まれた、ダークエルフの少女の遺体だった。
灰白色に変色した顔。
雨に濡れた瞳は、死の瞬間の恐怖をそのまま残したように、虚空を見つめていた。
明らかに栄養失調で、骨と皮だけになった身体。
そこには、無傷な場所など一片たりとも存在しなかった。
無数の切り傷。
鞭で打たれた痕。
そして、煙草の火を押し付けられたような火傷の跡。
その傷口には、白い蛆虫が蠢いていた。
その光景から、レオンは目を逸らすことができなかった。
――たった二十メートル先。
「脱皮の杯」の店内では。
地下へ一階分まるごと掘り下げて造られた海水池の中で、一匹の海蛇が穏やかな眠りについていた。
大妖の権能によって守護されたその場所。
十五銀貨もする高級な鰻料理を与えられ、周囲には【違反者、四つ折りにする】という警告札まで貼られている。
美しく整えられた珊瑚礁の上で、店の愛玩用の海蛇は何の不安もなく眠っていた。
店の外では。
同じくダークエルフでありながら。
野良犬一匹にも劣る扱いを受けた少女がいた。
闇社会の者たちに弄ばれ。
身体を壊され。
ゴミ捨て場へ投げ捨てられ。
腐敗していく死体となって。
同じ種族の存在が、わずか二十メートルという距離の中で、まったく違う運命を迎えていた。
「……うっ」
極限まで磨き上げられた楽園。
そして、底辺にある血塗れの残酷。
その二つが、若き聖騎士の精神の中で激突した。
レオンの顔から血の気が引く。
彼は勢いよく兜を外した。
銀色の髪が雨の中へ流れ落ちる。
そして、汚れた壁の煉瓦へ必死に手をつきながら、下水へ向かって激しく吐き戻した。
「ちっ……なんだ、地底のゴミか」
背後から、先輩聖騎士の冷たい声が響く。
「わざわざ無光の深淵から出てきて、地上でゴミみたいに死ぬとはな。自業自得だろう」
その言葉を聞いた瞬間。
レオンの胃はさらに締め付けられた。
酸っぱい胃液と共に。
彼の中で長年積み重ねてきたものが崩れていく。
決して砕けないと思っていた盲目的な信仰が。
豪雨と濃霧に包まれた暗い路地で。
乾いた音を立てて、粉々に砕け散った。
雨が容赦なく、兜を外したレオンの銀髪を叩く。
冷たい雨水。
額から流れる汗。
そして、頬を伝う涙。
それらすべてが混ざり合い、彼の顔から流れ落ちていった。
レオンは下水溝に吐き出したものを見つめる。
そして振り返る。
そこには、嫌悪に満ちた表情を浮かべる先輩聖騎士がいた。
剣すら抜こうとしない。
確認する価値すらないと言わんばかりの、冷たい目。
神殿は言った。
地底の種族は、すべて邪悪なる者たちの手先であると。
神殿は言った。
聖騎士の使命とは、弱き者を守り、公義を示すことであると。
レオンの震える指が、胸元の聖徽へ触れる。
豪雨の中でも輝きを失わなかった、聖なる紋章。
「……なんて、皮肉なんだ」
これが。
これこそが。
お前が信じてきたものなのか。
人々の苦しみを背負うと謳う、茨の主よ。
貴方は世界の苦難を分かち合うと言った。
無力な魂をすべて守護すると言った。
ならば。
この、骨と皮だけになったダークエルフの少女が。
地下の売春宿で煙草の火を押し付けられ。
鞭で打たれ。
苦痛の声を上げながら死んでいった時。
貴方の「正義」は、どこにあった?
高らかに掲げたその聖なる光は。
深霧城の汚れた闇の片隅を、一度でも照らしたことがあったのか?
――否。
その光が照らす場所は。
主教堂の黄金に輝く天井。
信徒から捧げられる供物を受け取りながら、死者を「ゴミ」だと吐き捨てる聖職者たち。
そして、ダークエルフを害虫のように扱う者たちだけだった。
「行くぞ、レオン!」
濃霧の向こうから、先輩の苛立った声が響く。
「こんな汚い場所、一秒でも長くいたくない」
鉄製の環状鎧がぶつかる音。
それは死んだような路地裏の静寂の中で、異様なほど冷酷に響いた。
レオンは答えなかった。
俯いたまま。
かつて清らかで、盲目的な信仰の炎を宿していた瞳。
その光が。
少しずつ。
少しずつ。
冷たく沈んでいく。
地底の光すら届かない深淵のように、黒く。
「……カチッ」
小さな音がした。
だが、その音はレオンの魂の奥底では、雷鳴よりも大きく響いた。
胸に掛けられた聖徽。
嵐の中でも決して消えなかったはずの神聖な光。
それが二度、弱々しく瞬いた。
そして。
燃え尽きた灰のように。
完全に消えた。
残ったのは、ただの冷たい金属片だった。
聖光が彼を見捨てたのか。
それとも。
彼自身が、神の目の前で盲目的な信仰を握り潰したのか。
その答えを、レオン自身はもう理解していた。
彼はゆっくりと腰を上げる。
そして、先輩聖騎士が去っていった方向を見ることはなかった。
代わりに。
豪雨ですら消し去ることのできない濃密な霧の向こう。
二十メートル先に静かに灯るものへ、視線を向けた。
暗闇の中で燃える。
血のように赤く。
それでいて、不思議なほど温かな光。
「脱皮の杯」の深紅の提灯だった。
その瞬間。
若き聖騎士レオンは。
人生で初めての。
そして、最も苦痛に満ちた「脱皮」を終えた。
◇
「脱皮の杯」の扉が、荒々しい音を立てて開かれた。
レオンが蹴り開けたのだ。
全身を覆う鎧からは雨水が滴り落ちている。
だが、その靴底にこびり付いた黒い泥には。
あの少女の腐敗した遺体から漂っていた臭いが、まだ残っていた。
店内の客たちは一斉に入口へ視線を向ける。
しかし。
カウンターの奥にいた辰店主は、ただ片手を上げた。
それだけで。
鋼骨と砕牙へ、手出しする必要はないと伝える。
「お前……!」
砕牙が一歩踏み出そうとする。
だが。
「分かっている」
辰店主が静かに遮った。
彼が吐き出した白い煙は、空中で細長く揺らめき。
まるで小さな蛇が曲がりくねるような形を作った。
「明日になれば、あの麻袋は誰かが片付ける」
その言葉を聞いた瞬間。
レオンの表情が歪んだ。
彼は拳を振り下ろす。
「ドンッ!」
カウンターを激しく叩いた。
その衝撃で、近くに置かれていた酒器が跳ね上がり、中の清酒が今にも零れそうになる。
「なぜ助けなかった!!」
レオンの声が店内に響いた。
「なぜ、あの子を見捨てたんだ!」
「お前は……!」
息を荒げながら、彼は辰店主を睨みつける。
「お前は、これだけ多くのダークエルフを雇っているじゃないか!」
「なのに、どうして……!」
「どうして、そんな平然とした顔でいられるんだ!」
しばしの沈黙。
辰店主は小さく笑った。
そして、煙管を陶器の皿へ静かに置く。
「なぜ俺が助けなければならない?」
金色の蛇の瞳が、細くなる。
「小さな聖騎士」
「よく聞け」
「俺は慈善家ではない」
「俺は商人だ」
辰店主はカウンターの奥から歩み出る。
そして、海水池の横にある手すりへ寄り掛かった。
ゆっくりと。
何でもない動作のように。
彼は魚へ餌を撒く。
まるで宝石のように透き通った海水の中。
色鮮やかな熱帯魚たちが、一斉に集まってくる。
その光景は。
一枚の絵画の中で踊る色彩のようだった。
「俺は店にいる二十人のダークエルフを雇った」
辰店主は淡々と語る。
「それは事実だ」
「彼女たちは全員、元々は娼館にいた」
「店を始めたばかりの頃、俺は人手が必要だった」
「優雅で、美しく、素早く動けて、そして忠誠心を持つ者たち」
「それが、彼女たちだった」
辰店主は海水池の中を見つめる。
「だからここへ迎え入れた」
「今では店の人員も安定している」
「だが……」
僅かに。
彼の声が低くなる。
「彼女たちは、もうここから離れられない」
「この店を出れば」
「外にいる連中は、あの麻袋の中身と同じ運命を彼女たちへ与える」
辰店主は微笑んだ。
その背後。
色とりどりの珊瑚と海藻が、特殊な魔力灯に照らされて鮮やかに揺らめいている。
生命に満ちた海水池。
美しく整えられた楽園。
そして。
店の外。
腐った鼠の死骸と共に朽ちていく少女の遺体。
その距離は。
わずか二十メートルだった。
「……商人?」
レオンの身体が震える。
拳を握り締めた環状鎧が、ぎしりと音を立てる。
靴底に残った腐肉の臭い。
雨水。
そして店内に漂う、焼き魚の香ばしい油の匂い。
あまりにも対照的な二つの臭いが混ざり合う。
「それは……命だぞ」
レオンの声は震えていた。
「お前にとっては」
「虐げられた者たちは……ただ計算するだけの数字なのか?」
辰店主は答えた。
「……違うのか?」
その瞬間。
金色の蛇眼が細くなる。
そして。
巨大な古代の威圧感が、突然店内を満たした。
目に見えない重圧。
山のような存在感。
それがレオンの肩へ叩きつけられる。
若き聖騎士の膝が、崩れそうになる。
彼は必死に耐えた。
辰店主の声が、静かに響く。
「外の世界とは、そういうものだ」
「小さな聖騎士」
「神殿はお前たちから信仰を奪う」
「闇社会は奴隷たちから命を奪う」
「そして俺は――」
「この二十人のダークエルフから、忠誠と労働力を得る」
「違いなどない」
辰店主の笑みが消える。
その声は、地下深くの氷のように冷たかった。
厨房の奥から、炭火が爆ぜる音が聞こえていた。
ダークエルフの料理人たちは、慎重に小さな扇で風を送りながら火加減を調整している。
白く燃えた炭の上で揺れる橙色の炎。
その上で焼かれていく鯖の身から、じわりと脂が滴り落ちる。
「ジュウ……」
香ばしい匂いが店内へ広がる。
しかし、その美しい料理の音は。
今のレオンにとって、残酷なほど耳障りだった。
辰店主は続ける。
「俺が彼女たちを救った理由は単純だ」
「彼女たちは、この店で働き」
「グラスを磨き」
「酒を運び」
「価値を生み出すことができたからだ」
「だが……」
辰店主は、静かに入口の方向へ視線を向ける。
「外に転がっている、すでに蛆が湧いたあの娘は違う」
「彼女には、俺の店まで這い出てくる力すらなかった」
「俺の庇護を求めるなら」
「まずは、自分自身の力で地獄から這い上がり、俺の扉を叩く必要がある」
「それすらできない者は――」
辰店主は淡々と言った。
「運も、力も足りなかった敗者だ」
「……敗者」
その言葉が。
レオンの胸を焼いた。
精巧に造られた楽園のような海水池の前で。
まるで聖典に描かれた天国のような光景の中で。
辰店主が吐いた言葉は、毒蛇の牙よりも深く突き刺さった。
「俺は聖人ではない」
辰店主は言う。
「本当に人を救うべきなのは――」
「お前たち聖職者だ」
そして。
彼はわずかに身を屈めた。
優雅に。
静かに。
まるで秘密を囁くように。
レオンの耳元へ問いかける。
「それとも?」
「お前たちにとって、救う価値のある『人』の中には……」
「ダークエルフは含まれていないのか?」
――ドン。
その瞬間。
レオンの頭の中で、何かが弾けた。
聖光魔法を真正面から受けたかのような衝撃。
耳鳴り。
視界の揺れ。
頭の中を支配する混乱。
先輩聖騎士の言葉。
『地底のゴミだ』
『自業自得だろう』
そして。
辰店主の静かな問い。
『ダークエルフは人に含まれていないのか?』
その二つが重なる。
そして。
狂気じみた嘲笑へと変わった。
レオンは俯いた。
そして。
突然、小さく笑った。
「……は」
「はは……」
自分でも理解できない。
壊れたような笑いだった。
ゆっくりと手を上げる。
胸元へ触れる。
そこにあるはずの聖徽。
かつて暴雨の中でも神聖な光を放っていたそれは。
今では完全に温度を失っていた。
黒く。
冷たく。
ただの死んだ鉄片のようだった。
「これが……」
「俺が信じていたものなのか」
茨の主。
苦しむ者を守ると謳った神。
弱き者を救うと語った存在。
だが。
目の前にある現実は何だったのか。
焼き上がった鯖が、客たちの前へ運ばれる。
食客たちは不器用に箸を使い、焦げ目のついた皮を割く。
その下から現れる、白く柔らかな魚の身。
本来ならば。
食欲を刺激する、美しい料理の光景。
しかし。
レオンの脳裏に浮かんだのは。
あの少女の身体だった。
灰色になった皮膚。
無数の傷。
蠢く蛆虫。
「……っ」
胃が反転する。
しかし。
吐くものは何も残っていなかった。
ただ、身体だけが拒絶反応を起こす。
レオンはその場に膝をついた。
辰店主は眉をひそめる。
「……見苦しいな」
彼は煙管で陶器の皿を軽く叩いた。
「コツン」
その音を聞いた瞬間。
傍で待機していた砕牙が動いた。
巨大な緑色の半獣人の右手。
それはまるで小動物を掴むかのように。
レオンの首元の環状鎧を一瞬で掴み上げた。
「ぐっ……!」
若い聖騎士の身体が宙へ浮く。
抵抗する暇すらない。
そして。
砕牙はそのまま。
レオンを店の外へ向けて投げ飛ばした。
「ドンッ!」
扉が開く。
次の瞬間。
冷たい豪雨が再び彼を包み込んだ。
汚れた泥水。
黒い霧。
そして。
あの少女の死臭を残した雨。
すべてが、彼の鎧を打ち付ける。
辰店主は入口まで歩み寄ることもなく。
店内から静かに言った。
「小さな聖騎士」
「腹が落ち着いたら、また焼き鯖でも食べに来るといい」
その微笑みは。
轟く雷鳴によって掻き消された。




