第一章 全滅(ぜんめつ)と味噌汁(みそしる)
ミリサ。
彼女はレベル2の神官だった。
かつて彼女には、温かな仲間たちがいた。
隊長を務める戦士。 そして、自ら彼女を誘い入れてくれた盗賊。
その新人パーティーは、高難度の依頼をこなせるほど強くはなかった。
それでも彼らは信じていた。
少しずつ経験を積み重ねれば、いつの日か銀級冒険者の一員になれるのだと。
あの日の依頼も、本来なら簡単なものだった。
下水道に巣食う巨大鼠の討伐。
だが――深霧城の地下に広がる下水道に潜んでいたものは、巨大鼠やゴブリンだけではなかった。
腐行者。
数十対もの昆虫のような節足を持つそれは、湿った下水道の壁を高速で這い回り、「ザザザ……」という不快な音を響かせていた。
巨大で醜悪なその身体は、異常に肥大化したヤスデと蛆虫を掛け合わせたような姿。
全身は革のように硬く、病的な黄緑色をした粘つくキチン質の外殻で覆われている。
その表面には下水道の汚泥、人間の排泄物、そして腐敗した死体から流れ出た脂がこびり付き、弱々しい松明の光を受けるたび、吐き気を催すような油膜の輝きを放っていた。
そして今――
その怪物は、ミリサの盗賊の仲間を生きたまま喰らっていた。
目は存在しない。
あるのは、無数の返し牙が並んだ円形の肉挽き機のような口だけ。
その口の周囲には、全長一メートルにも及ぶ八本の白い肉質の触手が伸び、蛸の足のように絶えず蠢いていた。
触手の表面から分泌されるのは、腐った果実のような微かな甘い匂いを持つ粘液。
それは極めて強力な麻痺毒だった。
先ほど戦士の隊長は、その触手に触れただけで身体の自由を奪われた。
指一本動かせない。
呼吸すら困難になった彼の姿は、まるで生きたまま蝋人形にされたかのようだった。
そして――
下水道の奥から、さらなる音が響く。
「ザザザ……カチ、カチ……」
硬質な節足が石壁を引っ掻く、不気味な音。
仲間がまだ増える。
「……逃げろ」
戦士隊長は、地面に崩れ落ちたミリサを見た。
彼女の未熟な神聖術では、この麻痺毒を解除することはできない。
恐怖で身体は動かず、ただ震えている。
だが、腐行者はそんな彼女を気にも留めなかった。
戦士の変わり果てた声だけが、何度も彼女の耳を叩く。
「逃げろ……!」
彼女は走った。
涙を流しながら。
謝罪の言葉を飲み込みながら。
転び、這いつくばり、それでも必死に。
ミリサは一人で下水道から逃げ出した。
冒険者ギルドへ戻った時、彼女は仲間たちの冒険者証すら持ち帰ることができなかった。
受付係は驚かなかった。
悲しみもしなかった。
ただ淡々と、事務処理を行うだけだった。
まるで、この街では何度も繰り返されてきた光景だと言わんばかりに。
そして渡された補償金。
二枚の金貨。
それは仲間たちの命そのものだった。
ミリサはふらつく足取りで歩いた。
悪名高い港湾地区へ。
そこには、霧に包まれた街の中でひどく目立つ、二つの赤い提灯があった。
異国の文字が書かれた、不思議な酒場。
【脱皮の一杯】。
入口に立つ二人の半獣人の用心棒――鋼骨と砕牙は、ミリサを一瞥した。
純白だった神官服の裾は、下水道の悪臭を放つ泥で汚れている。
その瞳には光がなく、生まれたばかりの子鹿のように震えていた。
二人は彼女を止めなかった。
ただ、道を開けた。
ミリサは震える足で敷居を越える。
そして向かった。
数日前、仲間たちと共に座った長机へ。
あの日。
彼らが注文したのは、この店で最も安く、それでも腹を満たせる料理。
三味飯おにぎり――2sp。
三人で、一つずつ分け合った。
その時、戦士は笑いながら言っていた。
「俺たちが成功したらさ。その時は二階に行こうぜ。この店で一番高い、属性強化付きの神酒を飲むんだ!」
――今。
そこにいるのは、彼女一人だけだった。
「ご注文は?」
声をかけてきたのは、ヴィサスという名の男性のダークエルフだった。
彼は白い蛇の紋様が描かれた、深い色合いの着物を身に纏っている。
彼は何も尋ねなかった。
何があったのか。
なぜ一人なのか。
仲間はどうしたのか。
そんな言葉は一切口にしない。
ただ、静かに注文を聞くだけだった。
なぜなら――
これは深霧城では、決して珍しい光景ではないからだ。
ミリサは答えられなかった。
涙が止まらなかった。
やがて彼女は、小さな声で注文する。
「……一番安い味噌汁と……白いご飯を……」
しばらくして運ばれてきた味噌汁。
その中には、本来なら存在しないものが浮かんでいた。
脂の乗った、大きな鮭の頭肉。
明らかに、メニューには載っていない一品だった。
「今日は鮭が多く入ったものでして。……よろしければ、召し上がってください」
そう言ったのは、ヴィサスだった。
理由を説明することもない。
慰めることもない。
ただ、それだけ。
カウンターでは、店主――辰がいつものように煙管を吹かしていた。
黒い髪。
黒い蛇鱗模様の着物。
それは、この酒場では毎日繰り返される当たり前の日常だった。
金色の瞳には、哀れみも同情も浮かんでいない。
「食え」
辰は短く言った。
「飯も食わずに死んだら、お前の仲間たちは無駄死にになるぞ」
ミリサは箸を握った。
白米は涙で濡れ、いつしか米粒の形を失い、まるで粥のようになっていた。
それでも彼女は食べ続けた。
ヴィサスは何も言わず、ただグラスを磨いている。
余計な慰めなど、彼は与えなかった。
「……どうして……」
ミリサの震える声。
「どうして……私だけ……」
辰は少しだけ顔を向け、顎に手を添えた。
「食え」
そして続ける。
「その後で、生きろ」
「それが、お前たち生き残った者が背負うものだ」
「期待も、重さもな」
辰はミリサの前に置かれた料理を見る。
「その汁に入っている鮭も」
「その茶碗の中の米粒も」
「お前が一口食べるたび、お前はそれらの重さを背負っている」
「それが――生きるってことだ」
ミリサは理解した。
彼女は生きなければならない。
例え臆病者でも。
逃げ出した卑怯者でも。
彼女は、生き残された。
だからこそ。
背負わなければならない。
彼女は思い出した。
かつて、この席で語られた隊長の大きな夢。
仲間たちと過ごした、くだらなくも温かな笑い声。
だから決めた。
戦う。
強くなる。
そして――
失った仲間たちの願いを背負って、生きていく。
ミリサは冒険者を辞めなかった。
三日間、彼女は泣いた。
それは、かつての仲間たちを弔うための時間だった。
そして四日目。
彼女は新たなパーティーを探した。
彼女は過去から学んだ。
斥候や盗賊よりも細かく地面を確認する。
罠の痕跡を見逃さない。
曲がり角では必ず足を止め、待ち伏せの可能性を探る。
そして敵が潜んでいるなら――
聖光で先に視界を奪う。
もう、装飾用の杖は持たなかった。
聖典も手放した。
代わりに彼女が手にしたのは、盾と鉄棘付き戦槌。
かつて後衛で震えるだけだった神官の少女は、もう存在しない。
そこにいるのは――
戦槌で怪物の頭蓋を叩き潰す、戦闘神官だった。
数ヶ月後。
ミリサは新たな仲間たちと共に、再び下水道へ向かった。
彼女の聖光は食屍鬼の肉体を焼き焦がした。
聖騎士の盾は、腐敗した死者たちを粉砕する。
遊撃手の矢は、食屍鬼の腐った脳を貫き、骨が露出した手を壁へ縫い付ける。
魔術師の火球は、群れとなった食屍鬼を炎の中へ飲み込んだ。
そして最後の一匹が、少女神官の足元まで這い寄った時。
ミリサは無言で鉄棘付き戦槌を振り下ろした。
ぐしゃり、と。
食屍鬼の頭蓋が砕ける音が響いた。
今度は――
誰も死ななかった。
ミリサは新しい仲間たちを連れて、再び【脱皮の一杯】へ向かった。
今度の彼女は、俯かなかった。
胸を張り、堂々と黒妖精の店員へ注文する。
「秋刀魚定食を四つ」
今度の味噌汁には、鮭の頭肉は入っていなかった。
そこにあるのは、基本の具材。
海藻。
刻んだ葱。
豆腐。
そして――
椀の底を探しても、細かな魚の身が少し残っているだけだった。
ミリサはカウンターを見る。
そこには辰がいた。
彼は彼女の視線に気付くと、わずかに笑った。
そして、静かに煙管を持ち上げる。
鮭の入っていない味噌汁。
それは、生き残った者への祝福だった。
なぜなら辰には分かっていた。
目の前にいる少女はもう――
誰かの憐れみを必要とする存在ではないのだ。




