序
「ようこそ、【脱皮の一杯】へ。
ここでは、思う存分楽しんでいってくれて構わない。 ただし――俺の掟を守り、飲んだ分の代金をきっちり払うことだ。
ここは神殿じゃない。 誰もお前の罪を許しはしない。
それでも掟を破ろうとする愚か者や、勘定を踏み倒そうとする賢いつもりの連中には……
半獣人の用心棒に、お前の骨を三つに折らせた後、深霧城の港へ放り込み、鮫の餌にしてやる。」
――【脱皮の一杯】酒場の主人・辰
神々ですら穢れを嫌う暗黒港湾都市――「深霧城」。
そこでは悪意は安価で、命は壊れかけている。
裏路地ではギャングが少女の死体を投げ捨て、神殿では聖なる天蓋の下で貪欲な金貨の数を数えている。
この街に救世主など存在しない。
あるのは、決して晴れることのない濃霧と、冷たい泥沼だけだ。
だが、そんな街の灰色の境界には、赤い提灯の灯りを一年中絶やさない酒場の扉がある。
その名は――【脱皮の一杯】。
店主は、冷酷で、女好きで、自らを「中立・悪」と称する謎めいた蛇妖。
店員を務めるのは、光に弱い体質を持ち、影の中でグラスと短剣を磨く闇の妖精族たち。
聖印を引き裂き、信仰を捨てた背教の聖騎士。
仲間を全滅させた過去を背負い、聖書を置いて武器を手に取った神官の少女。
十二代もの教皇に仕えながら、まもなく命の灯火が消えようとしている老いた半妖精の枢機卿。
邪竜を討ち滅ぼした代償として、呪いに蝕まれ続ける伝説の孤臣。
――傷だらけになりながらも、この世界に蔓延る悪意と闇に屈することを拒んだ者たち。
彼らは一人、また一人と、その扉を押し開いていった。
カウンターの前。 木製の卓上には、澄み切った清酒と、精巧に作られた料理が並ぶ。
路地の外には腐敗した死体が転がり、 扉の内側には、宝石のように輝く水槽と、丸々と肥えた海蛇がいる。
ここでは、食事はただの食事ではない。
それは死者が残した重みであり、 それでも生き続ける者たちが、この世界へ叩きつける最後の抵抗なのだ。
「腹いっぱい食え。涙を拭け。 明日の朝日が昇ったら――俺たちはまた出る。 この地獄みたいな街を、徹底的にぶち壊すためにな」
――【脱皮の一杯】店主・辰




