第7話 絶対零度
「勇、お前にとってチェスはなんだ?」
聞こえてきたのは父さんの声。
いつだったか、今と同じことを父さんから聞かれた。
「俺にとってはな、人生みたいなもんなんだ。俺の側にはずっとチェスがあったからよ。いつもな……。それで、お前にとってはどうなんだ? 父さん聞いてみたくてよ」
「うーん? 難しいよー」
「はははっ、確かにまだ早かったか」
「あっ、でもわかった。僕に取ってはねー……」
幼い頃の僕はどう答えたんだっけな……もう忘れてしまった。
蘇るあの頃の日々、父さんとよく対局して、あれやこれやと二人で日夜研究していた。没頭しすぎて、二人してよく母さんに怒られてたっけ。ははは、懐かしいや……。
——!!
突然、目の前に浮かんでくる父さんの幻影。
父さんはいつもの調子で陽気に語りかけてくる。
「なんだ勇そんな顔して、らしくねぇぞ。久しぶりのチェスはどうだ?」
「まぁまぁだよ、いつも通り。ただプレイするだけ……ただの……ゲームさ……」
話しながらうつむく僕の頭に、ポンと手を置いてくしゃくしゃと撫でる父さん。
その手の温かさに目頭が熱くなる。
「……嘘だよ、悔しいよ! 悔しいに決まってるだろ! 勝ちたいよ! 僕に取ってチェスは家族の絆、宝物なんだ! 例えどんな相手にだって負けてたまるもんかよ!」
微笑む父さん。
「やっぱり……やっぱり捨てられないよチェスは。楽しくて悔しくて面白くて……いろんな感情が湧いてくる。僕はまだ……戦える。そして必ず……勝つ!」
「そうだ、それでいい勇。考えろそして感じるんだ。とことん楽しめ!」
暖かな日差しが二人を優しく照らす。
あぁそうだ……父さんはこんなふうに温かくて穏やかな空気を纏っていたんだった。
「勇くん! 勇くん!」
ハッと我に帰ると焦る良々が見える。
タイマーの示す残り時間はあと僅か。
ここが勝負時、最善の一手を探るんだ!
深呼吸を一つ、ギアを上げる!
『超感覚・絶対零度!』
思考、集中、直感が一気に研ぎ澄まされる、言わゆるゾーン状態。
パリ…パリパリ…
漂う空気が震え、氷点下へと一気に叩き落とされる。気づくと部屋の中はあちらこちらから伸びた氷に埋めつくされ、極寒に閉ざされている。良々と部長はそんな錯覚を覚える。
「ガタガタ……な、なんか寒くないかナ?」
「ううっ、ガタガタ…た、たしかに」
氷のように冷たく静かな勇の表情、カッと見開いた目に闘気が宿る。
見えた! これが最高最善、逆転の一手!
勇はフaポーンを突いてハナちゃんのクイーンを攻撃。このピンチに防御ではなくむしろ攻撃に転じたのである。
「Oh my god! なぜ守らないのですか! あり得ない!」
「君のクイーンの刃を折った。もはやどこにも攻められやしない。攻撃こそが最大の防御だと気付いんだよ」
「すごい……」
ハナちゃんのクイーンを角に追いやった勇は、なおも攻撃の手を緩めない。
守りが外れ無防備になったc6ポーンをクイーンで攻撃し、ハナちゃんの陣を食い破る。圧倒的なプレッシャーを放つ最強の駒は全方位を射程に捉える。
「ハナちゃン、うううっ(泣)……」
「Wait! まだです」
ハナちゃんはビショップでなおも攻撃を行う。しかしその攻撃は悪あがきにしかならない。
勇は瞬きもせず。白クイーンで黒クイーンを執拗に追いかける。
たまらず防御に全リソースを割くハナちゃん。
その時だった、唐突にクイーンを自陣に戻す勇。
「プス……プスプス……」
「やったよハナちゃん! よく守ったネ!」
「No 違います、ご主人様。これはおそらく…」
勇はクイーンをキング側に展開する。
これは僕の戦略、ハナちゃんはクイーン側に駒を集中させて防御した。つまり反対側、守備が手薄になったキング側を攻める。これができるのもクイーンの圧倒的な機動力のおかげだ。
ハナちゃんはルークを皮切りに、守備に回していた軍勢を攻撃に転じさせ、クイーン側に総攻撃を仕掛ける。
「そうだハナちゃん! 攻撃し続けるんダ!」
「悪いけど……無駄だよ」
クイーンサイドで激しい駒の取り合いが行われる。最終的にハナちゃんのビショップが勇の陣深くに侵入した。しかし、しょせんそれだけだ。
連携の取れていない攻撃は弱く、なんの脅威にもならない。好きに暴れさせておけばいい。
逆に勇はクイーンによるキング側への攻撃にナイトとビショップを加え、ハナちゃんのキングを着実に脅かす。なんて美しい駒の連携。
「プス……ボン!」
「ねぇちょっと! コンピュータから煙出てるわよ!」
「まだ、まだだヨ、こんなはずじゃ!!」
「ねぇ聞いてる!?」
聞く耳をもたない部長は食い入るようにモニタを見つめ歯ぎしりを始める。
ハナちゃんは強引にクイーンを侵入させ、勇のキングを攻撃する。
「やった! 初めてのチェック(王手)! どうだ勇くン!」
「……だから無駄なんだよ」
ハナちゃんの駒の連携はガタガタ。そこから繰り出される攻撃など、勇にとっては、もはや降る雪のように軽い。キングを動かして容易くかわす。
「終わりだ……凍りつけ」
氷が風に舞い吹き荒れる。
勇は黒のキングを守っていた最後のポーンをビショップで崩し、その喉元に刃を突き立てる。<Bf7+>
しばらくの沈黙。
もはやこれ以上の戦いは不毛か、熱暴走寸前だったコンピュータがだんだんと沈黙していくのを3人は感じた。
「……Congratulation これ以上は意味がありません。勇様、私の負けです」
ふぅーーーー
「グッドゲーム、楽しかったよハナちゃん」
「やったーー!! すごいわ勇くん!」
「そ、そんなぁ……ハナちゃんが、ボクが頑張って育てた自信作がぁ(泣)」
緊張が解け、張り詰めた顔に生気が戻る。
いつの間にか部屋はいつも通りの様相に戻っていた。
その時、良々が後ろからガバッと抱きついてくる。
「やったね!」
「ってうわ何すんだよ!」
顔を背けて赤くなった頬を隠す。
その横でガックシとうなだれている部長の肩に手を添える。
「部長、ありがとう。心から楽しかった」
胸の奥から湧き上がる興奮が冷めやらない。勝利を味わうこの感覚、快感、何にも変えられやしない。
そして5年ぶりだろう、退屈な日々ですっかり凝り固まった僕の顔から、こんなにも心からの笑顔が溢れたのは。
その後の勝負も僕が2連続でハナちゃんを下し、(3—0)で僕が完勝した。
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