第5話 肩慣らし
良々はワクワクした様子で、駒を初期配置に並べている。
「これであってる?」
「あぁバッチリだ。じゃあ白か黒、つまり先攻か後攻かを決めるぞ。握りトスでな」
「握りトス?」
「本来はコイントスで決めるんだが、ない場合は……」
僕は白と黒のポーンを一つずつ取り、良々に見えないよう背中でそれぞれ左右の手に握る。その後良々の目の前に握った拳を差し出す。
「そういうことね、じゃあ右!」
右の拳をそっと開くと黒のポーンがあった。
「ということは、私が黒で勇くんが白ってことね」
「そう、飲み込みが早いな」
「天才美少女ですから」
「はいはい……」
***
「てな訳で良々さんよ、肩慣らしといかせてもらおうか」
「ふっふっふっ、かかってきなされ」
勝負のゴングがどこからともなく鳴り響いた。
まず白番先攻の僕が指した手は<e4>
つまりキングの前のポーンを上げた。
「ふーん、そうするのがいいの?」
「まぁ初手はいろいろあるが、e4はその中でも王道の指し手だ。なぜかわかるか?」
「カッコいいから?」
な訳あるか。
「チェスってのは64マスある訳だが、全てのマスが等しい力を持つ訳じゃない。土地で考えれば分かりやすくてな。例えば水源の近くにある土地は発展しやすく、大きな文明が築かれたって聞いたことあるだろ? そんな感じでチェスにも強い土地がある。どこだと思う?」
「……真ん中とか?」
「大正解。真ん中つまりセンターはe4、e5、d4、d5の4マスある。ここを支配することが勝利への近道なんだ。センターに戦力を集中させられれば、広いマスに攻撃できるからな」
「なるほどね」
メモまで取り出して真剣に話を聞く良々。
「つまり、ポーンをe4と突くことでセンターのe4とその斜め前のd5マスを支配できるってこと」
「それだったらナイトを動かすのもアリってこと?Nc3にすればe4やe5のマスを攻撃できるじゃん」
驚いた、本当に理解が早い。良々って意外とすごいやつなのか?
「あぁ、悪くない。しかしe4にはもう一つ利点がある。それが後ろの駒の道を開けられることだ。ナイトを動かすとそれまでだが、ポーンを動かすことで、ビショップやクイーンの道が開くだろ」
「確かに」
「『センターの支配』以外にも大事なことがある。それが『展開』だ。駒をいかに早く広く展開できるか、ポーンやその後ろの駒を前に出して領土を広げられるかが重要だ。現実でもそうだろ、誰よりも早く土地を広げればその分あらゆる面で有利になる」
「そっか、後ろの駒が動きやすくなるわけね。それじゃあ……」
良々が真似をしてキングの前の黒ポーンを突く。<e5>
そう、同じ利益を得るには同じ手を返せばいいということだ。
次に僕は先ほど開けた道からビショップをc4に展開する。
「ビショップをc4に動かすこの展開はオープンゲームの中でも『ビショップオープニング』と呼ばれる定跡だね」
「定跡?」
「定跡っていうのは、こういった手にはこう返すのがいいよというのが決められた手だよ」
「ふーん」
良々はこの手に対しても同様に真似をする。
「真似するねぇ」
「悪い? これも作戦よ。ありよね?」
「ああ大いにありだ。だけど、いつまでも真似できるかな?」
僕はビショップに続いてクイーンも前進させる。
「さて君のポーンはe5にあるが、そのポーンはどの駒からも守られていない。こういった無防備で孤立したポーンは『孤立ポーン』と呼ばれる。僕のクイーンがこのポーンに狙いを定めているのがわかるかい?」
「……確かにこれじゃ真似作戦はできないかも、守らなきゃ……あっ、いいこと思いついた!」
良々がクイーンの前のポーンを動かす。
「これだわ、これならポーンを守れるもの。しかもしかも、クイーンの横にいるビショップの道を開けることができた。展開ができるってことよね!」
「……さすがだよ良々、君を舐めていた。これは流石に打つ手なしだ」
「えっ? なになに私の勝ち? じゃあジュース……」
「なんてな!!」
僕はクイーンでf7のポーンを取る。<Qxf7#>(#はチェックメイトの意味)
ポーンは一見すると全部横一列で同じように見えるが、実はf7のポーンは守ってくれる駒がキングしかいない。つまり狙われやすい弱い土地なのだ。
マナーの悪いことだが、つい勢い余ってクイーンを盤に叩きつけてしまった。静かな教室に、バーンと音が鳴り響く。
「チェックメイト(詰み)」
「はぁー!? キングの逃げ場は……って無いじゃない!」
頭を抱える良々。
「キングで僕のクイーンを取ってもc4のビショップが守ってるから無理だぞー。まぁ初心者がよくやるミスだ。自分のキングが安全かまず確かめる癖をつけないとな」
「あなたまさか、これを気づかせないようにポーンの話をしたのね! 勇の卑怯者、クズ、あんぽんたん!」
顔を真っ赤にして激昂する良々。
そんな姿を見ていると、思わず吹き出した笑いが止まらない。
「笑うな!」
「ごめんって、ジュースは奢るからさ」
……あれ僕……笑えたんだ。チェスをして、まだ笑えるんだな……。
「あはは、っ、あは……は」
視界が急に歪み、笑いと共に溢れ出てくる熱い雫。
自分が嬉しいのか悲しいのかわからなくなる。
「勇くん……」
そんな光景に良々が心配そうな顔をする。
***
夕暮れ時の帰り道、一緒に下校している僕と良々。
涙の跡を見せまいと良々の少し前を歩く。
「本当に大丈夫?」
「悪い、なんでもない、なんでもないんだ。ただ久しぶりにやったチェスが意外と楽しくてさ」
「勇くん、なんでチェス辞めちゃったの? 勇くんがあんなにも笑ってるところなんて見たことなかったから、ちょっと驚いちゃった」
「まぁいろいろあってさ。しっかしたった4手で終わったのにチェスをしたっていうのも変か」
「ああもう! ほんと失礼ね! ぐびぐび」
さっき買ってあげた地味に高いオレンジジュースをいっき飲みする良々。
なんか不思議だな。高校生活で人と関わる気なんて全くなかったのに、こうしてクラスメイトと二人で帰るだなんて。
父さんが見たらどう思うんだろうな……。
しばらく沈黙していると良々が口を開いた。
「ねぇ明後日、本当に部長に勝てるの?」
「さぁな、チェスの神様がどっちに微笑むか次第だ」
「そ、でも勝ってくれなきゃ困るわよ」
「応援してくれてるのか?」
「違うわよ! あんたが勝手にデートの権利を賭けたからでしょうが!!」
あぁそういえばそうだった
「まぁ応援もしてるわよ一応。頑張んなさいよ」
そういって良々は僕の背中をバチンと叩く。
「いて! 何するんだよ!」
良々に文句を言おうと振り向いた瞬間、良々の細く繊細な指先が僕の目にかかっていた前髪をかき上げた。彼女の綺麗な瞳が至近距離で僕を見つめてくる。なんだか少し憂いを帯びた表情で。
あっけにとられた僕は動揺を隠しきれず、目を丸くしたまま動けなくなった。
「いい顔するじゃない、勇」
「……っ!」
良々の聞いたこともない穏やかで甘い声に不覚にもドキッとしてしまった僕は、その手を振り払いとっさに後ずさる。
顔がぶつかるほどの距離、とても近かった。
心臓がバクバク音を立てて鳴り止まない。
しかもシャンプーの香りだろうか、すごくいい匂いがした。
「ふふっ、赤くなった。おもしろ」
「くっ! からかうなよ……ったく」
「えーっ? 赤くなってんじゃん、ほれほれ」
「うるせ」
平然を装い、夕暮れに染まる帰り道を歩き始める。
橙にゆらめく太陽が僕たちの背後に長い長い影を伸ばしていた。




