第9話
琴葉と蓮が席へ着くと、俺は二人の前へ水とメニューを置いた。
「注文が決まったら呼んでくれ」
「悠人のおすすめは?」
「甘いものなら季節のフルーツタルト。飲み物ならブレンドかな」
「じゃあ、私はフルーツタルトとミルクティーにする」
「俺はブレンドで」
「了解」
注文を控えてカウンターへ戻る。
それだけのことなのに、妙に疲れた。
学校では何度も二人が並んでいる姿を見ている。今さら恋人らしく一つのテーブルを囲んでいる程度で、動揺するはずがない。
そう思いたかった。
「春日井君」
氷室が俺を呼び止める。
「今の注文、わたくしが厨房へ伝えておきます」
「氷室は客だろ」
「では、メモをお預かりします」
「なんで?」
「あなたがあの二人の近くにいる必要を減らすためです」
「注文を運ぶのは俺の仕事なんだけど」
「店長さんにお願いして、担当を変えていただきます」
「勝手に業務体制を変更するなよ」
俺が呆れていると、夏目が小さく手招きした。
「春日井、ちょっと来い」
「今度は何だ?」
「いいから」
窓際の席へ近づいた瞬間、夏目は俺の袖を掴んだ。
「お前、大丈夫なのか?」
「何が?」
「好きだった相手が、彼氏と二人で来てるんだぞ」
「もう終わった話だよ」
「終わった奴の顔じゃない」
「そんなにひどい顔してる?」
「笑い方がキモい」
「心配するなら、もう少し言葉を選んでくれ」
俺が頬へ触れると、椎名が向かい側からじっと見つめてきた。
「現在の春日井君は、悲恋小説の主人公のようです」
「褒めてる?」
「いいえ。無理に平静を装っているところが、とても痛々しいです」
「もっと悪かった」
俺としては、普段通りに振る舞っているつもりだった。
けれど三人には、どうやら隠せていないらしい。
「仕事なんだから仕方ないだろ」
「でしたら、わたくしたちが気を紛らわせます」
氷室は当然のように言った。
「どうやって?」
「話しかけ続けます」
「仕事の邪魔になるよな?」
「では、春日井君がこちらを見るたびに、わたくしが微笑みます」
「それで何が変わるんだ?」
「少なくとも、あの二人を見る必要はなくなります」
氷室の理屈は相変わらずよく分からない。
それでも俺を気遣ってくれていることだけは伝わった。
「ありがとな」
俺がそう告げると、氷室は目を見開いた。
「……何がですか?」
「気を遣ってくれてるんだろ」
「当然のことをしただけです」
顔を背けた氷室の耳が、少しだけ赤くなっていた。
「アタシにも言えよ」
「夏目もありがとな」
「軽い!」
「何を求めてるんだよ」
「私は……?」
「椎名もありがとう」
「保存しました」
「何を?」
「記憶にです」
三人に囲まれていると、胸の奥にあった重さが少しだけ薄れた。
そんな俺たちの様子を、琴葉が遠くから見ていた。
目が合うと、彼女はすぐにメニューへ視線を落とす。
注文を用意し、二人の席へ運んだ。
「お待たせしました」
「ありがとう、悠人」
琴葉はフルーツタルトを見て笑ったものの、すぐに俺の後方へ目を向けた。
「氷室さんたちとは、いつから仲良くなったの?」
「最近だよ」
「学校でも、よく一緒にいるよね」
「失恋した者同士で話が合うだけ」
「それ、朝も言ってたけど……」
琴葉はフォークを持ったまま、俺を見上げた。
「悠人の好きだった人って、本当に誰なの?」
「まだ気にしてたのか?」
「気になるよ。幼馴染だもん」
幼馴染。
以前なら、その言葉だけで嬉しかった。
今は、俺たちの間に引かれた境界線のように聞こえる。
「言ってどうするんだよ」
「相談に乗れたかもしれないし」
「もう終わったから必要ない」
「でも――」
「琴葉」
蓮が柔らかく声をかけた。
「悠人が言いたくないなら、無理に聞くのはやめよう」
「……うん」
琴葉は納得していない様子だったが、フォークでタルトを切り分けた。
蓮は申し訳なさそうに俺を見る。
「悪いな」
「蓮が謝ることじゃないよ」
「悠人は昔から、自分のことを話さないからな」
親友から見ても、俺はそういう人間らしい。
何も言わず、何も求めず、ただ近くにいればいつか伝わると思っていた。
今考えれば、実に都合のいい考えだった。
「悠人」
琴葉が切り分けたタルトをフォークで持ち上げた。
「一口食べる?」
「いや、仕事中だから」
「昔はよく交換してたじゃん」
「昔は昔だろ」
俺が何気なく断ると、琴葉の手が止まった。
「……そっか」
彼女はフォークを自分の口へ運んだ。
その瞬間。
背後で椅子を引く音がした。
「春日井君」
氷室が伝票を持って、こちらへ歩いてくる。
「店長さんから、五番テーブルを片づけるよう頼まれていましたよ」
「そうだっけ?」
「今、頼まれました」
店長を見ると、カウンターの奥で困ったように笑っている。
どうやら氷室が勝手に作った仕事らしい。
「すぐ行くよ」
「お願いします」
氷室は俺の隣へ並び、琴葉へ静かな視線を向けた。
「水瀬さん」
「何?」
「春日井君は勤務中です。私的な会話で拘束するのは、控えていただけますか?」
「ごめんなさい。でも、私は悠人の幼馴染だから」
「存じています」
「なら、少しくらい話してもいいよね?」
「幼馴染であれば、何をしても許されるわけではありません」
氷室の言葉は穏やかだった。
けれど、普段より僅かに鋭い。
琴葉も笑顔を崩してはいないが、その瞳には戸惑いが浮かんでいた。
「氷室、もういいよ」
「ですが」
「仕事に戻るから」
俺が促すと、氷室は不満そうにしながらも席へ戻った。
夏目と椎名がすぐに彼女を囲み、小声で何かを話し始める。
「……氷室さん、悠人のことをすごく気にしてるね」
「同じ失恋仲間だからだろ」
「それだけ?」
「それ以外に何があるんだよ」
琴葉は答えなかった。
蓮も何か考えるようにコーヒーカップを見つめている。
俺は二人の席を離れ、空いたテーブルの片づけへ向かった。
その後も琴葉は何度か俺を呼ぼうとした。
けれど、そのたびに氷室が先に俺へ話しかけ、夏目が追加注文を頼み、椎名が小説の感想を求めてくる。
偶然とは思えない連携だった。
「お前ら、わざとやってないか?」
「何のことだ?」
夏目が露骨に視線を逸らす。
「わたくしたちは、普通に春日井君と会話しているだけです」
氷室は平然としている。
「私は三十八ページの比喩表現について、どうしても今すぐ感想が必要でした」
「そこ、昨日もう聞かれたよな?」
「再評価を希望します」
どうやら俺を琴葉の席へ近づけたくないらしい。
余計な気遣いだと思う。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
一時間ほどして、琴葉と蓮は席を立った。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
会計を終えると、蓮は先に店の外へ出た。
琴葉は入口で立ち止まり、俺を振り返る。
「悠人」
「何?」
「今度、二人で話せる?」
「何か用事?」
「……分からない」
「分からないって何だよ」
「でも、話したいの」
琴葉は俺の返事を待たず、店を出ていった。
窓の外では、蓮が彼女を待っている。
琴葉はすぐに蓮の隣へ並び、二人で駅の方向へ歩いていった。
「断るべきです」
背後から氷室の声がした。
「何を?」
「二人で会うことをです」
「まだ会うとも言ってないよ」
「でしたら、今のうちに断ってください」
「話くらい聞いてもいいだろ」
「恋人がいる女性が、別の男性を二人きりで呼び出すなど不誠実です」
「琴葉は、そんなつもりじゃない」
「春日井君は、いつまであの方を庇うのですか?」
氷室の声には、普段にない強さがあった。
俺が黙ると、彼女は唇を噛み、僅かに顔を伏せる。
「……申し訳ありません。言いすぎました」
「いや」
「ですが、わたくしは嫌です」
「何が?」
「春日井君が、また傷つくのを見るのが」
氷室はそう言い残し、窓際の席へ戻った。
夏目も椎名も、珍しく何も口を挟まなかった。
俺は窓の外を眺める。
琴葉と蓮の姿は、もう見えない。
俺の恋は終わった。
そのはずなのに、琴葉の言葉一つで、胸の奥には期待にも似た何かが生まれていた。
そして同時に。
氷室の悲しそうな顔が、なぜかそれ以上に頭から離れなかった。
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