第10話 幼馴染との対話
翌日の昼休み。
琴葉から届いたメッセージは、簡潔なものだった。
『今日の放課後、少しだけ時間をもらえない? 中庭で待ってる』
昨日、店で言っていた話の続きだろう。
俺は返信欄を開いたまま、しばらく指を止めていた。
話を聞くだけなら、断る理由はない。
琴葉とは幼馴染であり、今後も学校では顔を合わせる。気まずさを避け続けるより、一度きちんと話したほうがいいのかもしれない。
『分かった。バイトがあるから、長くは話せないけど』
送信すると、すぐに既読がついた。
『ありがとう』
たったそれだけのやり取りなのに、胸の奥が落ち着かなくなる。
期待しているわけではない。
琴葉には蓮という恋人がいる。
俺の恋は、もう終わった。
「春日井君」
目の前から声がして顔を上げると、氷室が俺の机を挟んで立っていた。
「先ほどから、スマートフォンを見て難しい顔をしていますが」
「琴葉から、放課後に話したいって連絡が来た」
「断りましたか?」
「会うことにした」
氷室の表情から、すっと温度が消えた。
「昨日の話を聞いていなかったのですか?」
「聞いてたよ。でも、何の用件かも分からないまま断るのは変だろ」
「用件など、聞かなくても予想できます」
「どんな?」
「自分の知らないところで春日井君に交友関係が増えたことが不安になり、以前と同じ立場を確保したくなったのでしょう」
「考えすぎじゃないか?」
「春日井君は考えなさすぎです」
氷室は俺の机に両手をついた。
周囲のクラスメイトが、何事かと視線を向けている。
「水瀬さんには高宮君がいます。それなのに、春日井君まで以前と同じように自分を優先してくれなければ不満だというのは、あまりにも身勝手です」
「琴葉はそんなこと言ってないだろ」
「だから、言われてからでは遅いのです」
「氷室」
少し強めに名前を呼ぶと、彼女は口を閉じた。
俺を心配してくれているのは分かる。
だが、琴葉のことを一方的に悪く言われるのは、やはり気分がよくなかった。
「話すだけだよ。変なことにはならない」
「……春日井君にとっての変なことと、わたくしにとっての変なことは、同じとは限りません」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味です」
氷室は俺から視線を逸らした。
「本日は、生徒会の作業があります。十五分で戻ってきてください」
「バイトまで一時間くらい余裕があるけど」
「十五分です」
「短くないか?」
「十分に譲歩しています」
何を譲歩しているのだろう。
氷室はそれ以上説明せず、自分の席へ戻っていった。
入れ替わるように、夏目が俺の机へ近づいてくる。
「なあ、春日井」
「今度は何だ?」
「氷室、めちゃくちゃ嫉妬してない?」
「誰に?」
「お前、ほんとにすごいな」
なぜか感心された。
「同じ失恋仲間として、心配してくれてるだけだろ」
「じゃあ、アタシが男と二人で話しても、氷室は怒ると思うか?」
「夏目がまた変な男に引っかかりそうなら怒るんじゃないか」
「そこまで信用ないの、アタシ?」
「真壁先輩の前で三年間も尻尾振ってたからな」
「言い方!」
夏目が俺の肩を叩く。
その後ろでは、椎名が静かにノートへ何かを書き込んでいた。
「椎名。今の会話、小説に使うなよ」
「使いません」
「本当か?」
「幼馴染との再会を前に、嫉妬する黒髪の令嬢が主人公へ十五分という制限時間を課す展開は、すでに記録しましたので」
「使ってるじゃないか」
「事実ではなく、創作の参考です」
「ほとんどそのままだろ」
俺の周囲が騒がしくなっていく一方、氷室は一度もこちらを見なかった。
ただし、手元の教科書は十分近く同じページのままだった。
♦
放課後。
俺が中庭へ向かうと、琴葉は花壇の前にあるベンチで待っていた。
俺の片想いが終わった場所と、ほとんど同じ場所だった。
「ごめんね、急に呼び出して」
「それはいいけど」
俺は琴葉から少し距離を空けて、ベンチへ腰を下ろした。
以前なら、もっと近くに座っていたと思う。
琴葉もその距離に気づいたのか、一瞬だけ俺たちの間へ視線を落とした。
「昨日、お店に行って驚いた」
「何が?」
「悠人が、私の知らない顔をしてたから」
「接客してただけだろ」
「そうじゃなくて」
琴葉は膝の上で両手を組んだ。
「氷室さんたちと話してるとき、すごく自然に笑ってた」
「琴葉たちの前でも普通に笑ってるよ」
「最近は、違うよ」
思いがけない言葉だった。
「私と蓮君の前だと、悠人はずっと気を遣ってる。笑ってるけど、前みたいじゃない」
「付き合い始めたばかりの二人に気を遣うのは普通だろ」
「私は、気を遣ってほしいなんて言ってない」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
思ったよりも強い声が出た。
琴葉の肩が僅かに震える。
「二人の間に今まで通り入って、何も変わってないみたいに振る舞えばいいのか?」
「私は……」
「琴葉は蓮を選んだ。それが悪いなんて思ってないし、二人には幸せになってほしい。でも俺まで、昨日と同じ場所にい続けるのは無理だよ」
「どうして?」
琴葉は、本当に分からないという顔をした。
俺が彼女を好きだったことを知らないのだから、当然なのかもしれない。
ここで告げれば、すべてを理解してもらえる。
俺は琴葉が好きだった。
だから距離を置いている。
たったそれだけの言葉で済む。
それでも、言えなかった。
今さら告白すれば、琴葉を困らせるだけだ。
「俺にも、俺の生活があるってことだよ」
「その生活に、もう私は必要ないの?」
「そんな話じゃないだろ」
「じゃあ、幼馴染として今まで通りでいてよ」
琴葉は俺の制服の袖を掴んだ。
昔から、俺に何かを頼むときの癖だった。
「氷室さんたちと仲良くするなとは言わない。でも、私の知らないところに行かないで」
「琴葉」
「悠人は、ずっと私の隣にいてくれたじゃん」
胸の奥で、終わったはずの感情が揺れた。
こんな言葉を、付き合う前に聞きたかった。
俺を必要としてくれる言葉を、ずっと待っていた。
だが今の琴葉には、恋人がいる。
「それはできない」
俺は、掴まれた袖から琴葉の手をそっと外した。
「琴葉の隣には、もう蓮がいるだろ」
「蓮君と悠人は違うよ」
「違うからこそだよ」
「分からない」
「分からなくても、これだけは覚えておいてくれ。俺は琴葉の都合のいい幼馴染には戻れない」
琴葉の顔が、泣き出しそうに歪んだ。
それを見て、胸が痛んだ。
けれど、謝ってしまえば、また同じ場所へ戻ってしまう。
「俺、もう行くよ」
「待って」
「バイトがあるから」
「悠人!」
呼び止める声を振り切り、俺は中庭を離れた。
校舎へ入る直前、廊下の柱の陰に誰かが立っているのが見えた。
「……氷室?」
「偶然、通りかかっただけです」
「生徒会室は反対方向だろ」
「遠回りをしていました」
氷室は平然と答えた。
ただ、その手には二本の缶ジュースが握られている。
「聞いてたのか?」
「途中から、少しだけ」
「盗み聞きじゃないか」
「春日井君が約束の十五分を越えたため、様子を確認しに来ました」
「まだ十二分くらいだぞ」
「体感では十五分でした」
氷室は俺へ一本の缶を差し出した。
甘いミルクココアだった。
「飲んでください」
「急にどうした?」
「今の春日井君には、糖分が必要です」
「夏目みたいな理屈だな」
「わたくしは、もっと論理的です」
缶を受け取ると、まだ温かかった。
氷室は俺の顔を覗き込み、静かに言う。
「よく、言えましたね」
「何が?」
「戻れないと、伝えたことです」
「聞いてたんだろ」
「はい」
「性格悪いな」
「否定はしません」
氷室はほんの少しだけ微笑んだ。
「ですが、安心しました」
「俺が琴葉を突き放したから?」
「水瀬さんのために、ご自身を傷つける選択をしなかったからです」
その言葉は、不思議なくらい素直に胸へ入ってきた。
「ありがとう」
「……また、そうやって簡単にお礼を言うのですね」
「言わないほうがよかった?」
「いいえ。もっと言ってください」
「どっちだよ」
「ただし、わたくしにだけでお願いします」
「無理に決まってるだろ」
俺たちは並んで生徒会室へ向かった。
その途中、氷室は何度も俺の顔を確認してきた。
「泣いてないよ」
「知っています」
「じゃあ、何を見てるんだ?」
「春日井君が、きちんとこちらへ歩いているか確認しています」
「子供扱いするなよ」
「放っておけば、すぐに過去へ戻ろうとしますから」
氷室の言葉に、俺は返事ができなかった。
過去へ戻ることはできない。
そんな当たり前のことを、ようやく受け入れ始めていた。
ただ、このときの俺は気づいていなかった。
中庭に残された琴葉が、俺たち二人の背中を見つめていたことに。
そして隣を歩く氷室が、俺の歩調へ合わせながら、ほんの少しだけ嬉しそうにしていたことにも。
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