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第11話 先輩が好きです

 その日のバイトは、始まる前から妙に疲れていた。


 中庭で琴葉と話し、生徒会室で文化祭の資料を整理し、氷室に半ば監視されながら学校を出た。


 それでも『アネモネ』の制服へ着替えれば、私情を持ち込むわけにはいかない。


「悠人君、今日は顔が硬いわね」


 カウンターの奥で食器を拭いていた店長が、俺を見るなりそう言った。


「いつも通りです」


「いつも通りの人は、空のトレーを三分も磨かないわよ」


 言われて手元を見る。


 俺は布巾で、食器の載っていないトレーを延々と拭いていた。


「少し考え事をしてました」


「幼馴染の彼女?」


「どうして分かるんですか」


「この前、お店に来ていたでしょう。あなたを見る目が、普通の幼馴染には見えなかったから」


「琴葉には彼氏がいますよ」


「恋人ができたからといって、それまで身近にいた人への執着が消えるとは限らないわ」


 店長は落ち着いた口調で言いながら、磨き終えたグラスを棚へ戻した。


「それに、恋愛感情と所有欲は別物よ」


「所有欲って……」


「今まで自分を一番に見てくれていた人が、別の居場所を見つけた。嬉しくない子もいるでしょうね」


 昼休みに氷室が語っていた予想と、ほとんど同じだった。


 俺より女性二人のほうが琴葉の気持ちを理解しているらしい。


「まあ、悠人君が自分で距離を決めたなら、それでいいと思うわ」


「俺、何も話してませんけど」


「顔を見れば、少しは分かるものよ」


「そんなに分かりやすいですか?」


「恋愛に関してだけは、とても」


 それは褒められていない気がした。


 開店から三十分後。


 最初に現れたのは、やはり氷室だった。


「いらっしゃいませ」


「いつもの紅茶をお願いします」


「今日は生徒会の仕事、もういいのか?」


「予定していた分は終わらせました」


 氷室はいつもの窓際ではなく、カウンターの一番端へ座った。


「そこ、珍しいな」


「春日井君の様子を確認しやすいので」


「確認する必要ないだろ」


「中庭での一件の後です。念のためです」


「もう平気だよ」


「その判断は、わたくしが行います」


 どうして失恋仲間から健康管理者へ昇格しているのだろう。


 俺が紅茶を淹れている間にも、夏目と椎名が相次いで来店した。


「春日井、パフェ!」


「今日は自分で払えよ」


「分かってるって。アタシを何だと思ってんだ」


「財布を持たずに喫茶店へ来る奴」


「一回だけだろ!」


 夏目が騒ぐ隣で、椎名は俺へ小説の束を差し出した。


「感想を、まとめましたか?」


「読む側が感想をまとめる期限まで決められるのか?」


「昨日の時点で六十八ページでした。今日は八十ページを越えているはずです」


「七十五ページ」


「遅れています」


「仕事みたいに言うなよ」


「重要なことです」


 椎名は真剣な顔でノートを開いた。


「七十ページ付近で、主人公が先輩のために作った栞を捨てようとする場面があります」


「ああ」


「どう思いましたか?」


「捨てなくていいと思った」


「なぜですか?」


「失恋したからって、そのとき好きだった気持ちまで否定する必要はないだろ」


 俺が答えると、椎名のペンが止まった。


「……そうですか」


「変な感想だった?」


「いいえ」


 椎名は視線を落とし、少しだけ頬を緩めた。


「私も、手紙を捨てなくてよかったと思いました」


 彼女が抱えていたのは、まだ届かなかった告白だった。


 それでも、今では以前ほど白い封筒を強く握り締めなくなっている。


 失恋を忘れたわけではない。


 ただ、失ったものを見るだけだった目が、少しずつ残ったものにも向き始めているのだろう。


「でも、次の作品では確実に届く告白を書きます」


「それがいい」


「相手役も、途中で別の女性を選んだりしません」


「理想を詰め込むんだな」


「はい。鈍感ですが、最後には主人公だけを見ます」


 椎名が俺を見上げた。


「どれほど他の女性に囲まれていても、です」


「ずいぶん難易度が高そうな男だな」


「……本当に、そうですね」


 なぜかため息をつかれた。


 そのとき、扉についたベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


「本当に、こちらだったのですね」


 入ってきたのは、白崎真帆だった。


 生徒会では制服姿しか見ていなかったが、今日は薄い色のカーディガンを羽織り、髪も少しだけ緩く結んでいる。


 学校よりも柔らかい印象だった。


「白崎。どうしたんだ?」


「春日井先輩に会いに来ました」


 店内の空気が一瞬で固まった。


「生徒会の用事か?」


「いいえ。私的な用事です」


 白崎は迷うことなくカウンターへ歩み寄り、俺の真正面の席へ腰掛けた。


「先輩の働いている姿を、一度見てみたかったんです」


「文化祭の参考なら、営業中の店内を見てもいいけど」


「参考も兼ねています」


「主な目的は?」


「先輩に会うことです」


 白崎は微笑んだまま、俺から視線を外さない。


 後方から、カップを置く音が聞こえた。


「白崎さん」


 氷室が静かに呼びかける。


「生徒会の一年生が、寄り道をしてよい時間ではありませんよ」


「校則上、問題はありません」


「ご家族が心配します」


「母には連絡済みです」


「宿題が残っているのでは?」


「すべて終わらせました」


 白崎は一つずつ丁寧に返していく。


「それより副会長こそ、毎日いらしているそうですね」


「わたくしは常連客です」


「いつからですか?」


「あなたに答える必要はありません」


「久世会長に振られてから、でしょうか?」


 氷室の表情が止まった。


 夏目と椎名も言葉を失う。


「白崎」


 俺は少し強めの声で名前を呼んだ。


「そういう言い方はよくない」


 白崎は一瞬だけ驚いた顔をした。


「申し訳ありません。配慮に欠けていました」


 すぐに氷室へ頭を下げる。


「副会長を傷つけるつもりはありませんでした」


「……構いません。事実ですので」


 氷室は平静を装っていた。


 けれど、膝の上で握られた手が僅かに震えている。


「氷室」


「問題ありません」


「少し休むか?」


「必要ありません」


「でも――」


「春日井君」


 氷室は俺を見上げた。


「今、わたくしを特別扱いすると、余計に惨めになります」


 その言葉に、何も返せなくなる。


 俺は氷室の痛みを知っている。


 だからこそ、傷ついた姿を見ると何かをしなければと思ってしまう。


 けれど、それが彼女の望む慰めとは限らない。


「分かった。紅茶のお代わりだけ持ってくる」


「……お願いします」


 氷室の声が、僅かに柔らかくなった。


 俺が厨房へ向かおうとすると、白崎が立ち上がった。


「先輩」


「何?」


「私にも、同じものをください」


「紅茶でいいのか?」


「はい。副会長が毎日飲んでいるものを知っておきたいので」


「どうして?」


「先輩との思い出で、負けたくありませんから」


「思い出って、俺は紅茶を運んでるだけだぞ」


「その積み重ねが大切なのです」


 白崎は笑っていた。


 だが、その瞳には冗談では済まない熱が宿っている。


「白崎さんは、春日井君に好意があるのですか?」


 問いかけたのは椎名だった。


 あまりに率直な質問に、俺まで動きを止めてしまう。


 夏目が椎名の袖を引く。


「おい、いきなり聞くなよ」


「気になったので」


「気になっても普通は聞かないだろ」


 白崎は少しだけ考えた後、俺を見た。


「あります」


 店内が静まり返った。


「え?」


「春日井先輩への好意は、あります」


 白崎ははっきりと答えた。


 氷室の目が見開かれ、夏目は口を半開きにし、椎名は慌ててノートへ手を伸ばした。


「ただし、今すぐ告白するつもりはありません」


「何が違うんだ?」


「先輩はまだ、以前の恋を引きずっていますから」


 白崎の瞳が、真っ直ぐ俺を捉える。


「そこへ無理に入り込んでも、先輩は私を見てくださらないでしょう?」


「それは……」


「ですから、待ちます」


 白崎は優しく微笑んだ。


「先輩が過去を振り返らなくなるまで、近くで待っています」


 健気な言葉だった。


 しかし、なぜだろう。


 俺にはそれが、逃げ道を塞ぐ宣言のようにも聞こえた。


「ただし」


 白崎は氷室たちへ視線を向ける。


「他の方に先を越されるつもりはありません」


「それは、わたくしへの宣戦布告ですか?」


 氷室の声から、先ほどまでの弱さが消えていた。


「副会長が、春日井先輩に何の感情もないのであれば、関係のない話です」


「何もないとは言っていません」


「氷室?」


「春日井君は黙っていてください」


「なんで怒られた?」


 夏目も立ち上がる。


「待て待て! なんで氷室だけが対抗する流れなんだよ!」


「夏目さんにも関係があるのですか?」


「それは……まだ分かんないけど!」


「では、座っていてください」


「なんか腹立つ!」


 椎名も静かに手を上げた。


「私も、春日井君を次回作の取材対象として確保しています」


「取材対象は恋愛の権利じゃないだろ」


「最後まで読んでくださると約束しました」


「それも関係ないよな?」


 三人の負けヒロインと、最初から俺だけを見ていた後輩。


 四人の視線が、カウンターの中央でぶつかり合う。


「悠人君」


 店長が厨房から俺を手招きした。


「何ですか?」


「今日から女性同士の揉め事には、手当をつけたほうがいいかしら?」


「笑ってないで助けてください」


「無理よ。あなたが原因だもの」


「俺、何もしてませんよ」


「何もしていないから、ここまで拗れているのよ」


 店長は楽しそうに笑った。


 その日、白崎真帆は正式に『アネモネ』の常連となった。


 ただし、彼女は失恋していない。


 むしろ、勝つ気しかない。


 恋に敗れた者たちのたまり場へ、初めて現れた挑戦者。


 その存在が三人の感情を、慰め合うだけでは済まないものへ変え始めていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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