第12話 好きな人の笑顔
白崎真帆が俺への好意を公言した翌日。
教室へ入った瞬間から、周囲の視線が妙に騒がしかった。
「おはよう、春日井」
「おはよう」
声をかけてきた男子生徒は、俺の挨拶へ返事をするより先に、廊下のほうへ視線を送った。
その先には誰もいない。
「どうした?」
「いや、今日は例の後輩ちゃんと一緒じゃないんだなと思って」
「例の後輩?」
「生徒会の白崎さんだよ。春日井のことが好きだって、堂々と宣言したらしいじゃん」
「どうして学校中に広まってるんだ」
「昨日、喫茶店にいた陸上部の奴から聞いたって」
犯人に心当たりがありすぎた。
俺は自分の席へ鞄を置き、教室の後方を見た。
同じクラスではない夏目は、当然ここにはいない。だが陸上部の人脈を使えば、半日で校内へ噂を拡散するくらいは可能だろう。
スマートフォンを取り出すと、夏目へ短いメッセージを送る。
『白崎の話を誰かにしたか?』
返信は一分もかからなかった。
『親友一人にしか言ってない!』
『その親友は?』
『陸上部のグループにしか流してないって!』
『全員に広めてるじゃないか』
『でも春日井がモテるって宣伝になっただろ?』
宣伝を頼んだ覚えはない。
「春日井君」
スマートフォンを閉じると、目の前に氷室が立っていた。
「おはよう」
「おはようございます。その後、白崎さんから連絡はありましたか?」
「その後って?」
「昨日の宣言以降です」
「連絡先を知らないから、あるわけないだろ」
「そうですか」
氷室の表情が、僅かに明るくなった。
「ならば、今後も交換する必要はありませんね」
「生徒会の作業で必要になるかもしれないぞ」
「業務連絡は、生徒会の共有グループで十分です」
「俺、そのグループに入ってないんだけど」
「わたくしが必要事項をすべて伝えます」
「氷室を経由するほうが面倒じゃない?」
「面倒ではありません」
即答だった。
「春日井君からの質問には、時間帯を問わず迅速に対応します」
「夜中でも?」
「はい」
「寝ろよ」
「春日井君から連絡が来る可能性があるなら、起きています」
「それ、生活に支障が出るだろ」
俺が注意すると、氷室は不満そうに唇を閉じた。
白崎が好意を口にして以降、氷室の言動は明らかに変わっている。
以前は俺に対して距離が近くなっても、同じ失恋者としての連帯感だと説明していた。
しかし今では、白崎を俺へ近づけまいとする意図を隠すことすらなくなっている。
それでも、俺を好きなのかと尋ねるのは違う気がした。
氷室はつい最近まで、久世会長へ三年間の想いを抱いていたのだ。
失恋した直後は心が不安定になる。優しくされた相手へ一時的に依存することもあるだろう。
白崎の宣言に対抗しているだけで、これを恋愛感情と決めつければ氷室を困らせる。
「おい、春日井」
今度は教室の入口から呼ばれた。
そこに立っていたのは、夏目だった。
右手には購買のパン、左手にはスポーツドリンクを持っている。
「昼休みじゃないぞ」
「知ってる。朝練終わりに寄っただけ」
「それで?」
「今日の放課後、グラウンドに来てくれない?」
「バイトがある」
「十分だけでいいから」
夏目の表情から、普段の軽さが消えていた。
「真壁先輩の彼女が、今日部活に来るんだ」
「ああ……」
「前に話しただろ。先輩が紹介したいって言ってたって」
そういえば、今日だったのか。
「一人じゃ無理そう?」
「挨拶はする。逃げるつもりもない」
夏目はスポーツドリンクのボトルを強く握った。
「でも終わった後、たぶん笑えない」
「氷室か椎名に頼めば?」
「二人じゃ駄目」
「どうして?」
「春日井に来てほしいから」
教室の空気が静かになった。
何人かのクラスメイトが、明らかにこちらへ聞き耳を立てている。
「負けたときも、最後まで聞くって言っただろ」
「言ったけど」
「だったら責任取れよ」
「分かった。十分だけな」
「よし」
夏目の表情が一気に明るくなる。
「練習着姿のアタシを見て、惚れるなよ?」
「失恋した翌週に何を言ってるんだ」
「別にもう真壁先輩だけが男じゃないし」
夏目は俺を一度見てから、すぐに視線を逸らした。
「最近、少しだけそう思えるようになったんだよ」
それだけ言い残し、夏目は自分の教室へ戻っていった。
「春日井君」
「今度は何だ?」
「放課後、わたくしも同行します」
「氷室は生徒会だろ」
「作業開始を十分遅らせます」
「夏目は俺に来てほしいって言ってたぞ」
「だからこそです」
氷室は険しい表情で廊下を見つめている。
「傷ついた女性が、精神的に弱っている状態で春日井君と二人きりになるなど、危険です」
「何が危険なんだよ」
「主に、春日井君の警戒心のなさがです」
俺は何もするつもりはない。
夏目だって、失恋した相手の彼女へ挨拶した後、一人になるのが嫌なだけだ。
その程度のことだと思っていた。
♦
放課後。
グラウンドでは、陸上部の練習が行われていた。
俺と氷室は、校舎沿いの邪魔にならない場所から練習を眺めている。
「本当に来たのですね」
「言っただろ。夏目との約束だから」
「わたくしは、春日井君だけで来る必要はなかったと言っているのです」
「同じじゃないか」
「違います」
何が違うのかは、説明してくれなかった。
しばらくすると、練習が一度中断された。
グラウンドの入口から、大学生くらいの女性が入ってくる。
長い髪を後ろで一つにまとめた、落ち着いた雰囲気の美人だった。
その姿を見た瞬間、夏目の動きが止まる。
「真壁君」
女性が手を振ると、真壁先輩が笑顔で駆け寄った。
学校で見る先輩とは、少し違う表情だった。
緊張がなく、親しい相手だけへ見せる笑顔。
それだけで、二人が長い時間を重ねてきたことが伝わった。
「紹介するよ。付き合ってる美咲」
真壁先輩は部員たちを集め、嬉しそうに女性を紹介した。
夏目も、その輪の中にいる。
「初めまして。真壁がいつもお世話になっています」
「こっちこそ、陽葵には練習を手伝ってもらってばかりでさ」
「陽葵ちゃん?」
先輩に名前を呼ばれ、夏目が一歩前へ出た。
「夏目陽葵です! 真壁先輩には、ずっとお世話になってました!」
声は明るかった。
いつもの夏目と変わらない。
「話は聞いてるよ。すごく速い後輩がいるって」
「そんな、大したことないですよ!」
「真壁君、陽葵ちゃんのことをよく褒めてるの。努力家で、引退した後も安心して部を任せられるって」
「……そうですか」
夏目の笑顔が、一瞬だけ揺れた。
好きだった人から認められる。
本来なら嬉しい言葉のはずだ。
しかし今の夏目にとっては、恋人には選ばれなかったことを改めて示す言葉でもあった。
「これからも、真壁君と仲良くしてあげてね」
「はい。もちろんです」
夏目は最後まで泣かなかった。
明るい後輩を演じ、二人を笑顔で見送った。
やがて練習が再開されると、夏目は顧問へ何かを伝え、俺たちのところまで走ってきた。
「十分だけ休憩もらった」
「お疲れ」
「どうだった? ちゃんと笑えてただろ?」
「ああ」
「完璧だった?」
「完璧だったよ」
「そっか」
夏目は笑った。
次の瞬間には、目から大粒の涙が流れていた。
「おかしいな。完璧だったのに」
夏目は慌てて腕で目元を拭う。
「先輩が幸せそうで、よかったと思ったんだ。本当だよ。でも、アタシが欲しかった笑顔を、あの人には簡単に向けるんだって思ったら……」
「無理しなくていい」
「でも部活に戻らないと」
「あと十分あるだろ」
「泣き止まないと、みんなにバレる」
「だったら、隠れろ」
俺は夏目の前へ立ち、グラウンド側から彼女の顔が見えないようにした。
夏目が俺の制服の裾を掴む。
「少しだけ、このままでいて」
「ああ」
背後にいる氷室から、何も言葉は飛んでこなかった。
ただ、夏目が泣き止むまで、彼女も黙って近くに立っていた。
「……氷室も、ありがとな」
夏目が鼻をすすりながら言う。
「わたくしは何もしていません」
「春日井を独占したいとか言わないんだ?」
「今のあなたに言うほど、わたくしは性格が悪くありません」
「今じゃなければ言うんだ」
夏目は涙を流しながらも、少しだけ笑った。
「春日井」
「何?」
「アタシ、もう真壁先輩を好きなのやめる」
「簡単に決められるのか?」
「すぐには無理。でも、やめる努力はする」
夏目は掴んでいた俺の制服を、さらに強く握った。
「その代わり、次に好きになる相手は、ちゃんとアタシを見てくれる人にする」
「そうしたほうがいい」
「……本当に、分かってないんだな」
「何が?」
「何でもない」
夏目は俺から手を離し、深呼吸した。
目元は赤いままだったが、先ほどよりも表情は軽くなっている。
「もう戻る。バイト先で待ってろよ」
「今日も来るのか?」
「今日は特大パフェが必要だから」
「自分で払えよ」
「今日くらい奢れ!」
夏目はそう叫びながら、グラウンドへ戻っていった。
その背中を見送っていると、氷室が俺の隣へ並ぶ。
「春日井君」
「うん?」
「女性に制服を掴ませるのは、今後禁止です」
「俺が掴ませたわけじゃない」
「では、掴まれたら離してください」
「泣いてる相手に無理だろ」
「そう答えると思いました」
氷室は深くため息をついた。
「本当に、油断できません」
その日の『アネモネ』では、夏目が過去最大のパフェを注文した。
そして氷室は、その向かい側の席を一度も譲らなかった。
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