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第6話 連絡先の交換と貼り紙

 翌日の放課後。


 バイト先である喫茶店『アネモネ』へ出勤した俺は、入口の扉を見た瞬間、その場で足を止めた。


『恋の負け犬たちのたまり場』


 昨日、椎名が冗談半分で作った貼り紙が、透明なフィルムに包まれて扉の中央へ堂々と掲示されていた。


 文字の周囲には、折れたハートや雨に濡れる犬のイラストまで添えられている。


 手書きだった昨日よりも、明らかに完成度が上がっていた。


「……なんでラミネート加工されてるんだよ」


「長期的な運用を想定しました」


 声のしたほうを見ると、入口横のベンチに氷室が座っていた。


 膝の上には生徒会の鞄と、ラミネートフィルムの空箱が置かれている。


「運用するな。ここは学校の施設じゃないぞ」


「昨日の紙は春日井君がすぐに剥がしてしまいましたから。耐久性に問題があったと判断しました」


「問題は耐久性じゃなくて、貼る行為そのものなんだよ」


「題字は私が書きました」


 氷室の隣から、椎名が顔を出した。


「氷室さんが文字の配置とイラストを調整し、私が清書しました。共同制作です」


「力を合わせる方向を間違えてない?」


 椎名は満足そうに貼り紙を眺めている。


 一方、夏目はスマートフォンを構え、様々な角度から写真を撮影していた。


「よし、学校のグループチャットに流すか」


「やめろ! 今すぐ消せ!」


「もう三つのグループに送った」


「行動が早すぎる!」


 俺が貼り紙を剥がそうと手を伸ばした、そのときだった。


「悠人君」


 背後から、妙に穏やかな声が聞こえた。


 振り向くと、店長の白石美冬(しらいし・みふゆ)さんが立っていた。


 三十四歳。


 肩まで伸びた柔らかな茶髪に、落ち着いた雰囲気をまとった美人である。普段は滅多なことでは怒らず、客への対応も完璧だ。


 ただし、本気で怒ったときほど笑顔が美しくなるという、非常に恐ろしい特徴を持っていた。


 今の店長は、これ以上ないほど綺麗に微笑んでいる。


「これは何かしら?」


「俺も今、確認していたところです」


「恋の負け犬たちのたまり場、と書いてあるわね」


「見れば分かりますね」


「うちのお店、いつから保健室になったの?」


「俺に聞かないでください」


 店長は貼り紙へ顔を近づけ、隅々まで確認した。


「ラミネートまでしてあるのね」


「水分や汚れにも強い仕様です」


 氷室が自信満々に説明する。


「屋外で使用しても、一か月程度は劣化しません」


「なぜ店長に性能を売り込むんだ」


「使用許可をいただくためです」


 店長は氷室と椎名を順番に見た。


「これを作ったのは、あなたたち?」


「はい」


「共同制作です」


 二人が同時に答える。


 店長は貼り紙をもう一度見てから、静かに頷いた。


「デザインは可愛いわね」


「ありがとうございます」


「でも剥がしてちょうだい」


「なぜですか?」


「ここは喫茶店だからよ」


 氷室が納得できないという顔をする。


「傷ついた生徒たちが安心して集まれる場所になることは、店側にも利益があるのでは?」


「氷室、その言い方だと、どこかの生徒会企画みたいになってるぞ」


「実際、顧客の新規開拓に繋がっています。夏目さんも椎名さんも、春日井君がいなければ来店していません」


「俺を客寄せに利用するな」


 店長は小さく笑った。


「たしかに、お客さんが増えるのは嬉しいけれどね。でも、負け犬しか入れないお店だと誤解されたら困るわ」


「勝者も受け入れます」


「夏目さん。勝手に入店基準を決めないでください」


「じゃあ、負け犬優先席を作ろうぜ!」


「電車みたいに言うな」


 三人の提案を聞き流しながら、店長は俺へ視線を向けた。


「それにしても、悠人君」


「はい」


「ずいぶん女の子が増えたわね」


「全員、失恋の相談に来ているだけです」


「そう」


 店長は氷室たちを見た。


 三人も揃ってこちらを見ていた。


「あなたはそう思っているのね」


「何か違うんですか?」


「いいえ。悠人君が気づくまでは、私の口からは何も言わないわ」


 意味深な言い方をしないでほしい。


 結局、貼り紙は入口から剥がすことになった。


 しかし処分するのは惜しいという店長の判断により、店内の掲示板の隅へ移動された。


「貼ること自体は許可するんですね」


「せっかく綺麗に作ってくれたもの。捨てるのは可哀想でしょう?」


「店長、優しい!」


「ただし、これを見て来たお客さんが問題を起こした場合は、悠人君に対応してもらうわ」


「どうして俺が責任者なんですか?」


「あなたを中心に集まっているからよ」


 その決定に、氷室たちは満足そうに頷いた。


 俺だけが何も納得できなかった。


 ※ ※ ※


 貼り紙騒動が落ち着いた後、椎名は例の小説を俺へ差し出した。


「約束通り、読んでください」


「分かってる。持って帰るよ」


「感想もお願いします」


「読み終わったらな」


「途中経過も必要です」


「読書に途中経過っている?」


「春日井君が本当に読んでいるか、確認しなければなりません」


「信用がないな」


 椎名はしばらく考えた後、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。


「では、連絡先を交換してください」


「連絡先?」


「毎日、どこまで読んだのか報告していただきます。疑問点があれば、すぐに解説します」


「作者の解説付きか。豪華だな」


「……嫌ですか?」


 椎名が不安そうにスマートフォンを胸元へ引き寄せた。


 たかが連絡先の交換で、そこまで怯える必要もないだろう。


「嫌じゃないよ。俺のほうを表示するから待ってくれ」


 俺がスマートフォンを取り出すと、椎名の表情が一気に明るくなった。


 互いの画面を読み取り、簡単なメッセージを送る。


『椎名です。よろしくお願いします』


『春日井です。ちゃんと最後まで読みます』


 それだけのやり取りだった。


 しかし椎名は送られてきた俺のメッセージを、何度も見返している。


「これで、いつでも春日井君と話せますね」


「小説の連絡だけな」


「はい。小説の連絡から始めます」


「始める?」


「何でもありません」


 椎名がスマートフォンを大切そうに鞄へしまった、その直後。


「春日井君」


 背後から氷室に呼ばれた。


 振り返ると、彼女もスマートフォンを手に立っている。


「わたくしとも交換してください」


「氷室も?」


「椎名さんとだけ交換するのは、公平性を欠きます」


「連絡先って公平性で交換するものなのか?」


「今後、この店に集まるのであれば、連絡手段は必要です。急な予定変更や、春日井君のシフト確認にも使えます」


「俺のシフトを確認する必要はないだろ」


「あります」


 即答だった。


 理由は分からないが、氷室の目は真剣だ。


「まあ、学校行事の連絡にも使えるか」


「はい。それで構いません」


 先ほどと同じように連絡先を交換すると、氷室からすぐにメッセージが届いた。


『今後とも、よろしくお願いいたします』


 俺も簡単に返信する。


『こちらこそ』


 すると氷室は、自分の画面を見つめたまま動かなくなった。


「どうした?」


「念のため、通知が正常に届くか確認しています」


「もう届いてるだろ」


「春日井君からの連絡のみ、通知音を変更します」


「なぜ?」


「他の連絡に埋もれるのを防ぐためです」


「俺から連絡することなんて、そんなにないぞ」


「これから増やせば問題ありません」


 何を増やすのだろう。


「アタシも交換する!」


 今度は夏目が割り込んできた。


「夏目は部活で忙しいんじゃないか?」


「だから必要なんだよ! 練習が長引いたとき、店が閉まる前に春日井へ連絡できるだろ!」


「それは店に電話すればよくない?」


「アタシが電話したいのは店じゃなくて春日井だから!」


「そうなのか」


「……そうだよ!」


 夏目はなぜか顔を赤くしながら、スマートフォンを押しつけてきた。


 三人目とも連絡先を交換すると、夏目はその場で一枚の写真を送ってきた。


 陸上部のユニフォーム姿で、笑顔のピースサインをしている写真だ。


「なんで写真?」


「アタシだって分かりやすいだろ」


「名前が表示されてるから分かるよ」


「じゃあ春日井も送って」


「持ってない」


「今撮る!」


「仕事中だぞ!」


 夏目に肩を掴まれ、そのまま強引に写真を撮られた。


 しかも何が気に入らないのか、三回も撮り直された。


「その写真をどうするんですか?」


 氷室が夏目の画面を覗き込む。


「連絡先の画像にする」


「削除してください」


「なんで氷室に言われなきゃいけないんだよ!」


「本人の許可なく使用するのは問題です」


「春日井、使っていい?」


「別にいいけど」


「許可が出た!」


「春日井君。そうやって簡単に自分の写真を女性へ渡さないでください」


「ただのバイト姿だぞ」


 椎名も静かにスマートフォンを差し出してくる。


「私にも送ってください」


「椎名まで?」


「登場人物の外見を考える際の、参考資料にします」


「なんの登場人物だよ」


「まだ秘密です」


 結局、その日は三人と連絡先を交換した。


 必要な連絡を取るため。


 椎名の小説を読むため。


 店に集まる予定を調整するため。


 俺はその程度にしか考えていなかった。


 だから、家へ帰ってから十分と経たないうちに、三人全員からメッセージが届いたことにも、大した疑問を抱かなかった。


『無事に帰宅しましたか?』


『今、何してる?』


『小説は何ページまで読みましたか?』


 三件の通知を眺めながら、俺は少しだけ考えた。


 失恋した人間というのは、ずいぶん寂しがりになるらしい。


 もちろん、その三人が同じ時間に俺へ連絡した理由については、まったく気づいていなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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