第5話 失恋したものたちに告ぐ!
失恋した人間を匿ってくれる喫茶店。
そんな善意と誤解に満ちた噂が校内で流れているらしい。
当然ながら、『アネモネ』にそのようなサービスは存在しない。
傷心者限定メニューもなければ、失恋回数に応じたポイントカードもない。そもそも店員である俺自身が、他人の恋愛を立て直せるほど立派な人間ではなかった。
「それで……匿っていただけますか?」
「まず、その噂について詳しく聞こうか」
椎名小夜は紙袋を抱えたまま、困ったように視線を伏せた。
肩口で切り揃えられた黒髪に、銀縁の眼鏡。小柄な身体も相まって、怯えた小動物のように見える。
「文芸部の友人から聞きました。春日井君の働く喫茶店では、恋に敗れた人間が集まり、互いの傷を舐め合っていると……」
「言い方が生々しいな」
「ここへ来れば、春日井君が甘いものを奢り、朝まで話を聞いてくれるとも」
「夏目」
「アタシじゃない!」
窓際の席から即座に否定が飛んできた。
「まだ何も言ってないだろ」
「顔がアタシを疑ってた!」
「春日井君。営業時間を越えて女性と二人きりになるのは感心しません」
隣に座る氷室が、紅茶のカップを置いた。
「特に、知り合ったばかりの女性と朝まで過ごすなど論外です」
「噂だからな?」
「万が一にも実行しないよう釘を刺しただけです」
「心配しなくても店長に追い出されるよ」
俺は椎名を空いている席へ案内した。
彼女は氷室たちから少し離れた二人掛けの席に腰を下ろしたものの、抱えている紙袋だけは手放そうとしない。
「注文は?」
「お水を……」
「ここを無料相談所にするな。何か一つ頼んでくれ」
「では、一番安いものを」
「遠慮しなくていい。今日は私が支払います」
そう申し出たのは氷室だった。
夏目のパフェ代を支払ったばかりなのに、今度は椎名の分まで出すらしい。
「氷室、金持ちだな」
「傷ついた方を追い返すほど薄情ではないだけです」
「アタシには帰れって言ったじゃん」
「あなたは放っておいても帰りませんから」
「正解!」
夏目は胸を張った。
威張るところではない。
椎名が注文したのは、ホットミルクだった。
俺が厨房から戻ると、氷室と夏目は椎名の向かい側へ移動していた。
二人とも初対面に近いはずなのだが、失恋したという一点だけで警戒心が薄れているらしい。
「それで、誰に負けたんだ?」
「夏目さん。初対面の相手に聞く言葉ではありません」
「でも、それ聞かないと始まらないだろ」
「もう少し婉曲な表現を使うべきです。たとえば、どのような経緯で恋が実らなかったのですか、と」
「長いだけで同じ意味じゃん」
二人に見つめられ、椎名は紙袋の中から一冊の分厚い冊子を取り出した。
表紙には、『君が栞を挟んだ場所』と印刷されている。
「小説か?」
「はい。私が書きました」
コピー用紙を重ね、紐で丁寧に綴じた手製の本だった。
厚さだけなら、教科書よりも上だ。
「これを、文芸部の三年生である篠崎先輩へ渡したんです」
「小説で告白したのか?」
「正確には、小説の最後に手紙を挟みました」
椎名は表紙を指先でなぞった。
篠崎先輩は文芸部の部長であり、椎名が入学した頃から小説の書き方を教えてくれた人物らしい。
人前で話すことが苦手な椎名にとって、作品を読んで感想をくれる先輩は特別な存在だった。
直接気持ちを伝えられない彼女は、半年かけて一冊の恋愛小説を書き上げた。
主人公の少女が、憧れていた先輩へ想いを告げる物語。
登場人物の名前こそ変えていたものの、その内容は椎名自身の気持ちそのものだったという。
「昨日、先輩から感想をいただきました」
「それなら読んでくれたんだろ?」
「はい。とても丁寧に」
椎名は鞄から数枚の便箋を取り出した。
細かな文字で、作品への感想がびっしりと書かれている。
「文章が以前より読みやすくなった。主人公の感情表現がよかった。終盤の告白場面は、特に心に残った……そう言ってくださいました」
「成功してないか、それ?」
夏目が首を傾げる。
俺も同じ疑問を抱いた。
半年かけて書いた恋愛小説を読ませ、物語のモデルとなった先輩から絶賛されたのだ。
ここから失恋する方法など、そう多くはない。
「最後の手紙には、何と書いたのですか?」
氷室の問いかけに、椎名は俯いた。
「好きです。小説の主人公ではなく、私自身の気持ちとして受け取ってください、と」
「十分伝わると思うけど」
「手紙は、読まれていませんでした」
「え?」
「先輩は……栞だと思ったそうです」
沈黙が落ちた。
手紙が挟まれていたのは、物語の最後。
普通なら読了した時点で気づくはずだ。
「落ちていたのを、先輩の彼女さんが拾ったそうです」
椎名の声が、小さく震えた。
「今日、返していただきました」
抱えていた紙袋から取り出された白い封筒は、まだ封がされたままだった。
宛名は篠崎先輩。
けれど、それが本人に開かれることはなかった。
「先輩、彼女いたのか?」
「はい。先月から、お付き合いされているそうです」
「椎名さんは知らなかったのですか?」
「先輩は自分のことをあまり話さない方なので……」
篠崎先輩の彼女は、椎名の手紙を読むことなく返してくれたらしい。
そして柔らかな口調で、自分たちは付き合っているのだと教えた。
篠崎先輩本人は、今も小説に告白が隠されていたことを知らない。
「言おうと思えば、言えました」
椎名は封筒を両手で握り締めた。
「彼女さんがいることは知らなかった。これは先輩に渡した手紙だから、読んでほしいって……でも、言えませんでした」
「どうして?」
「先輩が、嬉しそうに彼女さんを迎えに行ったからです」
その光景を見るだけで、十分だったのだろう。
自分の気持ちを伝えたところで、結果は変わらない。
それどころか、好きな人を困らせてしまう。
だから椎名は何も言えず、未開封の告白を持ち帰った。
「小説だけは褒めてもらえました」
椎名は笑った。
「私の気持ちは、物語としてなら綺麗だったみたいです」
それは泣くよりも痛々しい笑顔だった。
「でも現実の私は……物語の主人公にもなれませんでした」
「そんなことないだろ」
気づけば、俺はそう口にしていた。
椎名が驚いたように顔を上げる。
「相手に届かなかっただけで、半年かけて書いた気持ちまで偽物になるわけじゃない」
「ですが……」
「俺なんて五年も好きだったのに、何も残してないからな。椎名は少なくとも、一冊書き上げただろ」
「春日井君。それは励ましになっているのでしょうか」
「分からない」
「相変わらず不器用だな!」
夏目に笑われた。
俺は他人を正しく励ます方法など知らない。
ただ、何もできなかった自分と比べれば、椎名が積み重ねた半年まで敗北と呼ぶのは違うと思った。
「その小説、俺に読ませてくれないか?」
「え?」
「せっかく書いたんだ。誰にも読ませなくなるのは、もったいないだろ」
「春日井君が……読んでくださるのですか?」
「ああ。ただ、俺は小説に詳しくないから、ちゃんとした感想は期待するなよ」
椎名は冊子を胸へ抱き寄せた。
「……最後まで、読んでくださいね」
「分かった」
「途中でやめたら、許しません」
「急に圧が強くなったな」
「感想も、一ページごとに欲しいです」
「一冊分だよな?」
「連絡先を交換してください。読み終わるまで、毎晩進捗を確認します」
「監視が始まってないか?」
先ほどまで消え入りそうだった椎名の瞳に、わずかな光が戻っていた。
元気になったのなら何よりだが、代わりに妙な執着まで目覚めさせた気がする。
「春日井君」
氷室が静かに俺を呼んだ。
「女性から連絡先を求められて、簡単に応じるのはどうかと思います」
「小説の感想を送るためだろ」
「目的があれば、誰とでも交換するのですか?」
「必要ならな」
気づけば、店内は騒がしくなっていた。
氷室玲奈。
夏目陽葵。
椎名小夜。
好きな相手の隣を目指し、それぞれ違う形で敗れた三人。
そして告白すらできずに終わった俺。
「これで四人ですね」
氷室が店内を見回す。
「何が?」
「春日井君を含めた恋愛敗北者の人数です」
「もっと綺麗な呼び方ないの?」
「失恋四天王!」
「夏目さん。その名称は、増員できないので却下です」
「負け犬同盟……」
椎名が小さく提案した。
「それは自分たちを卑下しすぎでは?」
「じゃあ、『恋の負け犬たちのたまり場』でよくないか?」
俺が冗談半分で口にすると、三人は揃ってこちらを見た。
「採用です」
「分かりやすいな!」
「物語の題名のようで、悪くありません」
「採用するな。そもそもここは俺の店じゃない」
その日の閉店後。
店の入口には、いつの間にか椎名が作った小さな紙が貼られていた。
『恋の負け犬たちのたまり場』
すぐに剥がしたが、翌日には氷室がラミネート加工したものを持ってきた。
夏目は勝手に校内で宣伝を始めた。
そして俺は、この三人が失恋から立ち直るまでの間だけならと、深く考えずに彼女たちを受け入れた。
もちろん、そのときの俺は知らなかった。
氷室が俺のシフトを一か月先まで把握していることも。
夏目が毎朝、俺と登校するために遠回りを始めることも。
椎名の次回作で、主人公の相手役が俺と同じ名前になっていることも。
彼女たちが過去の恋を忘れるほど、次に向ける感情が重くなっていくことも。
何一つ、気づいていなかった。
俺はただ、負けた者同士が傷を舐め合っているだけだと思っていたのだ。
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