第3話 もう1人の負けヒロイン!?
氷室玲奈が『アネモネ』へ通い始めてから、一週間が経った。
その間、彼女が店に来なかった日は一日もない。
「氷室。生徒会は暇なのか?」
「失礼ですね。業務を効率的に終わらせているだけです」
放課後五時。
窓際の席に座った氷室は、紅茶のカップを傾けながら涼しい顔で答えた。
テーブルの上には、生徒会の書類が綺麗に重ねられている。どうやらここを第二の生徒会室にするつもりらしい。
「学校でやったほうが早くない?」
「生徒会室には久世会長がいますので」
「ああ……」
「気を遣わないでください。わたくしは、もう何とも思っていません」
そう言いながら、氷室はクッキーを噛み砕いた。
粉々だった。
失恋から立ち直るには、もう少し時間が必要らしい。
「それより春日井君。明日はシフトに入っていますか?」
「入ってるけど」
「明後日は?」
「休み」
「では、わたくしも来ません」
「別に俺がいなくても店は営業してるぞ」
「知っています」
「じゃあ、なんで来ないんだ?」
「……注文を覚えていない店員に接客されると面倒ですから」
氷室がいつも頼むのは、砂糖なしの紅茶だ。
店長を含め、全員がすでに覚えている。
だが指摘すると機嫌を損ねそうなので、俺は黙っておくことにした。
失恋直後の彼女にとって、俺は傷を共有できる相手なのだろう。
同じ敗者同士だから居心地がいい。
それ以上の意味などないはずだ。
「春日井!」
店の扉が勢いよく開いたのは、その直後だった。
ベルが悲鳴のような音を上げる。
入口に立っていたのは、陸上部の夏目陽葵だった。
肩まで伸びた茶髪を後ろで結び、制服の上から陸上部のジャージを羽織っている。普段なら校内のどこにいても声が聞こえるほど元気な少女だ。
しかし今日の夏目は、肩で息をしていた。
「どうしたんだよ」
「水! とにかく水!」
「ここは給水所じゃないぞ」
「客に水も出さないのか、この店は!」
「まだ席にも座ってないだろ」
夏目は俺の案内を待たず、カウンター席へ飛び乗るように腰掛けた。
その瞬間、窓際から氷室の冷たい声が飛んでくる。
「店内では静かにしてください」
「うわっ、氷室! なんでいるんだよ!」
「客です」
「生徒会副会長が一人で喫茶店? 寂しい奴だな!」
「紅茶を飲み終えたら、あなたを社会的に処理します」
「春日井、この女怖い!」
「俺に助けを求めるな」
水を差し出すと、夏目は一息に飲み干した。
「生き返ったぁ……」
「それで、何があった?」
「別に何もない」
「何もない奴は、そんな必死な顔で喫茶店に駆け込んでこないだろ」
「走るのは日課なの!」
「鞄は?」
「部室!」
「財布は?」
「鞄の中!」
「無銭飲食じゃないか」
俺が呆れていると、夏目はカウンターへ突っ伏した。
いつもなら日焼けした肌に健康的な赤みがあるのに、今日は妙に顔色が悪い。
「春日井ってさ」
「うん?」
「男だよな」
「その確認から始める?」
「好きでもない女子から告白されたら、どう思う?」
俺は答える前に、夏目の表情を見た。
どうやら冗談ではないらしい。
「相手によるんじゃないか」
「たとえば、後輩」
「嬉しいとは思う。でも好きな相手がいるなら、断るしかないだろ」
「そっか」
夏目は顔を伏せたまま、指先で空のグラスを回した。
彼女が陸上部の三年生、真壁先輩に好意を抱いていることは有名だった。
毎朝一番にグラウンドへ行き、先輩の練習を手伝う。
大会前には手作りのお守りを渡し、夏休みには一緒に自主練習もしていたらしい。
周囲から見ても、二人の距離は近かった。
「今日、告白するのか?」
「なんで分かるんだよ」
「顔に書いてある」
「どこに?」
「目の下辺り」
夏目は慌てて顔を擦った。
本当に書いてあると思ったらしい。
「今日、先輩の引退ミーティングがあるんだ。終わったら、二人で話す約束しててさ」
「じゃあ、こんなところにいていいのか?」
「急に怖くなった」
夏目は小さな声でそう言った。
普段の彼女からは想像できない、弱々しい声だった。
「先輩は優しいから、断るときも絶対に優しいんだ。だから嫌なんだよ。冷たく振られたほうが、諦められるだろ」
「まだ振られるって決まったわけじゃない」
「でも先輩、最近よくスマホ見て笑ってるんだよな。アタシが話しかけても気づかないくらい」
恋をしている人間は、相手の些細な変化によく気づく。
俺は琴葉の嬉しいときの癖を知っていた。
氷室は久世会長の好む飲み物まで把握していたという。
夏目もきっと、何かを感じ取っているのだろう。
「告白しないのも選択肢だぞ」
俺が言うと、夏目はゆっくりと顔を上げた。
「春日井は、告白しなかったんだっけ」
「ああ」
「後悔してる?」
琴葉と蓮が付き合い始めてから、一週間。
二人が一緒にいる光景にも、少しずつ慣れてきた。
だが、それは痛みが消えたわけではない。
ただ痛まないように、見ないふりが上手くなっただけだ。
「してるよ」
俺は正直に答えた。
「告白しても結果は同じだったと思う。でも、言っておけばよかったとは思う」
「そっか」
「ただ、これは俺の場合だ。夏目がどうするかは、自分で決めろ」
「逃げたくせに偉そうだな」
「うるさい」
夏目はしばらく黙っていた。
やがて勢いよく顔を上げると、自分の両頬を叩いた。
「よし。行ってくる!」
「財布を持ってからな」
「水代はツケで!」
「水は無料だよ」
夏目は入口まで駆けていき、扉を開ける直前に振り返った。
「春日井!」
「なんだ?」
「アタシが勝ったら、なんか奢れよ!」
「なんで俺が?」
「背中押した責任!」
俺が返事をする前に、夏目は走り去っていった。
店内に静けさが戻る。
「……明るい方ですね」
氷室は紅茶を飲みながら、窓の外を眺めていた。
「夏目はいつもあんな感じだよ」
「春日井君は、誰にでも親切なのですね」
「相談されたから答えただけだろ」
「わたくしのときも、そうでした」
「そうだな」
「水瀬さんのときも、そうだったのでしょうね」
声の温度が、少しだけ下がった。
俺が氷室を見ると、彼女は穏やかに微笑んでいる。
「どうした?」
「何でもありません」
それから氷室は、夏目の話をしなくなった。
ただ、いつもより長く店に残り、俺が他の客へ水を運ぶたびに視線を向けてきた。
閉店直前。
スマートフォンが震えた。
届いたのは、夏目からの短いメッセージだった。
『負けた』
その三文字だけで、結果は十分に伝わった。
続けて、もう一件届く。
『先輩、元カノとやり直すんだって』
さらに一件。
『告白する前に、相談された』
俺は返信する言葉を探した。
頑張ったな。
次がある。
もっといい相手が見つかる。
どれも正しい。
そして正しいからこそ、今の夏目には届かない気がした。
結局、俺が送ったのは一言だけだった。
『明日、店に来い。パフェくらいなら奢る』
既読はすぐについた。
返事はなかった。
その代わり、翌日の開店五分前。
まだ鍵のかかっている『アネモネ』の扉の前で、夏目は膝を抱えて座っていた。
真っ赤に腫れた目を隠すこともせず、俺を見るなり唇を尖らせる。
「春日井」
「早すぎるだろ」
「負けた奴を待たせるなよ」
その日。
俺たちのたまり場に、二人目の敗者がやってきた。
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