第2話 負けヒロインの爆誕!!
失恋した翌日、学校へ行くのが億劫になるのは、失恋そのものよりも、その後始末が面倒だからだ。
好きだった相手と顔を合わせなければならない。
相手の恋人とも、これまで通り接しなければならない。
それまで自然にできていた行動の一つ一つに、余計な意味が生まれてしまう。
たとえば、毎朝の登校。
「おはよう、悠人」
「……おはよう」
自宅を出て数分後。
いつもの交差点で、琴葉が俺を待っていた。
小学生の頃から繰り返してきた光景だ。
これまでは隣に並ぶことに何の疑問も抱かなかったのに、今日に限っては、ここが俺の居場所ではないように思えてしまう。
「昨日、ちゃんと帰れた?」
「子供じゃないんだから帰れるよ」
「だって、なんか元気なかったから」
「バイト前で疲れてただけ」
そう答えると、琴葉は素直に納得したようだった。
長い付き合いだから何でも分かる。
そんなことはない。
五年間も隣にいながら俺の気持ちに気づかなかった琴葉と、五年間も隣にいながら彼女の恋に気づかなかった俺。
幼馴染という肩書きは、思っていたより万能ではなかったらしい。
「それでね、今日から蓮君も一緒に登校することになったの」
「へえ」
胃の辺りに鈍い重さが生まれた。
「悠人も一緒でいいよね?」
その言葉には、俺を除け者にしようという悪意など微塵もない。
琴葉は本気で、これまで通り三人で仲良くできると思っているのだ。
「今日は先に行くよ。日直だから」
「そうだっけ?」
「昨日、急に代わってくれって頼まれた」
もちろん嘘だ。
俺は琴葉が何か言う前に、逃げるように歩き出した。
恋に負けた人間は、嘘が上手くなる。
昨日までの関係を壊さないために、何でもない顔をして、何でもない言葉を並べる必要があるからだ。
教室へ着くと、まだ生徒はまばらだった。
自分の席へ鞄を置いた俺は、隣の列にある氷室の机を見た。
普段なら誰よりも早く登校している彼女の姿がない。
昨日、氷室から告白の相談を受けた俺は、彼女と一緒に一時間近く作戦会議を行った。
告白場所は、放課後の生徒会室。
余計な装飾や回りくどい演出はせず、これまで抱えてきた気持ちを素直に伝える。
俺が提案したというより、氷室自身がほとんど決めていた。
完璧美少女に恋愛相談を持ちかけられた俺がしたことといえば、何度も書き直されていた告白文を読み、
『もっと短くしたほうが伝わるんじゃないか』
と偉そうに助言しただけである。
自分は告白すらできなかったくせに。
やがて始業時間が近づき、氷室が教室へ入ってきた。
いつも通り隙のない姿だったが、俺の席の横を通る瞬間、わずかに足を止める。
「おはようございます、春日井君」
「おはよう。いよいよだな」
「はい」
氷室は胸元を軽く押さえた。
「昨日は、ありがとうございました」
「俺は大したことしてないよ」
「いいえ。一人で考えていたら、今も告白文を書き直していたと思います」
「まだ緊張してる?」
「……少しだけ」
そう言った氷室の横顔は、昨日よりもずっと柔らかかった。
普段の彼女しか知らない生徒が見れば、別人だと思うかもしれない。
「久世会長なら、きっと真剣に答えてくれるよ」
「成功するとは言ってくださらないのですね」
「変に期待させるのも無責任だろ」
「春日井君は、やはり優しい方です」
昨日も同じことを言われた。
しかし俺にしてみれば、優しいという評価ほど信用できないものはない。
琴葉の隣に立ち続け、彼女の頼みを何でも聞き、嫌われないように振る舞った結果、俺は恋愛対象から完全に外れた。
優しい男とは、都合のいい男を綺麗に言い換えただけなのかもしれない。
「氷室は俺と違って、ちゃんと気持ちを伝えるんだ。結果がどうなっても、昨日までと同じではいられないと思う」
「縁起でもないことを言わないでください」
「悪い」
「ですが……そうですね」
氷室は机の中へ白い封筒を入れた。
「何もしないまま、別の誰かに会長を奪われるよりは、ずっといいです」
何もしないまま、別の誰かに奪われた俺には、なかなか刺さる言葉だった。
それでも俺は笑って、彼女の背中を押した。
「頑張れよ」
「はい。放課後、よい報告をします」
結果から言えば、その約束は守られなかった。
放課後。
氷室は久世会長を生徒会室へ呼び出し、告白した。
俺はバイトがあったため、その場にいたわけではない。
それでも何が起きたのかは、店へ向かう途中で知ることになった。
「ねえ、聞いた? 久世会長、彼女いるんだって」
「それも、他校の子らしいよ」
「中学の頃から付き合ってるって」
駅前で歩いていた女子生徒たちの会話が、嫌でも耳に入った。
俺は足を止めた。
久世会長に彼女がいるという話は、これまで一度も聞いたことがない。生徒会役員である氷室でさえ、知らなかったはずだ。
すぐにスマートフォンを取り出したが、氷室からの連絡はない。
こちらから連絡するべきか迷い、結局、何も送れなかった。
告白に失敗した直後、ほとんど話したこともなかった男子から心配されても困るだろう。
そもそも昨日の俺だって、一人になりたかった。
他人の優しさは、ときに傷口を確認するための指になる。
その日、氷室は店へ来なかった。
翌日も、教室では普段通りだった。
久世会長と廊下ですれ違えば、以前と変わらず一礼し、生徒会の仕事にも参加していた。
俺たちの間でも、告白について触れることはなかった。
それが氷室の望んだことなのだと思った。
だから俺も、何も聞かなかった。
しかし、告白から三日が経った金曜日。
閉店まで残り三十分となった『アネモネ』に、一人の客がやってきた。
扉のベルが、静かな店内に鳴り響く。
「いらっしゃいませ」
反射的に顔を上げた俺は、言葉を失った。
入口に立っていたのは氷室だった。
ただし、いつもの彼女とは様子が違う。
長い黒髪は少し乱れ、制服のリボンも僅かに曲がっていた。目元には薄い隈があり、手には生徒会の鞄を抱えている。
「まだ、営業していますか?」
「あと三十分だけど」
「では、紅茶を一杯お願いします」
氷室は以前と同じカウンター席へ腰掛けた。
俺は何も聞かずに紅茶を淹れ、彼女の前へ置く。
「ありがとうございます」
氷室はカップを両手で包んだまま、口をつけようとはしなかった。
時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。
「……何も聞かないのですね」
「聞いてほしいのか?」
「分かりません」
氷室らしくない返事だった。
「皆さんは、わたくしを気遣ってくださいます。久世会長には交際相手がいたのだから仕方がない。氷室さんなら、もっと素敵な男性が見つかる。次はきっと上手くいく、と」
「よくある慰めだな」
「はい。皆さん、善意で言ってくださっています」
氷室の指が、カップの取っ手を強く握る。
「だから、腹が立つ自分が嫌になります」
「……そっか」
「仕方がないわけがありません。わたくしは三年間、会長だけを見てきました。努力すれば隣に立てると思って、生徒会にも入りました。勉強も仕事も、会長に認められたくて……」
声が少しずつ震えていた。
「それなのに、最初からわたくしが入り込める場所などなかったのです」
告白したことを後悔しているのではない。
氷室はきっと、昨日まで自分を支えていたものを一度に失ったのだ。
努力すれば報われるという期待も、好きな人の隣にいる自分の未来も。
「春日井君」
「うん」
「恋なんて、二度としません」
予告通りの言葉を、氷室は口にした。
「好きになった分だけ、負けたときに惨めになります。そんなものに、もう時間を使いたくありません」
「分かるよ」
俺が答えると、氷室は初めて顔を上げた。
「分かるのですか?」
「俺も負けたから」
これまで誰にも話すつもりはなかった。
それでも今の氷室に、綺麗な慰めを投げる気にはなれなかった。
「琴葉が蓮と付き合い始めただろ。俺、ずっと琴葉が好きだったんだ」
「……水瀬さんを?」
「五年くらい」
「告白は?」
「してない。何もしないまま終わった」
氷室は目を見開いた。
「それでも春日井君は、昨日まで普段通りに……」
「氷室だって同じだろ」
少しの沈黙の後、氷室の口元が僅かに緩んだ。
「わたくしたちは、似た者同士ということですか?」
「氷室はちゃんと戦った。俺より立派だよ」
「敗者同士で順位をつけても、虚しいだけです」
「それもそうだな」
俺たちは顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
楽しくて笑ったわけではない。
あまりにも救いがなくて、笑うしかなかったのだ。
氷室はようやく紅茶へ口をつけた。
「少し、冷めています」
「長話してたからな。淹れ直そうか?」
「いいえ。これで構いません」
彼女はその後、閉店時間まで店に残った。
恋の相談はしなかった。
ただ久世会長の好きだったところや、告白を断られたときに言われた言葉を、途切れ途切れに話した。
俺も琴葉との思い出を少しだけ話した。
互いに慰めることも、前を向けと励ますこともしなかった。
負けた直後の人間に必要なのは、正しい言葉ではない。
醜い未練を、醜いまま置いておける場所なのだ。
「では、また来週」
閉店後。
店の前で氷室がそう言った。
「また来るのか?」
「迷惑でしたか?」
「いや。客が増えるのはありがたいけど」
「でしたら、問題ありませんね」
氷室は数歩進んだところで振り返った。
「春日井君」
「何?」
「水瀬さんがあなたを選ばなかったことについては……率直に言って、理解できません」
「身内びいきが早くない?」
「同じ敗者として、客観的に評価しただけです」
それだけ告げると、氷室は今度こそ帰っていった。
俺は彼女の背中を見送りながら、少しだけ胸が軽くなっていることに気づいた。
おそらく氷室も同じなのだろう。
このときの俺は、そう単純に考えていた。
だから当然、気づかなかった。
翌週から氷室が毎日のように店へ通い始めることにも。
俺のシフトを確認してから注文する習慣がつくことにも。
そして彼女が、久世会長について語る時間よりも、俺について質問する時間のほうを、少しずつ長くしていくことにも。
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