第1話 負けヒーロー!!
一つ、世の中には言っておきたいことがある。
恋愛における敗者は、告白して振られた人間だけではない。
好きだと言えないまま、隣にいる権利を失った人間も、立派な敗者だ。
むしろ、試合会場に立つことすらできず、観客席から勝者の胴上げを眺めることになった分、こちらのほうが救いようがないかもしれない。
なぜ俺がそんな陰気な結論に達したのか。
理由は単純。
俺こと春日井悠人は、本日をもって、五年間に及ぶ片想いに敗北したからである。
「悠人。放課後、少し時間ある?」
その日の昼休み。
幼馴染の水瀬琴葉は、俺の机の前に立つと、胸元で両手を重ねながら言った。
琴葉とは小学校に入る前からの付き合いだ。
家が近く、親同士も仲が良い。登下校を共にした回数は数え切れず、互いの家で夕飯を食べることも珍しくなかった。
高校生になってからは一緒にいる時間こそ減ったが、琴葉が困ったときは俺を頼り、俺もまた、それを当たり前のこととして受け入れてきた。
そんな彼女からの、放課後の呼び出し。
期待するなというほうが無理だった。
「時間ならあるけど」
「よかった。じゃあ、放課後に裏庭で待ってるね」
琴葉は安心したように微笑み、自分の席へと戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺の心臓は情けないほど騒いでいた。
もしかして。
いや、そんな都合のいいことがあるはずがない。
けれど放課後、人気のない場所へわざわざ呼び出す用件など、それほど多くはないだろう。
俺は授業中、黒板に書かれた数式を眺めながら、琴葉に告白された場合の返事を三通りほど考えた。
一つ目は、素直に喜ぶ。
二つ目は、余裕のある男を演じて少し焦らす。
三つ目は、感極まって泣く。
当然、三つ目だけは絶対に避けようと固く誓った。
我ながら、実に幸せな時間だったと思う。
人間は敗北する直前までなら、どこまでも自由に未来を想像できるのだ。
放課後。
校舎裏の小さな花壇の前で待っていると、琴葉が駆け足でやってきた。
「ごめん、待った?」
「いや、今来たところ」
実際には十五分前からいたが、そんなことを正直に話す必要はない。
琴葉は一度だけ深呼吸すると、緊張した様子で俺を見上げた。
「悠人に、一番に聞いてほしくて」
「ああ」
心臓の音が、一際大きくなる。
琴葉は頬を赤く染めながら、嬉しそうに笑った。
「私、高宮君と付き合うことになったの」
想像していた言葉とは、主語も述語も違っていた。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
高宮蓮。
同じクラスの男子で、サッカー部のエース。
明るく、顔がよく、誰に対しても分け隔てなく接する人気者だ。
そして、俺の親友でもある。
「昨日、高宮君から告白してくれたんだ」
「……そうなんだ」
「うん。私も、前から少し気になってて」
琴葉は照れくさそうに髪を耳へとかける。
俺は、その仕草を知っていた。
嬉しいことがあったとき、琴葉は決まって右側の髪に触れる。
幼馴染だからこそ分かってしまう。
今の彼女が、本当に幸せなのだと。
「悠人なら、一番に応援してくれると思ったの」
無邪気な信頼だった。
俺なら祝福してくれる。
俺なら二人の邪魔をしない。
俺なら、これまでと変わらない幼馴染でいてくれる。
琴葉の中にある俺への信頼は、五年間かけて俺自身が築き上げたものだ。
自分から好きだとは言わず、いつでも相談に乗り、彼女の隣に居続けた。
居心地のいい幼馴染という立場を失うのが怖くて、何一つ賭けようとしなかった。
その結果が、これだ。
「おめでとう」
俺は笑った。
少なくとも、笑えているつもりだった。
「蓮ならいい奴だし、琴葉にも合ってると思う」
「本当?」
「ああ。お似合いだよ」
「よかったぁ……悠人に反対されたら、どうしようかと思ってた」
「俺は琴葉の保護者じゃないんだから、反対する権利なんてないって」
「でも、悠人は私にとって特別だから」
胸の奥を、鈍い刃物で丁寧に抉られたような気がした。
琴葉に悪意はない。
だからこそ、どうしようもなかった。
俺は彼女にとって特別だ。
ただし、恋人にはならない種類の特別だった。
「そういえば、今度三人でどこか行こうよ。高宮君も、悠人とは今まで通り仲良くしたいって言ってたし」
「考えとく」
「うん。絶対だからね」
琴葉は軽い足取りで去っていった。
俺は一人、花壇の前に残された。
告白すらしていないのだから、振られたわけではない。
琴葉の気持ちを知らなかったのだから、奪われたわけでもない。
それでも、俺の五年間はたった数分で終わった。
「……負けたな」
誰もいない場所で口にすると、その言葉だけが妙にはっきりと耳に残った。
※ ※ ※
その日、俺はいつもより一時間早くバイト先へ向かった。
住宅街の外れにある喫茶店『アネモネ』は、夕方になると客足が落ち着く。
店長から倉庫の整理を頼まれた俺は、段ボール箱を無心で積み替えた。
身体を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。
琴葉と蓮が手を繋いで歩く姿や、二人の間で作り笑いを浮かべる自分の姿を想像せずに済む。
そう思っていたのだが。
「春日井君」
閉店一時間前。
聞き覚えのある声に呼ばれ、俺はカウンターから顔を上げた。
店の入口に立っていたのは、氷室玲奈だった。
長い黒髪に、整った目鼻立ち。着崩すことなく制服を身につけた彼女は、生徒会副会長という肩書きに相応しい隙のない美少女だ。
同じクラスではあるが、まともに話したことはほとんどない。
「氷室? どうしてここに」
「春日井君がこちらで働いていると聞きました」
「わざわざ俺を訪ねてきたのか?」
「はい。あなたに相談したいことがあります」
氷室は店内を見回し、他に客がいないことを確かめてから、カウンター席へ腰掛けた。
その手には、白い封筒が握られている。
丁寧に封をされた、見るからに特別な手紙だった。
「春日井君は、男性から見て信頼できる方です」
「ほとんど話したことないよな?」
「水瀬さんから、よく聞いています。優しくて、口が堅くて、女心には致命的に疎い方だと」
「最後の情報いる?」
「口が堅いことの証明にはなるかと」
氷室は真剣な表情のまま、白い封筒をカウンターへ置いた。
封筒の表には、生徒会長である久世恭介の名前が書かれていた。
「明日、久世会長に告白しようと思っています」
氷室玲奈は、校内でも有名な完璧美少女だ。
成績は学年首位。容姿端麗で、教師からの信頼も厚い。
そんな彼女から告白されて、断る男子などいるのだろうか。
「それで、俺に何を相談したいんだ?」
「告白する場所と、言葉です。男性の意見を聞かせてください」
「俺でいいのか?」
「春日井君は、相手の女性を傷つけるような助言はしないでしょうから」
俺は今日、好きな相手を失ったばかりだ。
そんな日に、これから恋を実らせようとする少女の相談に乗ることになるとは、皮肉にもほどがある。
けれど、断ろうとは思わなかった。
自分が負けたからといって、誰かの恋まで失敗すればいいとは思えない。
「分かった。俺で役に立つなら」
「ありがとうございます」
氷室は、ほっとしたように微笑んだ。
それは教室では見たことのない、年相応に柔らかな笑顔だった。
このときの俺は、当然のように思っていた。
氷室玲奈の告白は成功するのだと。
完璧な彼女が、俺と同じ側へ転がり落ちてくることなど、想像すらしていなかった。
ましてや数日後。
失恋した彼女が、この店の同じ席で紅茶を飲みながら、
「恋なんて、二度としません」
そう言い切ることになるなど。
そのときの俺は、まだ知る由もなかった。
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