第23話 広がる関係と負けヒロインたち
倉庫から運び出した段ボールを抱えて教室へ戻る頃には、校舎の窓から差し込む光もすっかり橙色へ変わり、文化祭準備に追われる生徒たちの影を長く廊下へ引き伸ばしていた。
教室からは画用紙を切る音や机を動かす音が絶え間なく聞こえ、普段なら帰宅部の生徒が姿を消す時間になっても、校内には昼間以上の熱気が残っている。
文化祭は本番そのものより、こうして放課後を削りながら全員で一つのものを作る過程にこそ価値があるのかもしれない。少なくとも、去年まで琴葉の予定ばかり気にしていた俺には、クラス全体の空気を落ち着いて眺める余裕などなかった。
「春日井、遅かったじゃん!」
教室へ入るなり、実行委員を務める男子生徒から声をかけられた。俺が段ボールを床へ下ろすと、その後ろから氷室、白崎、三島先輩まで続いて入ってきたため、作業していたクラスメイトたちの手が一斉に止まる。
ただ資材を運んできただけなのに、生徒会役員三人を従えて帰還したような構図になってしまい、事情を知らない者たちから向けられる視線には、尊敬よりも好奇心のほうが色濃く混じっていた。
「春日井、お前いつから生徒会の偉い人になったんだ?」
「なってない。この三人が勝手についてきただけだ」
「勝手ではありません。監督業務です」
氷室が即座に訂正し、白崎も隣で穏やかに微笑む。三島先輩だけは周囲の反応に興味を示さず、運んできた段ボールの枚数と状態を実行委員へ確認させていたが、その淡々とした姿は、先ほど倉庫で俺に意味深な問いを投げかけた人とは思えないほど隙がなかった。
「悠人」
教室の奥から琴葉が歩いてくる。彼女の手には、黒く塗られた大きな画用紙と、作業で使っていたらしい刷毛が握られていた。額には薄く汗が浮かび、頬には黒い絵の具が小さく付着している。昔なら迷わず手を伸ばして拭っていただろうが、今はそれをすることが正しいのか分からず、俺は自分のポケットからハンカチを取り出して渡すだけに留めた。
「頬についてるぞ」
「ありがとう」
琴葉は受け取ったハンカチで頬を拭きながら、俺の後ろにいる三人へ視線を向けた。その目には露骨な敵意こそなかったものの、自分の知らない場所で俺の人間関係が広がっていくことへの戸惑いが、以前よりもはっきり浮かんでいるように見えた。
「生徒会の人たちと一緒だったんだね」
「倉庫の備品確認です」
答えたのは氷室だった。その声は丁寧だったが、琴葉へ俺との関係を説明する必要などないとでも言うように、わずかな硬さを含んでいる。
「悠人、今日もバイト?」
「ああ。少し準備を手伝ったら行く」
「そう……」
琴葉は何かを言いかけたものの、教室の反対側から蓮に呼ばれ、そちらへ顔を向けた。蓮はお化け屋敷の骨組みに使う木材を抱え、琴葉へ手伝いを頼んでいる。琴葉は俺へハンカチを返すと、ほんの一瞬だけ名残惜しそうな表情を浮かべ、それから蓮のもとへ戻っていった。
その背中を見送っても、以前のように胸の奥が大きく乱れることはなかった。ただ、まったく何も感じないわけでもない。五年間かけて積み重ねた感情が、数週間で消えるはずなどなかった。けれど俺の視線は、琴葉と蓮の背中だけに縛られなくなっている。それが前へ進んでいる証拠なのか、それとも別の騒がしさに紛れているだけなのか、今の俺にはまだ判断できなかった。
「春日井君」
隣に立った氷室が、俺の顔を覗き込む。
「戻りたくなりましたか?」
「どこに?」
「以前の場所へです」
「……分からない。でも、今のままでいいとは思ってる」
俺が答えると、氷室は何も言わず、ほんの少しだけ安心したように目元を緩めた。その変化はあまりにも僅かで、注意していなければ見逃していただろう。最近の俺は、失恋した人間の無理な笑い方だけではなく、その逆にある小さな安堵まで、以前より見つけられるようになった気がする。
♦
その日の『アネモネ』には、三島先輩が昨日と同じ時刻に現れた。偶然を装うにはあまりにも正確な十九時三十分であり、彼女は店内へ入るなり時計を確認すると、何事もなかったようにカウンターの端へ腰を下ろした。
「昨日と同じコーヒーでいいですか?」
「はい。ただし砂糖を二つお願いします」
「増えましたね」
「昨日のものは、少し苦すぎました」
十二年分の苦味に比べれば角砂糖一つの差など僅かなものだろうが、それでも自分から甘さを増やそうとすることは、三島先輩にとって小さくない変化なのかもしれない。俺がコーヒーを差し出すと、先輩はすぐには飲まず、溶けていく砂糖を静かに眺めていた。
「冬華ちゃん、今日はお仕事を持ってこなかったのね」
店長がカウンター越しに声をかける。昨日の短い会話だけで既に名前を覚えているあたり、客との距離を縮める技術はさすがだった。
「仕事をしながら飲食すると、春日井君に注意される可能性がありますので」
「俺、そこまで厳しくないですよ」
「食事をコーヒーで済ませるなと言ったのは、あなたです」
「それは当然です」
俺たちのやり取りを聞きながら、氷室は紅茶のカップを持つ手へ僅かに力を込め、夏目は面白そうに笑い、椎名は新しく加わった人物の言動を観察するようにノートへ視線を落としている。
昨日までは三人だった負けヒロインたちの輪へ、三島先輩が自然に溶け込むには、もう少し時間が必要だろう。それでも彼女は帰らず、騒がしい会話の中で二杯目のコーヒーを注文した。
閉店が近づいた頃、三島先輩は会計を済ませながら、俺へ小さく尋ねた。
「明日は、春日井君は何時からいますか?」
「十七時からです」
「そうですか」
「また来るんですか?」
「予定が合えば」
その言葉を聞いた瞬間、背後から氷室のカップが少し強く置かれる音がした。俺が振り返ると、氷室は穏やかに微笑んでいたが、その笑顔が穏やかではないことくらい、さすがの俺にも分かるようになっていた。
ただし、その理由については、まだ分からない。
三島先輩が加わったことで、失恋仲間の輪が広がるのを警戒しているのだろう。俺はそう考えながら、空になったコーヒーカップを片づけた。
その底には昨日よりも少ない苦味と、昨日よりも多くの甘さが残っていた。
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