第22話 貴方は本当に扱いが難しい
旧校舎の倉庫は、文化祭という言葉から連想される華やかさとは正反対の場所だった。長いあいだ人の出入りが少なかったせいで、扉を開けた瞬間に乾いた埃の匂いが鼻を刺し、窓から差し込む西日の中には細かな塵がゆっくりと漂っていた。
壁際には去年以前の装飾品や使い道の分からない木材が積まれ、奥には潰れかけた段ボール箱が不規則に重なっている。文化祭の裏側というものは、教室で笑いながら看板を描く生徒たちの姿よりも、こういう雑然とした場所にこそ現れるのかもしれない。
「必要なのは、大きめの段ボールを二十枚でしたね」
三島先輩は倉庫へ入るなり手帳を開き、床へ置かれた箱の状態を一つずつ確認し始めた。昨日まで一人で仕事を抱え込んでいた人とは思えないほど動きに迷いはなく、その背中だけを見れば、十二年にも及ぶ片想いを胸の奥へ沈めているようには見えない。
しかし人間というものは、隠すことに慣れれば慣れるほど、傷が消えたように振る舞うのが上手くなる。俺は琴葉の前で何度も笑ってきたからこそ、三島先輩の平静が本物ではないことを何となく理解できた。
「奥の棚にまとまっているようです。春日井君、わたくしが数えますので運んでください」
氷室は当然のように俺の隣へ立ち、白崎が一歩近づけば、そのぶんだけ自分も距離を詰める。本人は生徒会業務を円滑に進めるためだと主張するだろうが、最近の彼女は理屈を用意する速度だけが異様に上がっていた。
「先輩、埃がひどいので、こちらを使ってください」
白崎が差し出したのは、きれいに畳まれたハンカチだった。
「口元を覆うだけなら、自分のがあるよ」
「私のものを使っていただきたいんです」
「理由になってないだろ」
「先輩が持っている間、私のものが先輩の近くにあるからです」
そこまで明言されると、むしろ断りにくい。俺が困っている間に、氷室は自分の鞄から未使用のマスクを取り出し、無言で俺の手へ押しつけた。
「衛生面を考えれば、こちらが合理的です」
「氷室、張り合ってないか?」
「何とですか?」
聞き返す声は平静だったが、白崎へ向けられた視線は明らかに冷たい。その間で三島先輩だけが、感情を交えずに箱の数を確認していたものの、ときおりこちらへ向ける目には、呆れとわずかな興味が混じっていた。
段ボールは倉庫の最奥に積まれており、手前の木箱を動かさなければ取り出せない状態だった。
俺が上段へ手を伸ばした瞬間、崩れかけていた装飾用の板が傾き、乾いた音を立てながら白崎のほうへ倒れ込む。
考えるより先に身体が動き、俺は彼女の肩を抱くように引き寄せた。板はすぐ横の床へ落ちただけで大事には至らなかったが、腕の中に収まった白崎は驚いた顔のまま、しばらく動かなかった。
「怪我は?」
「ありません」
「よかった」
「先輩」
「何?」
「今のこと、一生覚えていてもいいですか?」
「危ない目に遭った記憶なんて忘れたほうがいいだろ」
「そういうところです」
白崎は胸元を押さえながら小さく笑い、俺の制服の袖を離そうとしなかった。その様子を見た氷室は、落ちた板を確認するより先に俺たちの間へ入り、白崎の手を静かに外す。
「安全確認は終わりました。必要以上に接触する理由はありません」
「副会長は、私が怪我をしなくて残念そうですね」
「そのようなことはありません。ただし春日井君を利用して距離を縮める行為は看過できません」
「助けていただいたのは事実です」
「春日井君は誰にでもそうします」
氷室の言葉には、妙な棘があった。おそらく俺が三島先輩を気にかけたことまで含めて不満なのだろう。人助けに相手を選べと言われても困るが、今の氷室にそれを正面から返せば、話がさらに面倒になることだけは分かっていた。
「二人とも、先に作業を終わらせませんか」
三島先輩が淡々と割って入り、俺たちはようやく段ボールを運び始めた。三島先輩は数を記録し、氷室は状態を確認し、白崎は紐でまとめる。役割を分けてしまえば作業は驚くほど早く進み、最初は息苦しかった倉庫の空気も、いつの間にかそれぞれの足音や紙の擦れる音で満たされていた。
最後の束を持ち上げたとき、三島先輩が隣へ来て、周囲に聞こえないほどの声で呟いた。
「春日井君は、ああして誰かを助けるたびに、相手が何を感じるか考えないのですか?」
「怪我がなくてよかった、とは思いますけど」
「そうではありません」
「では、どういう意味です?」
三島先輩は答えず、少し離れた場所でこちらを睨んでいる氷室と、嬉しそうにハンカチを握る白崎を順番に見た。その視線を追った俺は、ほんの一瞬だけ、また例の可能性へ辿り着きかけた。もしかすると、彼女たちの過剰な反応は単なる仲間意識ではなく、もっと別の感情によるものなのではないか。
けれど、すぐに考え直す。氷室は久世会長を三年間、三島先輩に至っては十二年間も想い続けた。白崎だけは最初から好意を明言しているが、それ以外まで同じだと考えるのは、やはり都合がよすぎる。失恋した直後の人間は、優しくされた相手へ一時的に依存しやすい。それを恋だと決めつけるのは、彼女たちの痛みに付け込むようで嫌だった。
「何か分かりましたか?」
三島先輩に問われ、俺は段ボールを抱え直した。
「全員、文化祭に真剣なんだなって」
数秒の沈黙のあと、三島先輩は深くため息をついた。
「あなたは、予算以上に扱いが難しいですね」
どういう意味か尋ねても、先輩は答えなかった。ただ倉庫を出る頃には、氷室も白崎も先ほどよりさらに俺の近くを歩き、三島先輩までなぜか後ろから俺の足元を気にしていた。文化祭準備というものは、人間関係まで必要以上に密集させるらしい。俺はそう納得しながら、騒がしい三人と共に夕方の廊下を歩いていった。
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