第20話 明日もいますか?
三島冬華先輩が『アネモネ』を訪れたことで、店内の空気が一瞬だけ止まった。
氷室は紅茶のカップを持ったまま目を細め、夏目はパフェを口へ運ぶ手を止め、椎名に至ってはペン先を紙の上で静止させている。
「……何ですか?」
三島先輩が怪訝そうに尋ねる。
「いえ」
氷室が最初に答えた。
「三島先輩が、このようなお店へいらっしゃるとは思わなかっただけです」
「失礼ですね」
「事実です」
「あなたも毎日来ていると聞きましたが」
「わたくしは常連です」
「その肩書きに何か価値が?」
二人の間に、妙に冷たい空気が流れた。
俺は淹れたてのコーヒーを三島先輩の前へ置く。
「どうぞ。一番深煎りのやつです」
「ありがとうございます」
先輩は一口飲み、僅かに眉を寄せた。
「苦いです」
「自分で頼んだんですよ」
「知っています」
そう言いながら、添えておいた角砂糖を一つ落とす。
スプーンで静かにかき混ぜる姿は、学校で見せる完璧な会計担当そのものだった。
ただ、今日は大量の資料も電卓もない。
それだけで、少しだけ普通の高校生に見えた。
「で、三島先輩も負けたのか?」
夏目が直球を投げた。
「夏目さん」
氷室が即座に睨む。
「もう少し言葉を選んでください」
「じゃあ、恋愛において敗北を経験されたんですか?」
「長くなっただけじゃん」
三島先輩はしばらく夏目を見つめた。
やがて、コーヒーへ視線を落とす。
「そうですね」
それだけだった。
十二年間。
その長さを知っている俺には、その短い返事が妙に重く聞こえた。
「私もです」
椎名が小さく言う。
「わたくしも」
氷室が続く。
「アタシも!」
夏目だけ元気だった。
三島先輩は三人を見回し、最後に俺を見る。
「あなたもでしたね」
「はい」
「では、本当に敗者しかいないのですね」
「言い方」
思わず突っ込むと、三島先輩の口元がほんの少し緩んだ。
その瞬間を、氷室は見逃さなかった。
「春日井君」
「何?」
「またですか?」
「何が?」
「何でもありません」
明らかに何でもない顔ではなかった。
俺が首を傾げていると、夏目が楽しそうに笑う。
「氷室、嫉妬してんの?」
「していません」
「じゃあ三島先輩が毎日来てもいい?」
「店の判断です」
「春日井と二人で話してても?」
「……状況によります」
「してんじゃん」
「黙ってください」
氷室の耳が赤くなる。
三島先輩はそのやり取りを黙って見ていた。
「騒がしいですね」
「帰りますか?」
俺が尋ねる。
「いいえ」
先輩はコーヒーカップを両手で包んだ。
「もう少しだけ、います」
それから三島先輩は、誰にも久世会長の話をしなかった。
氷室も聞かなかった。
夏目は二度ほど聞こうとして、俺と氷室に止められた。
椎名は黙ってノートを書いていた。
ただ四人の敗者と、一人の負けヒーローが、同じ店でそれぞれ好きなものを飲み、くだらない話をして過ごした。
閉店十五分前。
三島先輩は席を立った。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
「春日井君」
「はい?」
「明日も、あなたはいますか?」
「いますけど」
「そうですか」
それだけ確認して、三島先輩は店を出ていった。
扉のベルが鳴り終わる。
直後。
「春日井君」
「何?」
氷室が真剣な顔で俺を見る。
「明日は、お休みしてください」
「なんでだよ」
「体調不良ということにしましょう」
「元気だよ」
「今から悪くなってください」
「無茶言うな!」
夏目が腹を抱えて笑い、椎名は無言でその会話を記録する。
俺は呆れながら、空になった三島先輩のカップを片づけた。
底には、溶けきらなかった砂糖がほんの少し残っていた。
十二年分の苦さが、一杯のコーヒーで消えるはずはない。
それでも。
次はもう一つ、砂糖を増やしてもいいかもしれない。
そんなことを考えていた俺を。
氷室が今までで一番怖い顔で見つめていた。
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