第19話 12年の想いと失恋
放課後の生徒会室には、昼間とは違う種類の静けさがあった。
窓の外から聞こえてくる運動部の掛け声。遠くで鳴るホイッスル。廊下を駆けていく生徒たちの足音。
文化祭が近づいていることもあり、校内全体が少しずつ浮き足立っている。
教室では出し物について意見が飛び交い、放課後になれば段ボールや画用紙を抱えた生徒が廊下を行き交う。いつもなら誰も見向きもしない空き教室まで、今では大道具の保管場所として利用されていた。
青春というものを目に見える形へ変換すれば、たぶんこんな光景になるのだろう。
ただし、その青春の中心から少し外れた生徒会室では。
「春日井君」
「はい」
「女性との距離感について、真剣に話し合う必要があります」
俺は氷室から説教を受けていた。
青春とは何なのだろう。
俺がこれまで抱いていたイメージとは、随分違う気がする。
「まず、春日井君は女性に対して無防備すぎます」
「普通に接してるだけだろ」
「その普通がおかしいと言っています」
氷室は俺の正面に座り、机の上で両手を組んでいる。
その隣には白崎。
なぜか二対一だった。
生徒会室には他の役員も何人か残っているが、こちらを見ないふりをしている。正確には、見てはいないものの、全員明らかに聞き耳を立てていた。
「三島先輩が一人で仕事を抱え込んでいると気づいたこと自体は、素晴らしいと思います」
白崎が言う。
「ありがとう」
「ですが、その後が問題です」
「どこが?」
「『俺が手伝います』と即答しましたね」
「困ってたからな」
「そういうところです」
白崎が深くため息をつく。
意味が分からない。
困っている相手がいて、自分にできることがあるのなら、手を貸す。
それは恋愛以前に、人間関係として普通のことだと思う。
「氷室だって最初に店へ来たとき、話を聞いただろ」
「はい」
「夏目のときもそうだし、椎名の小説だって読んでる。三島先輩だけ無視するほうがおかしくない?」
「誰も無視しろとは言っていません」
氷室は僅かに眉を寄せる。
「ですが春日井君は、一度誰かを心配すると、必要以上にその人のことを気にかけます」
「そうかな」
「そうです」
「具体的には?」
俺が聞き返すと、氷室は一瞬だけ黙った。
そして。
「……わたくしが実例です」
小さな声だった。
しかし、聞き逃すほど小さくはなかった。
氷室は視線を落とし、膝の上で僅かに指を動かす。
「久世会長に振られた後、春日井君はわたくしの話を聞きました。何度来ても追い返さず、何も言いたくない日は何も聞かず、話したい日は最後まで付き合ってくれました」
「それくらい普通だろ」
「普通ではないと言っているんです」
氷室の声が少し強くなる。
俺は口を閉じた。
彼女はしばらく何かを言おうとしていたが、やがて諦めたように息を吐く。
「……もう結構です」
「説教は終わり?」
「春日井君には言葉で説明しても無意味だと判断しました」
「ひどくない?」
「事実です」
白崎まで頷いた。
どうやら俺は、自分で思っている以上に周囲から信用されていないらしい。
もちろん、恋愛方面に限っての話だと思いたい。
「それより」
俺は室内を見回した。
「三島先輩は?」
昼休みには大量の資料と電卓を前にしていた彼女の姿が、今はない。
すると白崎が答えた。
「資料室です。去年の会計記録を確認すると仰っていました」
「一人で?」
「はい」
「まだ仕事してるのかよ」
文化祭まで、まだ時間はある。
もちろん余裕があるとは言えないが、今日中にすべてを終わらせる必要もないはずだ。
昼休みに三島先輩は、自分一人で会計も在庫管理もできると言っていた。
だが、あれは能力の話ではない。
頼ることそのものを避けている。
俺には、そう見えた。
「春日井君」
立ち上がった俺を、氷室が呼び止める。
「どこへ?」
「少し見てくる」
「先ほどの話を聞いていましたか?」
「聞いてたよ」
「では、なぜ行くのです」
「倒れてからじゃ遅いだろ」
氷室は何か言おうとした。
だが、結局は何も言わなかった。
代わりに、小さくため息をつく。
「……五分です」
「何が?」
「戻ってくるまでの時間です」
「短いな」
「では十分」
「増えた」
「これ以上は譲りません」
また俺の行動時間を管理されている。
最近、氷室はこういうことが多い。
これも失恋者同士の連帯感なのだろう。
たぶん。
♦
資料室は、旧校舎へ繋がる渡り廊下の先にあった。
文化祭期間以外はほとんど利用されておらず、扉を開けた瞬間、古い紙と埃の匂いが鼻を突く。
室内には金属製の棚が並び、年度ごとに分けられたファイルや段ボールが積み上げられていた。
その最奥。
三島先輩は床に座り込み、大量の資料を広げていた。
「三島先輩」
「……春日井君」
顔を上げた彼女を見て、俺は少し眉を寄せた。
普段と変わらない無表情。
けれど、その顔色は明らかに悪い。
「昼飯、食べました?」
「食べました」
「何を?」
「コーヒーです」
「それは飲み物です」
「砂糖を入れました」
「栄養の話じゃないですよ」
三島先輩は再び資料へ視線を落とした。
「問題ありません。作業は予定通りです」
「顔色悪いですよ」
「元々です」
「昼休みに会ったときより悪いです」
「照明の影響です」
「ここ、蛍光灯ですよ」
「では蛍光灯の影響です」
意地でも認める気がないらしい。
俺は三島先輩の向かいへ腰を下ろした。
広げられている資料を見る。
三年前。
二年前。
去年。
過去の文化祭における売上、原価、仕入れ数、廃棄数。
細かな数字が一覧になっている。
「全部確認するつもりですか?」
「はい」
「今日中に?」
「可能なら」
「無理ですよ」
「できます」
「できるかどうかじゃなくて、やらなくていいって話です」
三島先輩の指が止まる。
この人は、できないことが嫌なのではない。
誰かに任せることが怖いのだ。
自分で全部抱えていれば、失敗しても自分だけの責任になる。
期待しなければ、裏切られない。
人に頼らなければ、誰かが自分の隣からいなくなっても困らない。
そんな考え方を、俺は少しだけ知っている。
昔の自分も似ていたからだ。
琴葉に好きだと言わなかった。
告白しなければ振られない。
関係を変えようとしなければ、ずっと隣にいられる。
そう思った結果。
何もしないまま、負けた。
「三島先輩」
「何ですか?」
「会長のこと、好きだったんですか?」
電卓を叩いていた指が完全に止まった。
空気が固まる。
「……以前、写真を見ましたよね」
「はい」
「忘れてくださいと言いました」
「すみません」
「謝るなら聞かないでください」
「でも、一人で全部抱える理由と関係あるのかなって」
三島先輩は何も答えなかった。
俺も急かさなかった。
窓の外から、吹奏楽部の練習音が聞こえる。
文化祭で演奏する曲なのだろう。
少し離れた音楽室から届く旋律は、資料室の静けさによく響いた。
「十二年です」
やがて、三島先輩が口を開いた。
「え?」
「久世君を好きになってから」
十二年。
俺の五年間が、急に短く思えた。
「小学校から一緒でした。家も近く、親同士も知り合いです」
「幼馴染なんですね」
「その言葉は好きではありません」
三島先輩は静かに言う。
「幼馴染という言葉は便利です。どれほど長く隣にいても、恋人にはなれなかった関係を、まるで特別なもののように聞こえさせてくれますから」
胸の奥を刺された気がした。
俺にも分かる。
痛いほどに。
「告白は?」
「していません」
「どうして?」
「必要ありませんでした」
三島先輩は淡々と答える。
「久世君には、中学二年生の頃から好きな方がいました」
「今の彼女ですか?」
「はい」
つまり氷室よりも前。
もっとずっと前から、久世会長には好きな人がいた。
そして三島先輩は、それを誰より近くで知っていた。
「相談もされました。告白の方法も、贈り物も、一緒に考えました」
声は平坦だった。
けれど、だからこそ重かった。
「久世君が交際を始めた日は、一番最初に報告を受けました。私は笑って、おめでとうと言いました」
十二年間。
好きだった。
けれど気持ちは言えなかった。
それどころか、自分の好きな相手が別の女性へ告白する手伝いまでした。
「後悔していますか?」
「していません」
即答だった。
しかし、少しして。
「……そう答え続けています」
それだけ付け足した。
俺は何も言えなかった。
安い慰めを口にしたくなかった。
頑張りましたね。
次がありますよ。
もっといい人がいます。
そんな言葉で十二年を片づけるのは、あまりにも失礼だ。
「春日井君」
「はい」
「なぜ黙るのですか?」
「何を言えばいいか分からないので」
「正直ですね」
「無理に慰めても腹立つでしょうし」
「はい。非常に」
「じゃあ、言わなくてよかった」
三島先輩は僅かに目を細めた。
それが笑ったのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「一つだけ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「どうして一人で仕事を抱えるんです?」
「関係ありません」
「本当に?」
俺が尋ねると、彼女は再び黙った。
やがて、手元の資料へ視線を落とす。
「……久世君は、昔から困った人を放っておけません」
「いい人ですよね」
「はい」
その一言だけで、三島先輩の十二年間が伝わってくるようだった。
「ですから私は、困らない人間になろうと思いました」
頼らない。
泣かない。
弱音を吐かない。
何でも一人でできる。
そうすれば、好きな相手の負担にはならない。
きっとそれが、三島先輩なりの愛し方だったのだろう。
ただ。
「それ、しんどくないですか?」
「……」
「好きな人に迷惑かけないために、一人で全部抱えて。それで倒れたら、結局会長は心配すると思いますよ」
「春日井君」
「はい」
「正論は嫌われます」
「よく言われます」
「嘘ですね」
「初めて言われました」
三島先輩がまた少しだけ笑った。
俺は立ち上がり、床に積まれていたファイルを一冊持つ。
「半分やります」
「必要ありません」
「じゃあ三分の一」
「交渉の問題ではありません」
「なら四分の一」
「減りましたね」
「三島先輩が譲らないので」
彼女はしばらく俺を見つめた。
そして。
「……十冊だけです」
「分かりました」
「内容を確認し、重要な箇所へ付箋をつけてください」
「了解です」
「付箋の色は黄色。数字に不審な点があれば赤です」
「細かいな」
「当然です」
俺たちはしばらく無言で資料を確認した。
誰かを救ったわけではない。
三島先輩の十二年間が軽くなったわけでもない。
ただ、一人でやっていた仕事が少しだけ二人分になった。
それだけだ。
でも失恋した直後、氷室が初めて『アネモネ』へ来た夜も、同じだった気がする。
何も解決しない。
ただ一人ではなくなる。
それだけで、人間は少しだけ呼吸がしやすくなることがある。
「春日井君」
「はい?」
「あなたのアルバイト先は、何時までですか?」
「今日は二十時です」
「そうですか」
三島先輩は資料をめくる。
「コーヒーは美味しいですか?」
「店長に聞かれたら怒られますよ、その質問」
「では、質問を変えます」
三島先輩は眼鏡の奥から俺を見た。
「一人で静かに過ごせますか?」
俺は少し考える。
氷室。
夏目。
椎名。
白崎。
最近の『アネモネ』を思い浮かべる。
「……静かではないかもしれません」
「では結構です」
「でも」
俺は続けた。
「一人にはならないと思います」
三島先輩の指が止まった。
ほんの数秒。
それから、何事もなかったように資料へ視線を戻す。
「そうですか」
その日の十九時三十分。
店の扉についたベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げる。
入口には三島冬華先輩が立っていた。
制服姿のまま。
鞄を両手で持ち、少しだけ居心地が悪そうに店内を見回している。
窓際では氷室が紅茶を飲み。
夏目がパフェを食べ。
椎名が小説を書いていた。
「……騒がしいですね」
「言ったじゃないですか」
「帰っても?」
「もちろん」
三島先輩は入口を振り返る。
けれど。
帰らなかった。
「コーヒーを」
「はい」
「一番、苦いものをお願いします」
「砂糖は?」
「不要です」
そう答えてから、三島先輩は少しだけ考えた。
「……一つだけ、ください」
俺は何も言わず、砂糖を一つ添えた。
こうして。
恋の負け犬たちのたまり場へ。
十二年間、誰にも負けたと言えなかった先輩が、初めて足を踏み入れた。
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