第18話 生徒会任命
自分は鈍くない。
少なくとも、俺自身はそう思っている。
相手が怒っていれば何となく分かるし、落ち込んでいれば声をかける。店で客が水を欲しそうにしていれば、呼ばれる前に持っていく程度の観察力もある。
だから、俺は決して鈍感ではない。
ただ少しだけ、恋愛という分野における判断力が壊滅的なだけだ。
それを俺が自覚することになるのは、まだ少し先の話である。
「春日井君」
朝のホームルームが終わった直後。
氷室が俺の席へやってきた。
「本日の昼休み、生徒会室へ来てください」
「また?」
「文化祭の喫茶スペースについて、クラス別の担当表が完成しました」
「俺、生徒会役員じゃないんだけど」
「諦めてください」
「勧誘を飛び越えて諦めを要求された」
「すでに春日井君は、久世会長から臨時補佐として認識されています」
「初耳だよ」
「今、伝えました」
最近、このやり取りが増えている気がする。
「分かった。昼休みな」
「はい」
氷室は満足そうに頷いた。
だが、その場から動こうとしない。
「まだ何かある?」
「……今朝は、なぜ先に行ったのですか?」
「え?」
「昨日は一緒に登校しました」
「あれは偶然だろ?」
「三人が偶然同じ場所へ集まっただけですね」
「ああ」
「では本日も、偶然を期待していたのですが」
「無茶言うなよ」
氷室は僅かに頬を膨らませた。
「明日は、もう少しゆっくり家を出てください」
「何時に?」
「七時二十五分です」
「具体的だな」
「偶然会うためには、時間調整が必要ですから」
「それ、もう偶然じゃなくない?」
「気のせいです」
氷室はそう言い残し、自分の席へ戻っていった。
俺はその背中を眺めながら考える。
やはり、失恋した者同士というのは妙な連帯感が生まれるらしい。
昨日なんて、危うくまた別の意味に勘違いするところだった。
危ない危ない。
「なあ、悠人」
今度は隣から声がした。
琴葉だった。
「何?」
「明日の朝、久しぶりに一緒に学校行かない?」
一瞬、言葉に詰まった。
「蓮は?」
「朝練があるから先に行くって」
「そうなんだ」
「嫌?」
琴葉が少し不安そうに俺を見る。
以前なら、迷う理由などなかった。
琴葉から一緒に登校しようと言われれば、それだけで一日中機嫌がよかったと思う。
だが今は。
「悪い。明日はちょっと」
「予定あるの?」
「偶然に会う予定がある」
「……何それ?」
俺自身もよく分からなかった。
ただ、氷室に七時二十五分と言われた以上、先に約束したのは向こうだ。
「氷室さん?」
「なんで分かった?」
「聞こえてたから」
「そりゃそうか」
琴葉はしばらく黙った。
「最近、本当に氷室さんと仲いいよね」
「失恋仲間だからな」
「……そればっかり」
「事実だよ」
「じゃあ、失恋じゃなくなったら?」
「え?」
「氷室さんが、次の人を好きになったら」
琴葉の視線が俺へ向けられる。
「その人が悠人だったら、どうするの?」
心臓が一瞬だけ跳ねた。
だが、すぐに昨日の反省を思い出す。
「ないだろ」
「どうして?」
「氷室は久世会長を三年も好きだったんだぞ。それに俺とは、まだ知り合ってそんなに経ってないし」
「でも」
「それに本人が、俺の勘違いだって言ってたからな」
正確には、俺が「好かれているなんて勘違いだった」と言ったとき、氷室はなぜか怒っていた。
だが、否定しなかったということは、そういうことだろう。
「……悠人って、昔からそうだったっけ」
「何が?」
「分からない」
琴葉はそれ以上何も言わず、机へ視線を落とした。
最近、琴葉との会話はこうやって終わることが多い。
俺には分からないことばかりだった。
♦
昼休み。
生徒会室へ入ると、すでに何人かが集まっていた。
久世会長。
氷室。
白崎。
そして、生徒会会計の三島冬華先輩。
「来ましたね、春日井君」
三島先輩が俺を見る。
「座ってください。時間がありません」
「昼休みくらい、もう少しゆっくりしません?」
「残り四十三分十二秒です」
「秒単位なんですね」
「時間は有限です」
相変わらず隙のない人だ。
三島先輩の前には大量の資料と電卓が置かれている。
その隣で、久世会長が苦笑していた。
「冬華は昔からこうなんだ」
「会長」
三島先輩の指が止まる。
「業務中です。不要な昔話は控えてください」
「はいはい」
久世会長は慣れた様子で笑った。
そのやり取りを見ていた氷室の表情が、ほんの少しだけ硬くなる。
そして。
三島先輩もまた、久世会長の顔を一瞬だけ見て、すぐに資料へ視線を戻した。
以前、俺が見つけた写真。
中学生時代の二人。
あの写真を思い出す。
「春日井先輩」
白崎が俺の隣の椅子を引いた。
「こちらへ」
「ありがとう」
座ろうとすると、反対側から氷室が別の椅子を引く。
「こちらです」
「どっちでもいいだろ」
「よくありません」
「なぜですか?」
白崎が微笑む。
「春日井君には、わたくしが説明します」
「ですが私は書記です。議事進行については私のほうが適任では?」
「春日井君への説明に、生徒会の役職は関係ありません」
「では、副会長にも関係ありませんね」
また始まった。
「春日井君」
三島先輩が無表情で俺を見る。
「早く座ってください。すでに三十八秒浪費しました」
「俺のせいですか?」
「中心にいるあなたの責任です」
理不尽だった。
結局、俺は二人の間に座った。
「では、本題です」
三島先輩が資料を配る。
「文化祭二日目の人員不足が深刻です。特に午後二時以降、接客担当が四名不足しています」
「クラスの出し物と重なる生徒が多いからですか?」
「はい」
資料を確認する。
確かに、ほとんどの生徒が二日目の午後に自分のクラス担当を抱えている。
「なら、生徒会から追加で人を出すしかないんじゃないですか?」
「その予定です」
三島先輩は淡々と答えた。
「わたくし、氷室さん、白崎さん。それから春日井君」
「俺、生徒会じゃないですよね?」
「まだ言っているのですか?」
「諦めてください、先輩」
「同じこと言われたよ」
白崎が楽しそうに笑う。
「では、当日は先輩と一緒ですね」
「俺は途中でクラスにも行くぞ」
「その時間も同行します」
「なんで?」
「先輩のクラスが、どのような出し物をするのか興味があります」
「お化け屋敷だけど」
「二人で入りましょう」
「仕事は?」
「休憩時間を合わせます」
即答だった。
「白崎さん」
氷室が割り込む。
「春日井君には、わたくしと巡回業務があります」
「休憩中の話です」
「休憩時間も、突発的な問題に対応できるよう待機が必要です」
「副会長は、去年の文化祭で普通に休憩していましたよね?」
「今年から変わりました」
「今、変えましたね?」
「必要な変更です」
二人の応酬を聞き流しながら、俺は資料へ視線を戻した。
すると、三島先輩の担当欄に気づく。
「三島先輩、一人で会計と在庫管理をやるんですか?」
「はい」
「無理じゃないですか?」
「可能です」
「去年、二人でやってますよね」
「昨年度とは状況が違います」
「でも、今年のほうが規模は大きいですよ」
三島先輩が黙る。
資料を見る限り、明らかに仕事量が多すぎる。
「俺が手伝いますよ」
「春日井君には接客があります」
「交代の時間ならできます。それか、他に数字が得意な人を探しましょう」
「必要ありません」
「でも」
「必要ありません」
強い口調だった。
室内が静かになる。
三島先輩は視線を落とした。
「……申し訳ありません」
「いえ」
「ただ、わたくしは一人でできます」
「どうしてそこまで一人でやろうとするんですか?」
尋ねると、三島先輩の表情が僅かに揺れた。
「他人へ任せるより、自分で行ったほうが確実だからです」
「でも、倒れたら全部止まりますよ」
「倒れません」
「倒れる人は、大体そう言うんですよ」
以前、氷室にも似たようなことを言った。
三島先輩は俺を見つめる。
「春日井君は、誰にでもそのようなことを言うのですね」
「普通じゃないですか?」
「普通ではありません」
隣で氷室が即答した。
「そうなの?」
「そうです」
白崎まで頷く。
「先輩は、ご自身が思っているより人をよく見ています」
「でも恋愛には気づきません」
氷室が付け加えた。
「なぜ今それを言うんだよ」
「事実ですので」
三島先輩は俺たちを順番に見た後、小さく息を吐いた。
「……では、春日井君」
「はい」
「当日の午後一時から一時三十分だけ、会計補助をお願いします」
「分かりました」
「三十分を超えた場合、追加労働として記録します」
「文化祭に給料は出ないですよね?」
「精神的債務として計上します」
「何ですか、それ」
「いずれ返します」
その言葉に、久世会長が笑った。
「冬華が人を頼るなんて珍しいな」
三島先輩の肩が僅かに揺れる。
「会長」
「何?」
「仕事に戻ってください」
「はいはい」
久世会長は再び資料へ視線を落とした。
三島先輩も何事もなかったように電卓を叩き始める。
だが、その指が一度だけ止まったことに、俺は気づいた。
好きだった人に、いつも通り名前を呼ばれる。
それだけで嬉しい。
それだけで苦しい。
俺には、その感覚が少しだけ分かる。
「三島先輩」
「何ですか?」
「無理しないでくださいね」
「……春日井君」
「はい」
「あなたは、本当に誰にでもそうなのですか?」
「何がです?」
三島先輩は答えなかった。
ただ、その隣で氷室の視線が妙に冷たくなる。
「春日井君」
「今度は何?」
「本日の放課後、話があります」
「怖いんだけど」
「安心してください。説教です」
「全然安心できない」
白崎が小さく笑う。
「副会長。私も参加してよろしいですか?」
「あなたには関係ありません」
「先輩の女性への距離感についての話ですよね?」
「なぜ分かったのですか?」
「私も以前から問題視していましたので」
「二人で俺を囲む気?」
「必要であれば」
「ぜひ」
意見が一致してしまった。
そんな俺たちのやり取りを見ながら、久世会長は笑っている。
三島先輩は呆れたようにため息をつく。
そして俺は、ふと思った。
失恋した人間が集まる場所は、『アネモネ』だけではないのかもしれない。
学校という場所には、言えなかった気持ちや、選ばれなかった想いや、まだ終わったことにできない恋が、思っているよりずっと多く存在している。
そのすべてを救うことなんて、俺にはできない。
でも。
一人で抱え込んでいる奴を見つけたときくらい、話を聞くことはできる。
そんなことを考えていた俺へ、氷室が静かに言った。
「春日井君」
「何?」
「今、また余計な使命感を持ちませんでしたか?」
「なんで分かるんだよ」
「顔に書いてあります」
「どこに?」
「目の下辺りです」
「それ、前に夏目へ言ったやつだよな?」
「影響されました」
失恋仲間は、どうやら互いに似てくるらしい。
そしてこのときの俺は、まだ知らなかった。
三島冬華という先輩が、俺たちの『たまり場』へやってくる日が、そう遠くないことを。
そして彼女が抱えている恋が。
氷室の失恋よりも、ずっと長く、ずっと面倒なものだということを。
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