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第16話 気づきかける恋心

 人間というのは、同じ状況が何度も続けば、さすがに違和感を覚えるものらしい。


 俺の場合、その違和感がはっきりと形になったのは、金曜日の放課後だった。


「春日井君。今日は何時まで勤務ですか?」


「二十時まで」


「では、二十時までいます」


「氷室、それ毎回言ってない?」


「確認です」


 窓際の定位置で紅茶を飲みながら、氷室玲奈は当然のように答えた。


 今日も今日とて、『アネモネ』にはいつもの面々が集まっている。


 氷室。


 夏目。


 椎名。


 少し遅れて白崎も来る予定らしい。


 どうして俺のシフトに合わせて人が集まるのかは分からない。


 失恋した者同士、放課後に行く場所が欲しいのだろう。


「春日井!」


 カウンター席から夏目が手を上げた。


「水!」


「注文しろよ」


「じゃあ水!」


「無料だから注文に含めるな」


「失恋者割引で」


「そんな制度はない」


「アタシ、この店の常連だぞ?」


「来店回数の半分くらい、俺に奢らせてるよな?」


「過去を蒸し返す男はモテないぞ」


「財布を忘れた女に言われたくない」


 夏目は楽しそうに笑った。


 以前なら、真壁先輩の話題が少し出ただけで表情を曇らせていたのに、最近はそうでもない。


 たまに思い出すことはあるようだが、少なくとも一日中そのことばかりを考えてはいないらしい。


 いい傾向だと思う。


「春日井君」


 今度は椎名が呼ぶ。


「何?」


「昨日送ったメッセージですが、既読がついたのに返信がありませんでした」


「夜中の一時だったからな」


「起きていましたよね?」


「どうして分かるんだよ」


「最終ログイン時刻を確認しました」


「何の?」


「読書アプリです」


「そこまで見てるの?」


「進捗管理に必要です」


「編集者より厳しくない?」


 椎名は真剣な表情でノートへ何かを書き込む。


「今夜は百二十ページまでお願いします」


「俺の自由時間は?」


「小説を読む時間です」


「自由の定義から話し合おうか」


 すると、氷室が静かに口を挟んだ。


「椎名さん。春日井君の睡眠時間を削るような要求は控えてください」


「ですが、続きを読んでほしいです」


「健康を害してまで読む必要はありません」


「……では、二十三時までに百二十ページ」


「譲歩になってないよな?」


 俺の意思を置き去りにして、二人の間で読書計画が決定されていく。


 最近はこんなことばかりだった。


 氷室は俺の睡眠時間を気にする。


 夏目は勝手に俺の登下校予定を確認する。


 椎名は読書進捗を毎晩報告させる。


 白崎は生徒会の予定がない日まで俺の教室へ迎えに来る。


 そして全員、俺が他の女子と話していると妙に機嫌が悪くなる。


 ……いや。


 待てよ。


 俺はカウンターを拭きながら、ふと手を止めた。


 これ。


 もしかして。


 本当に、もしかしてなのだが。


 俺は窓際の三人を見る。


 氷室は俺のシフトを把握している。


 夏目は「春日井じゃなきゃ嫌だ」と何度か言っている。


 椎名の次回作に登場する男は、どう考えても俺がモデルだ。


 白崎に至っては、俺に好意があると明言している。


 白崎はともかく。


 まさか、他の三人も。


 俺のことを――


「春日井君」


「うわっ」


 気づけば、氷室がカウンター越しに俺の顔を覗き込んでいた。


「どうしました?」


「いや……」


「顔が赤いですが、熱でも?」


「ない。大丈夫」


「本当ですか?」


 氷室は立ち上がると、俺の額へ手を伸ばした。


 冷たい指先が触れる。


「ちょっ、氷室」


「動かないでください」


「近いって」


「体温を確認しているだけです」


 顔が近い。


 改めて見ると、氷室は本当に綺麗な顔をしている。


 長い睫毛。


 白い肌。


 少し赤みを帯びた唇。


 そんな美少女が、俺の体温を気にして額へ触れている。


 ……普通、ここまでするか?


「熱はなさそうですね」


「だから言っただろ」


「念のためです」


 氷室は安心したように息を吐いた。


 その表情を見て、また疑念が湧く。


 やっぱり、もしかして。


「氷室」


「はい」


「お前さ」


「はい」


 俺のこと。


 好きなのか?


 喉まで出かかった。


 だが、その瞬間。


「春日井!」


 夏目が勢いよく割り込んできた。


「氷室ばっか近い! アタシも熱測る!」


「不要です」


「なんで氷室が決めるんだよ!」


「医学的知識もないあなたが触れても意味がありません」


「氷室だって医者じゃないだろ!」


「少なくとも、あなたよりは冷静です」


「嘘つけ! 春日井が女の客に笑っただけでカップ割りそうな顔してたぞ!」


「割っていません」


「顔はしてた!」


「事実無根です」


「では、俺が確認します」


 椎名まで立ち上がった。


「何を?」


「発熱時の主人公の心理描写に使えます」


「俺は実験台じゃない」


「額を」


「出さないよ」


「では手首でも構いません」


「脈を測るな」


 三人が一斉に俺へ近づいてくる。


 俺は反射的に一歩後ろへ下がった。


「待て待て、お前ら距離が近いって」


「春日井君が体調不良の可能性がありますので」


「アタシも心配してるだけ!」


「取材です」


「一人だけ理由が違わない?」


 そのとき、店の扉が開いた。


「先輩」


 白崎だった。


 入店してすぐ、俺を囲む三人を見る。


 数秒の沈黙。


「……何をしているのですか?」


「春日井君の体調確認です」


「では、私も参加します」


「なぜですか?」


「先輩の体調が気になるからです」


「わたくしが確認しましたので必要ありません」


「副会長の判断だけでは信用できません」


「失礼ですね」


 また始まった。


 俺は四人を見ながら、さっき浮かんだ疑問を思い出す。


 氷室。


 夏目。


 椎名。


 白崎。


 全員、俺に近い。


 近すぎる。


 しかも、俺が他の女子と話すと露骨に反応する。


 これは本当に。


 もしかすると――


「悠人君」


 厨房から店長の声が飛んできた。


「四番テーブル、お願い」


「はい!」


 助かった。


 俺は逃げるようにトレーを持ち、客席へ向かった。


 注文を運びながら、必死に頭を冷やす。


 冷静に考えろ。


 氷室は久世会長を三年間も好きだった。


 夏目だって、つい最近まで真壁先輩を想っていた。


 椎名は篠崎先輩へ半年かけて小説を書いた。


 そんな彼女たちが、失恋して数週間程度で俺を好きになる?


 いやいや。


 ない。


 さすがにない。


 彼女たちは傷ついている。


 俺は同じ敗者として、その傷を少し共有しているだけだ。


 だから距離が近い。


 安心できる。


 それだけだ。


 白崎だけは例外だが、彼女は最初から俺に好意を持っていた。


 他の三人までそうだと考えるのは、いくらなんでも自意識過剰すぎる。


 俺は過去に一度、痛い目を見ている。


 琴葉が放課後に呼び出してきたとき、もしかして告白されるのではと期待した。


 結果はどうだった?


『私、高宮君と付き合うことになったの』


 見事な敗北報告だった。


 同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。


 女の子が優しい。


 距離が近い。


 連絡が多い。


 だから自分を好きだ。


 そんな単純な話ではないのだ。


「よし」


 俺は小さく呟いた。


 危なかった。


 もう少しで、とんでもない勘違いをするところだった。


 自分が複数の美少女から好かれているなどと思い込むなんて、負けヒーローとして失格である。


「春日井君」


 席へ戻ると、氷室が俺を見た。


「先ほど、何を考えていたのですか?」


「ちょっと恥ずかしい勘違いをしそうになってた」


「勘違い?」


「ああ」


 俺は苦笑する。


「お前らが俺のこと好きなんじゃないかって、一瞬思った」


 沈黙。


 本当に。


 見事なまでの沈黙だった。


 氷室の動きが止まる。


 夏目はスプーンを落とす。


 椎名はノートを閉じる。


 白崎だけが、額へ手を当てた。


「でも、さすがにないよな」


 俺が笑うと。


「……は?」


 夏目が低い声を出した。


「いや、考えてみれば当然だろ。氷室は会長を三年も好きだったし、夏目は真壁先輩、椎名は篠崎先輩。俺とは失恋した者同士で距離が近くなっただけだ」


「春日井君」


 氷室の声が震えている。


「はい?」


「あなたは、本当に……」


 そこまで言って、氷室は目を閉じた。


 深呼吸。


「……いえ。まだ早いですね」


「何が?」


「何でもありません」


 夏目が頭を抱える。


「嘘だろ……一瞬気づいたのに、自分で元に戻ったぞ……」


「何の話?」


「もういい!」


 怒られた。


 椎名は静かにノートを開く。


「『主人公は真実の扉へ手をかけた。しかし、自ら鍵を閉め直した』……」


「また小説にするなよ」


「事実です」


「何が?」


「こちらの話です」


 そして白崎は俺を見つめたまま、深くため息を吐いた。


「先輩」


「何?」


「私は、はっきり好意があると言いましたよね?」


「ああ」


「なのに、なぜ他の方まで同じ可能性があるとは思わないのですか?」


「いや、白崎が特殊なんだろ?」


「特殊……」


「最初から俺を好きな珍しい後輩」


「珍しい扱いなのですね、私は」


「褒めてるつもりだけど」


「全く嬉しくありません」


 なぜか四人全員が疲れた顔をしていた。


 俺は首を傾げる。


 やっぱり、さっきの発言が気持ち悪かったのだろうか。


「悪かったよ。変な勘違いして」


「謝らないでください」


 氷室が即答した。


「絶対に謝らないでください。余計に腹が立ちます」


「なんで?」


「春日井君」


 氷室は俺を真っ直ぐ見つめた。


「いつか必ず、今日のご自身を殴りたくなる日が来ます」


「そんなにひどい勘違いだった?」


「はい」


「そこまで言う?」


「盛大に後悔してください」


 意味が分からない。


 だが、一つだけ分かった。


 やはり俺の考えすぎだったらしい。


 彼女たちは失恋仲間。


 白崎だけは例外。


 それ以外の意味など、きっとない。


 そう結論づけた俺の背後で、店長が小さく笑っていた。


「もう少しだったのにね」


「店長、何か言いました?」


「いいえ」


 店長は楽しそうにグラスを磨く。


「悠人君は今日も平和ね、と思っただけよ」


 そうだろうか。


 目の前では氷室が無言で俺を睨み、夏目は机へ突っ伏し、椎名はものすごい勢いで何かを書き、白崎は真剣な顔で今後の方針を考えている。


 平和には見えない。


 それでも俺は、まだ知らなかった。


 この日、一度は真実へ辿り着きかけた俺を見て、彼女たちがそれぞれ別の結論を出していたことを。


 氷室は、もう少し積極的になるべきだと。


 夏目は、遠回しでは一生伝わらないと。


 椎名は、物語ではなく現実でも行動すべきだと。


 そして白崎は。


『やはり先輩には、逃げ道を残してはいけませんね』


 そう、静かに決意していたことを。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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