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第五百六十六話 「予兆(サイン)とは、事件が起きることではなく、何も起きない日常の隙間へ、冷たい視線だけが音もなく滑り込んでくる現象のことである」という話

やっとここまできたあ(´;ω;`)

世田谷署、合同捜査本部。

部屋の空気は重かった。


壁一面のホワイトボードには、企業名と矢印が幾重にも書き込まれている。


【General Logistics】


その名を中心に枝分かれする関連企業。


国内法人

海外法人

物流会社

持株会社

口座

資金移動

港湾

倉庫


どれだけ線を引いても、最後の一点だけが霞んでいた。

拓海は冷め切った缶コーヒーを一口飲み、モニターへ視線を戻す。

龍平は隣で資料をめくる手を止めなかった。


徹夜、

それも一日ではない。


公安から提供された情報。

ハミルトンが独自に解析した企業網。

海外照会で得られた法人記録。


今まで別々だった情報は、一つの巨大な構造として繋がり始めていた。


「……やっぱり駄目ですね」


龍平が赤くなった目を軽く押さえる。


「ここまでは見えるんです」


画面を指差す。


「関連企業も、資金の流れも、物流網も」


「General Logisticsへ繋がっていることまでは、ほぼ間違いありません」


拓海は小さく唸った。


「でも」


「証拠がない」


龍平が静かに頷く。


「令状を取るには弱い」


法人は存在する。

資金も流れている。


”だが、それだけでは犯罪にならない”


複雑に分散された企業。

海外を経由した資金。

名義を変え続ける物流。


どれも違法とは言い切れない。


あと一歩……

その一歩だけが、どうしても届かなかった。


「くそ……」


拓海は椅子へ深く身体を預ける。


「見えてんのになぁ」


焦り

疲労

そして、逃げられているという確かな感覚。


捜査本部には静かな焦燥だけが積み重なっていた。


***************


午後、

世田谷区内の幼稚園。

夕方の柔らかな日差しが校庭を照らしている。


園児たちの笑い声

迎えに来た保護者たち


平和そのものの風景だった。


校門の脇で、拓海はママチャリにもたれながら待っていた。


数秒後、


「父さーん!!」


リュックを揺らしながら悠馬が全力で駆けてくる。


「おー。」


拓海は笑って片手を広げた。


勢いよく飛び込んできた悠馬を受け止め、そのまま頭を乱暴に撫で回す。


「今日も元気だな、お前。」


「えへへ!」


「よし帰るぞ。」


その時だった。


「佐伯さん。」


担任の先生が、少し遠慮がちに声を掛けてきた。


「いつもありがとうございます。」


「いえいえ。うちのバカ息子、何かやらかしました?」


「ふふ、大丈夫ですよ。」


先生は小さく笑ったあと、少しだけ表情を引き締めた。


「あの……。」


声を潜める。


「気のせいならいいんですが。」


拓海も自然と先生の視線を追う。


園から少し離れた通り、

車が数台停まっているだけだった。


「最近、お迎えの時間になると、いつも同じ車が停まっている気がしまして……。」


「同じ車?」


「ええ。不審なことをしているわけではありません。」


「ただ、何となく気になって。」


拓海は数秒だけ黙った。


周囲を見る。



何もおかしいところはない。

刑事としての勘も、今は反応しなかった。


「……そうですか。」


小さく笑う。


「ありがとうございます。少し気にしときます。」


「お願いします。」


先生は安心したように頭を下げた。


拓海は悠馬を荷台へ乗せ、自転車を押し始める。


「帰るぞ。」


「うん!」


”何事もない”


本当に、それだけだった。


**************


ヨーロッパ某所

窓のない管理区画。


静まり返った部屋の中央で、一人の男が報告を聞いていた。


「報告します。」


部下が資料を差し出す。


「対象の観察を開始しました。」


ヴィクターは視線を上げない。


「佐伯悠馬。」


「生活圏。」


「通園経路。」


「保護者との接触。」


「交友関係。」


「現在まで異常なし。」


数秒の沈黙。

ヴィクターは資料を閉じることもなく言った。


「変化だけを報告しろ。」


「承知しました。」


部下が一礼する。


「対象には。」


ヴィクターの声だけが静かに落ちる。


「まだ触れるな。」


「はい。」


部屋は再び静寂へ戻った。


彼に必要なのは誘拐でも脅迫でもない。


”まず知ること”


佐伯拓海という男が

何を最も大切にし

何を守ろうとするのか


その答えだけだった。


***********


世田谷

佐伯家


「父さん!見て!」


「お、すげぇ。」


悠馬が描いたクレヨンの絵を掲げる。


「これ父さん!」


「俺か!」


「うん!」


「なんでこんな頭デカいんだよ!」


「えへへ!」


菜摘が味噌汁をよそいながら苦笑する。


「拓海、その前に手を洗って。」


「あ。」


「ほら。」


「はいはい。」


奥の部屋では双子が静かに眠っている。

テレビでは天気予報。

食卓には湯気の立つハンバーグ。


笑い声。

何一つ変わらない、いつもの夜だった。


その頃

マンションから少し離れた路肩。


街灯も届かない暗がりに、一台の車が静かに停まっていた。


運転席の男は佐伯家の窓明かりを見つめる。

表情はない。

胸元の通信機へ短く告げる。


「対象、帰宅。」


それだけだった。


通信は切れる。

車は動かない。

温かな食卓を照らす灯りと。

その外側で息を潜める冷たい視線。


まだ誰も知らない。

事件は、始まってすらいない。


だが

何も起きない日常のすぐ隣で

静かな観察だけが、確かに始まっていた。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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