第三十話 「ハミルトンの風呂は、もはやプールだ」という話
1メロスどのくらいなんだろう
部屋を出ると、廊下の空気は元の静けさに戻っていた。
さっきまでいたあの部屋だけが、少し違う場所だったのだと分かる。
「……さて」
エドワードが振り返る。
声は、いつもの調子に戻っている。
「心の整理は済んだか? タクミ」
「……お前のせいで、整理する前にバグりそうだけどな」
拓海は肩をすくめた。
あの部屋の空気。
日本の本と、漆器と、静かな気配。
エドワードという人間の輪郭が、少しだけ見えた気がした……が。
「ならば次のプロセスへ移行する」
間髪入れず、エドが続ける。
「……私の聖域へ案内しよう」
「……は?」
一気に現実に引き戻された。
「風呂? いや、俺、部屋でシャワーでいいって――」
「問題はない」
即答だった。
「ハミルトン家の客として、布の『強度』が足りないのは失礼にあたる」
「風呂と布の強度なんの関係がある!?」
振り向くと、エドワードはすでに何かを抱えていた。
「……なんでシルクのパジャマ持ってきてんだよ」
しかも、妙に装飾が多い。
フリルが、主張している。
「合理的だ」
「どこがだ」
会話が成立していない。
次の瞬間。
エドワードが、走り出した。
「おい待て!」
迷路のような廊下を、全力で駆けていく。
無駄に速い。
「方向性おかしいだろ!!」
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やがて、ひとつの巨大な扉の前で止まった。
エドワードが振り返る。
「ここだ」
一拍。
「……私の、プライベート・スパだ」
「……嫌な予感しかしねぇ」
重厚な扉が、ゆっくりと開く。
その瞬間。
拓海は、本日何度目か分からない沈黙に陥った。
……風呂ではなかった。
白い大理石の柱。
高い天井。
中央には、巨大な水面。
どう見ても。
「……プールじゃねぇか」
それも、普通ではない。
広さ、深さ、そして水量。
完全に、規格が違う。
「風呂だ」
エドは平然と言い切った。
「……どこがだよ」
「日課だ」
会話が、やはり成立していない。
その間に。
エドワードは、さっさと上着を脱ぎ、使用人に渡し、
いつの間にか白いタオルを腰に巻いていた。
動きが無駄に洗練されている。
「タクミ」
呼ばれる。
「見ていろ」
嫌な予感が、確信に変わる。
「これが、ハミルトン家の流儀だ」
「やめろ」
一瞬。
静止。
そして。
――ザッパァァァン!!!
完璧なフォームで、飛び込んだ。
水しぶきが、ほぼ事件だった。
「お前、風呂で溺れるわ!!」
思わず叫ぶ。
だがエドワードは、水中で滑らかに体勢を整え、
そのまま、クロールを始めた。
「……タクミ!」
優雅さと必死さが同居している。
「このお湯の『強度』!」
「強度って何だよ!!」
「日本の銭湯にも――負けていない!」
「比較対象そこ!?」
湯気の中で、全力で泳ぎながらドヤ顔をする男。
(……コイツ、マジで何なんだ……)
さっきまでの空気が、きれいに消えている。
別人か。
いや、同一人物なのが問題だ。
「タクミ!」
再び呼ばれる。
「来い!」
「行かねぇよ!」
「最適(合理的)だ!」
「だから何がだ!!」
しばらく言い合ったあと、
拓海はため息をついた。
そして。
湯に、そっと足を入れる。
「……っ、熱っ!」
想定より、はるかに熱い。
「設定は私だ」
「だろうな!!」
「今、私は――」
エドワードが、少しだけ浮かび上がる。
「茹でダコ(レッド・オクトパス)だ」
「自覚あるのかよ」
「ある」
満足げだった。
拓海は、巨大な湯船の端に腰を下ろす。
大理石の柱。
妙に立派な彫刻。
完全に場違いな自分。
「……落ち着かねぇ」
ぽつりと呟く。
そして、ふと。
(……菜摘)
頭に浮かぶ。
(助けてくれ……)
言葉には出さない。
(俺、とんでもないとこ来たわ……)
その横で
エドワードが、満足げに言った。
「……ふぅ」
一息。
「明日も、100メロスだな」
「泳ぎの単位にメロス使うな」
静かなツッコミが、湯気の中に消えた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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