第二十九話 「思い出の部屋」の話
エドワードが「日本」に興味を持ったきっかけ的な。
廊下は静かだった。
夕食の後の時間帯。
人の気配はあるのに、音だけが抜け落ちているような、不思議な静けさ。
「……こっちだ」
エドワードが歩きながら言う。
振り返らない。
拓海は少しだけ肩をすくめて、その後ろをついていった。
「どこ行くんだよ」
「問題はない」
「いや聞いてんのはそこじゃねぇ」
返事はない。
足音だけが、廊下に小さく響く。
やがて、ひとつの扉の前でエドが止まった。
ノックはしない。
わずかに手をかけて、そのまま開ける。
「入れ」
「……お前の部屋じゃねぇだろ、それ」
「違う」
即答だった。
中に入ると、空気が、少し違った。
同じ屋敷の中なのに、どこか柔らかい。
整っているのに、張り詰めていない。
生活の気配が、ほんの少しだけ残っている。
「……女の部屋か?」
「そうだ」
エドはそれ以上何も言わない。
拓海はゆっくりと視線を巡らせた。
目に入ったのは、小さな置物だった。
黒い、艶のある箱。
漆だ。
その隣に、和紙でできた何か。
見慣れた質感。
「……日本の、か」
思わず口に出る。
奥の棚に目を向ける。
本が並んでいた。
背表紙。漢字。
枕草子。
源氏物語。
見覚えのあるタイトルが、いくつも並んでいる。
さらにその隣。
近代文学。
太宰。
芥川。
漱石。
「……おい」
振り返る。
「これ、お前のか?」
「違う」
短く返る。
それだけ。
エドは部屋の奥に立ったまま、こちらを見ている。
特に説明する気配もない。
拓海はもう一度、本棚を見る。
古い。
だが、雑に扱われている様子はない。
何度も開かれた形跡。
けれど、傷んでいるわけでもない。
丁寧に使われている。
指先で、そっと背表紙に触れる。
「……ああ」
小さく、息が漏れた。
エドは何も言わない。
「そりゃ、そうか」
独り言のように呟く。
視線を戻す。
エドは、ただそこに立っている。
「だからか」
拓海は軽く笑った。
「やたら詳しいと思ったんだよ」
「……何がだ」
「日本語」
少し間。
「文学も」
エドはわずかに目を細めた。
だが、それだけだ。
肯定もしないし、否定もしない。
「別に」
とだけ言う。
「必要だから学んだ」
「それだけかよ」
「それだけだ」
即答だった。
だが、どこか噛み合っていない。
拓海は肩をすくめる。
「……まぁいいけど」
本から手を離す。
もう一度、部屋全体を見る。
静かだ。
けれど、冷たくはない。
さっきまでいた食堂とは、まるで違う。
「ここ、落ち着くな」
ぽつりとこぼす。
エドは少しだけ視線を動かした。
「そうか」
それだけ。
拓海は軽く息を吐く。
「……なんとなく分かったわ」
「何がだ」
「お前が面倒くさい理由」
「否定する」
「してねぇだろ今」
小さく笑う。
エドは何も言わない。
ただ、少しだけ距離を詰めた。
「タクミ」
「ん?」
「問題はない」
いつもの言葉。
だが、さっきとは少し違う響きだった。
「……便利だなそれ」
「事実だ」
「はいはい」
拓海は軽く手を振る。
もう一度、本棚を見る。
漆。
和紙。
本。
どれも、そこに“あるべきもの”のように収まっていた。
「……なるほどな」
小さく呟く。
理由は、分からないまま。
だけど、少しだけ。
エドワードという人間の輪郭が、見えた気がした。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




