第二百八十話 「頑張るとは、時々全部やめたくなる行為である」という話
辞めたくてもやめないのが拓海君かな。
一月。深夜。
千代田区の冬は、英国の湿った寒さとは違った。
乾いていて、鋭く、容赦なく骨に刺さる。
朝六時。祖父の竹刀に叩かれ。
昼は塾で、英語の論理に追い詰められ。
夜は予備校で、法律の文字に魂を削られる。
その帰り道。
コンビニの前で買った温かい缶コーヒーを握りしめ、拓海は白い息を吐いた。
「あれ、俺……なんでこれやってるんだっけ」
不意に、心の底に沈めていた黒い感情が浮かび上がる。
「帰国子女枠で、適当な大学行けばよかったんじゃねぇか……」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
「なんで、こんな地獄みてぇな生活、自分で選んでんだよ」
缶コーヒーの熱は、もう指先まで届かない。
「あと一年? ……無理だろ。死ぬって」
交差点の赤信号が、やけに長い。
「……もう、どこでもいいから決めちまって、終わらせた方が楽なんじゃねぇの」
どこへ向かっているのか。
何のために走っているのか。
一瞬、自分でも分からなくなっていた。
【世界からのノイズ】
重い腰を上げ、スマホを取り出す。
通知が溜まっていた。
英国から届いたエドワードの動画。
タイトルは、
『雪とは、私がいない世界を白く覆うものである(三部作:序)』
「……意味わかんねぇ」
祖父からの短いメール。
明日五時。遅れるな。
「鬼かよ……」
そして鞄の奥には、まだ捨てていなかった紙袋。
菜摘にもらったクッキーの空袋だった。
拓海はしばらくそれを見つめ、鼻で笑った。
「……うるせぇな、周り」
恋だ。
友情だ。
夢だ。
そんな綺麗な言葉で、今の自分は動いていない。
結局、自分をここまで引っ張ってきたのは、もっと泥臭い感情だった。
エドワードに。
高坂に。
そして―
「このままじゃ終われねぇ」と思った、昨日の自分に。
ただ、負けたくないだけだ。
【再起動】
深夜。自室。
机に向かったまま、拓海はペンを握って眠っていた。
翌朝。
目を擦りながらノートを開く。
隅に、自分でも覚えのない筆跡が残っていた。
I won't lose.
しばらく見つめる。
それから、拓海は小さく笑った。
「……バカじゃねぇの、俺」
立ち上がる。
冷たい水で顔を洗う。
そして何事もなかったように、また机へ戻った。
■ジョージの機密ログ(一月:自習室の亡霊)
一月。深夜のコンビニ前。
僕は見たよ。
サエキが缶コーヒーを握りしめたまま、しばらく動けずに立ち尽くしていたのを。
頑張るっていうのは、立派なことじゃない。
やめる理由を千個くらい抱えながら、
千一個目の意地で踏みとどまることなんだろうね。
ノートに残ったあの一文は、弱音の裏側から漏れた本音だった。
ハミルトン様。
君の意味不明な動画も、案外少しは効いていたのかもしれないよ(笑)
■ジョージ幕間(観測ログ:17-TOKYO・限界突破編)
エドワード(英国・無自覚な救い主):
サエキ再起動の報告を受け、
「当然だ。私の相棒が、日本のぬるい空気に負けるはずがない」と満足。
ジョージ(現地特派員):
「いやー、一瞬ほんとに消えそうな顔してたよ(笑)」
拓海(受験生):
新しい単語帳を開きながら一言。
「……うっせぇよ。やるって言ってんだろ、バカ」
(追記)
ジョージは、朝日に照らされたノートの文字を撮影した。
I won't lose.
「ハミルトン様」
シャッター音。
「君がどれだけ彼を管理したがっても―
彼を一番走らせてるのは、君の理屈じゃない。
彼自身の、どうしようもなく意地っ張りな心なんだよね(笑)」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




