第百九十三話 「飼いならすとは、相手を自由にする儀式ではなく、相手の帰る場所を自分という一点に定めてしまう契約である」という話
エドワード君の心境の変化かな
クレストフィールド学院
十月。
ラグビーの練習が終わる頃には、グラウンドはすでに藍色に沈んでいた。
夜の気配をまとったまま図書室に戻ると、そこは嘘のように静かだった。
ランプの灯りが机の上だけを照らし、その外側はやわらかく影に溶けている。
拓海は椅子に深く腰を落とし、課題の分厚い本を広げたまま、半分眠りかけていた。
向かいでは、エドワードが一冊の本を開いている。
ページは進んでいない。視線は、同じ挿絵の上に止まったままだ。
「……エド」
拓海が顔も上げずに言う。
「さっきからそこ、ずっと見てるだろ。王子さまに恨みでもあんのか」
エドワードは、ゆっくりと瞬きをした。
「……違う」
短く答えてから、ほんのわずかに息を吐く。
「この物語は……単純すぎる」
指先で、ページの端を軽く押さえる。
「王子さまは、一輪のバラを“特別”だと認識する。……だが、それは花そのものの価値ではない」
視線が、静かに拓海へ移る。
「自分が費やした時間によって、対象を唯一にしてしまう。……そういう構造だ」
言葉は冷静だった。
けれど、その奥にある熱は、隠しきれていない。
「……で?」
拓海がページをめくりながら、適当に相槌を打つ。
「お前、またそれでなんか言いたいんだろ」
エドワードは、少しだけ間を置いた。
それから、本を閉じる。
「……私は、お前に時間を使ってきた」
断定ではない。
どこか、自分に言い聞かせるような響き。
「お前の振る舞いも、思考も、……理解不能な部分も。……観測し、修正し、……形にしようとしてきた」
机に手をつき、ゆっくりと身を乗り出す。
「それが何を意味するのか。……私は、この夏、ようやく理解した」
ランプの光が、エドワードの瞳を掠める。
「お前を“特別”にしたのではない。……お前を特別だと、私が決めてしまったということだ」
沈黙が落ちる。
拓海はしばらく何も言わず、視線を本から外した。
それから、軽く息を吐く。
「……はぁ」
指先で、エドワードの額を押す。
「近いんだよ、バカ」
ぐい、と距離を戻す。
「あとそれな。今さらだろ」
「……何?」
「時間使ったとか、観測したとか」
拓海は肩をすくめた。
「俺も同じだけ、お前のそのめんどくせぇ理屈に付き合ってんだけど」
さらっと言う。
「お前だけが何かしてきたみたいな顔すんな?」
エドワードが、わずかに言葉を失う。
拓海はそのまま続けた。
「あと、“特別にした”とか言ってるけどな」
視線だけ上げる。
「お前、最初からそこにいただろ。勝手に」
一拍。
「だから今もいるだけだろ」
あまりにも当たり前の口調だった。
エドワードは、何も返せないまま、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑う。
「……なるほど」
力が抜けたような声。
「私は、飼いならしたつもりでいたが……」
本を持ち上げ、顔の半分を隠す。
「既に、お前の“日常”に組み込まれていた、というわけか」
「だからさっきからそう言ってんだろ」
拓海は面倒くさそうに言い捨てた。
「いいから座れよ。寒いんだよ」
空いた椅子を足で軽く引く。
エドワードは一瞬だけ迷ってから、そこに腰を下ろした。
距離は近い。
だが、不思議と圧迫感はない。
外では、風が窓を軽く叩いている。
エドワードは本の陰で、静かに息を吐いた。
自分が定義しようとしていた関係は、
とっくに別の形で成立していた。
それを壊すでもなく、誇るでもなく、
ただ“そこにあるもの”として扱う男が、隣にいる。
「……タクミ」
「ん?」
「……いや、何でもない」
そう言って、ページを開いた。
文字は、今度はちゃんと読めた。
■ジョージ幕間(観測ログ:十月のバラ編)
『サエキ事変ノート:定住済みの執着』
図書室の奥、暗がりの中で、ジョージはシャッターを切った。
ランプに照らされた二人。
距離は近いのに、どちらも無理に触れようとはしない。
「……あーあ」
小さく呟く。
「またやってる」
ノートを開き、さらさらと書き込む。
ハミルトン様:飼いならし宣言
結果:既に居住済み
くす、と笑う。
「遅いんだよね、いつも」
もう一枚、シャッター。
サエキ:変化なし
→常に受け入れ状態
ペンを止めて、少し考える。
それから、付け足す。
結論:逃げ場なし
「……完了してるじゃん」
肩をすくめる。
「気づくの遅すぎでしょ」
レンズ越しに、二人をもう一度見る。
並んで座るだけの、ただの光景。
だがそこには、妙な安定があった。
「……いいね」
小さく笑う。
「これ、壊れないやつだ」
ノートを閉じ、ジョージは静かに立ち去った。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




