第十八話 「特別とは、高価なものではなく、当たり前に差し出されるものだったりする」という話
プリンセス・エドワード回
放課後の談話室。
西日が大きな窓から差し込み、革張りのソファを黄金色に染めていた。
静かな時間だった。
本を読む者。
チェスを指す者。
誰も必要以上の声を出さない。
その窓際の一番奥。
いつもの席に、エドワード・ハミルトンは座っていた。
姿勢よく本を開き、静かにページをめくる。
絵画のように整ったその姿を、周囲の生徒たちは遠巻きに眺めている。
誰も近づかない。
近づけない。
そこは、学院中が暗黙のうちに認める"ハミルトンの席"だった。
―その扉が勢いよく開くまでは。
「おーい、エド!」
静まり返った談話室に声が響く。
「あ、いたいた! 探したぞ、お前!」
数人の生徒が一斉に顔を上げた。
見慣れた黒髪の留学生。
佐伯拓海だった。
いつものように制服は少し着崩れ、肩へ無造作に鞄を掛けている。
そのまま迷うことなく談話室を横切り、
当然のようにエドワードの向かいへ座った。
ざわ、と空気が揺れる。
(また入った……)
(本当にあそこ座るんだ)
(怒られないのか……?)
誰もが息を潜めて見守る。
エドワードは本を閉じ、小さく息をついた。
「……タクミ」
「悪ぃ悪ぃ」
まったく悪いと思っていない顔だった。
「ほら」
拓海は鞄をごそごそと漁る。
取り出したのは、少しくしゃくしゃになった紙袋。
その中から、やけに鮮やかなピンク色の紙パックを取り出した。
「これ、お前にやる」
エドワードは紙パックを見つめる。
見たことのない形だった。
「……何だ、この液体は」
「毒じゃねぇよ」
拓海は笑う。
「イチゴオレ」
「イチゴ……オレ」
「甘くてうまい」
そう言って、自分でストローの袋を破る。
器用に紙パックへ突き刺し、そのままエドワードへ差し出した。
「ほら」
エドワードは受け取ったまま動かない。
紙パックとストローを見つめる。
「……どうした」
「これで飲む」
「ん?」
「刺さってるそれ」
「ああ」
拓海は吹き出した。
「そのまま吸えばいい」
「吸うのか」
「吸う」
「なるほど」
妙に真剣に頷く。
周囲では数人の生徒がこっそり様子を窺っていた。
(飲むのか……)
(ハミルトンが……)
エドワードは一瞬だけ迷い、
ゆっくりとストローへ口をつけた。
小さく吸う。
甘い香りが広がる。
「…………」
無言。
拓海が覗き込む。
「どう?」
少しだけ間が空いた。
「……甘い」
「だろ」
「甘すぎる」
「まあな」
また一口。
「…………」
さらに一口。
そして、ほんの少しだけ目を細めた。
「……悪くない」
拓海は満足そうに笑う。
「だろ?」
その笑顔があまりにも自然だったので、
エドワードも何も言えなかった。
「おっと」
拓海がふと気付く。
「襟曲がってるぞ」
「……ん?」
返事を待たず、
伸びてきた手が制服の襟を整える。
指先で軽く払い、
形を直す。
ほんの数秒。
それだけだった。
談話室の空気が止まる。
(触った……)
(ハミルトンに……)
(怒られるぞ)
誰もがそう思った。
だが。
エドワードは何も言わなかった。
黙ったまま、されるがままだった。
「よし」
拓海は満足そうに頷く。
「これで完璧」
「……む」
エドワードは小さく咳払いをする。
「不敬だぞ」
「はいはい」
拓海は笑った。
「姫様」
「誰が姫だ」
「学院中が思ってるぞ」
「思っていない」
「思ってるって」
「思っていない」
少しだけ言い合って、
結局二人とも笑う。
「じゃ」
拓海は立ち上がった。
「クラブあるから行ってくる」
「……ああ」
歩き出す。
数歩進んだところで振り返る。
「明日も買ってこようか?」
エドワードは一瞬だけ考えた。
ほんの少しだけ。
「……必要だ」
「気に入ったんじゃん」
「違う」
即答だった。
そして少しだけ視線を逸らす。
「勅命だ」
「はいはい、勅命ね」
拓海は手をひらひら振る。
「また明日な」
「……ああ」
足音が遠ざかる。
談話室は再び静けさを取り戻した。
誰も近づかない。
いつもの窓際。
エドワードは紙パックを見つめる。
もう一度だけストローへ口をつけた。
甘い。
やはり甘い。
こんな飲み物は、今まで口にしたことがなかった。
こんなふうに誰かから何かを渡されたことも、ほとんどなかった。
「……甘いな」
小さく呟く。
そして。
「……悪くない」
窓の外では夕日がゆっくりと沈んでいく。
その日から。
窓際の席には、ときどきピンク色の紙パックが置かれるようになった。
もちろん。
それが"勅命"だったことは、言うまでもない。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




