第百六十三話 「不在とは、失って初めて気づく不便さではなく、平和すぎて不安になる静寂のことである」という話
久しぶりにのびのびってコト?
三月。試験休み。
クレストフィールド学院の空気は、明らかに変わり始めていた。
つい数日前まで、廊下の隅々に張り付いていた緊張は、イースター休暇を目前にして、ゆるやかにほどけていく。
行き交う生徒たちの足取りは軽く、声のトーンも一段上がる。
誰もが「少し先の休み」に意識を持っていかれているのがわかる。
窓の外では、ロンドン特有の細かい雨が降り続いていた。
遠くの景色は白く滲み、輪郭を失っている。
その曖昧さは、どこか心地よかった。
世界の境界がぼやけて、すべてが“どうでもよくなる”ような感覚。
その中で。
拓海は、寮の食堂に立っていた。
トレーを手にしたまま、無意識に顔を上げる。
正面。
いつもと同じ位置。
十メートル先。
そこにあるはずのものが、きれいに抜け落ちていた。
「……」
一度、視線を逸らす。
もう一度見る。
やはり、いない。
「……マジか」
思わず、声が漏れる。
「本当に、帰ったのかよ、あいつ」
半分、確認のような呟き。
「本当だよ、サエキ」
横から、軽い声。
ジョージが椅子の背に体を預け、ポテトを齧りながらこちらを見ていた。
「エドワード様は今ごろ、伯爵家の重苦しい広間で、お父様に“予約の適正化”についてありがたいお話を頂戴している頃じゃないかな」
「……帰された、ってことか」
「そうとも言うね」
ジョージは肩をすくめる。
「やりすぎたんだよ。あの人にしては珍しく、わかりやすく」
「……へぇ」
拓海は、もう一度だけ、空いた席を見た。
何もない。
ただの空間。
「……っしゃ」
一拍。
「自由だ」
さらに一拍。
「自由だぞ、ジョージ!!」
思わず声が上がる。
その瞬間。
周囲の空気が、わずかに弾けた。
「おい、サエキ!」
「やっと解放されたな!」
「お前、あの人の横にいると話しかけづらかったんだよ!」
笑い混じりの声が、あちこちから飛んでくる。
それは、遠慮が解けた証拠だった。
本来、拓海は。
誰とでも距離を詰めることができる人間だ。
気軽に声をかけて。
頼まれれば手を貸して。
気づけば、誰かの輪の中にいる。
そんな性質を持っている。
だが、その周囲に“あれ”がいるだけで。
妙に、空気は硬くなっていた。
それが今。
一気に崩れた。
「サエキ、この前の問題教えてくれよ」
「いいぜ。あれはな――」
説明しながら、自然と会話が広がる。
「このあとグラウンド行くやついるか?」
「行く行く」
「夕飯こっち来いよ。変なグミある」
「またかよ。まずかったら許さねぇぞ」
笑い声が広がる。
気づけば、拓海はその中心にいた。
誰かの隣に座り。
誰かの話に頷き。
軽口を叩いて、笑いを返す。
それは、あまりにも自然で。
何の違和感もない。
(……あー)
ふと、思う。
(これだよな)
肩の力が抜ける。
気を遣わなくていい距離。
特別でもなく。
孤立でもなく。
ただ、そこにいるだけで成立する関係。
(これでいいじゃん)
そう思う。
思うのだが。
夕暮れ。
グラウンドに残る人影が減り、風が冷たくなり始めた頃。
拓海は、ベンチの前で足を止めていた。
誰もいないフィールド。
音は、風と遠くの足音だけ。
無意識に。
視線が動く。
十メートル先。
何もない場所。
(……)
「……タクミ。汗が冷えるぞ」
聞こえるはずのない声。
「……そのシュート、精度が甘い」
続くはずのない小言。
それが、妙に鮮明に再生される。
「……」
息を吐く。
「……静かすぎんだろ、バカ」
小さく呟く。
すぐに、頭を振る。
違う。
寂しいわけじゃない。
ただ。
あの“騒がしさ”が消えたことに、脳が慣れていないだけだ。
それだけだ。
そういうことにして。
拓海は、ゆっくりと歩き出した。
■ジョージ幕間(長め)
「……いいね」
少し離れた位置から。
ジョージはその様子を眺めていた。
「完全に“通常運転”だ」
カメラを構え、シャッターを切る。
笑っている顔。
囲まれている姿。
自然な距離。
どれも、記録に値する。
「サエキ」
小さく呟く。
「君、気づいてないでしょ」
一拍。
「それ、元に戻ったんじゃない」
さらに一拍。
「“比較対象ができただけ”なんだよ」
視線を、十メートル先へ移す。
「ねぇ、ハミルトン様」
いない相手に向けて、軽く笑う。
「これ、見たらどう思う?」
さらに一拍。
「絶対、取り戻したくなるよね」
■(ハミルトン邸)
「……父上」
静かな部屋。
重い空気。
「タクミが今、誰と笑っているか」
一拍。
「そのリアルタイムの予約(報告)が、来ないのですが」
沈黙。
「……これは、何の刑罰ですか」
「……黙って、茶を飲め、エドワード」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




