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第百四十七話 「非接触の侵食、あるいは返信を忘れた少年が境界を奪われる」という話

中心にいる人って案外気が付かないよね

午後。ロンドン郊外、外交官レジデンスの一室。


整えられた冬の庭園が、窓の向こうに静かに広がっている。

剪定された枝は均整を保ち、芝は淡い光を受けて鈍く輝く。


室内には、上質な茶葉の香り。

銀器とアンティークのティーセットが、過不足なく配置されていた。


佐伯詩織は、手元の招待状の束から視線を外し、ゆっくりとカップをソーサーに戻す。


(……そういえば)


思考が、わずかに逸れる。


(ハーフタームに入って数日。……あの子から、何も来ていないわね)


端末が震える。差出人――母、絢子。


『拓海にセーターを送ったみたいなんだけど、お礼どころか返事が全然来ないって

菜摘ちゃんが気にしてるの。……少し様子を見てきてもらえないかしら』


「……あら」


詩織は、静かに息を吐いた。


「……あの子、そんなに余裕を失っているの?」


拓海にとって、菜摘は“日常の逃げ場”だ。

どれだけ面倒でも、完全に手放すことはしない。


それを放棄している。


つまり。


(……それ以上の“何か”に、捕まっている)


視線が、窓の外へと流れる。


(……また、来ているのね。あの翡翠色の執着が)


「車を回してちょうだい。学園へ」


短く、指示を出す。


一拍。


「……少し、“身内の調整”が必要になったわ」


外套を羽織る。


私的な時間は、ここで終わる。

詩織は、“歪みの中心”へと向かった。


クレストフィールド学院

午後の廊下。


ヒールの音は、ほとんど響かない。

だが、彼女が通るたびに、場の空気がわずかに整う。


秩序が、通過していく。


曲がり角。


詩織は、足を止めた。


(……やっぱり、あなたなのね)


角を曲がる。


窓際。光の中。


本を読む少年。


エドワード・ハミルトン。


「……懲りないのね。別荘から追い返したはずだけど」


ページを押さえる指が、止まる。


「……お久しぶりです、お姉様」


ゆっくりと顔が上がる。


「……あれは、“あの場”での話。……ここは、“別の場”です」


「そう」


詩織は一歩踏み込む。


「じゃあ、ここは“排除されるべき場”ということね」


否定も肯定もない沈黙。


「……あなた」


視線が、鋭くなる。


「どこまで入ったの?」


「……触れていません」


わずかに間を置いて、


「十メートルの境界オーダーは遵守しています」


「嘘ね」


即断。


「触れていないなら、あの子は“あの状態”にならない」


一拍。


「他者への返信を忘れ、内側に閉じる。……それを“触れていない”とは言わないわ」


詩織は、はっきりと言い切る。


「それは、“侵入ハッキング”よ」


空気が張る。


エドワードは、静かに本を閉じた。


「……お姉様は」


わずかに言葉を選ぶ。


「依然として、“外側”に立たれるのですね」


詩織は、微笑む。


整いすぎた、冷たい笑み。


「当然でしょ」


一拍。


「――私は、“不純物を排除する側”だから」


そのとき。


廊下の奥から、足音。

詩織の視線が、わずかに動く。


エドワードは、動かない。

現れたのは、拓海だった。


「……は?」


状況を理解するより先に、声が漏れる。


「……なんで、お前ら一緒にいんの」


空気が、固定される。


「ちょうど良かったわ、拓海」


詩織の声は穏やかだが、逃げ場はない。


「少し、話をしましょうか」


一歩、踏み込む。


「……あなた、自分が誰に、何を“奪われているか”理解していないでしょう」


「奪われてねぇよ」


反射的に返す。


「……ただ、……なんか最近、……落ち着かねぇだけで……」


「そう」


詩織は頷く。


「じゃあ、確認してあげる」


視線が、まっすぐに拓海を射抜く。


「――あなた、ここ数日で、何を“捨てた”の?」


沈黙。


「日本への返信?」


一拍。


「菜摘ちゃんへの気遣い?」


さらに。


「それとも」


詩織の声が、わずかに落ちる。


「……自分自身の“境界”そのもの?」


答えられない。


その事実だけが、場に残る。


そして。


拓海の視線が、無意識に動く。


吸い寄せられるように。


エドワードへ。


詩織の目が、冷たく細められる。


(……やっぱりね)


「……ねえ」


詩織は、静かに言った。


「それ、“関係”じゃないわ」


一拍。


「……ただの“占有バイアウト”よ」


風が通る。

誰も動かない。


ただ一つ。

この瞬間、三人の“距離”が、完全に再定義された。


■ジョージ幕間


『サエキ事変ノート:距離侵食編・第14節』


・ハミルトン vs 佐伯詩織、再戦

・サエキ拓海、自覚のないまま“紛争地帯の中心”に配置完了


現状:


ハミルトン:

非接触侵食を継続。すでにサエキの“無意識”という本丸に到達済み。


詩織:

外交官夫人としての権限と、身内としての情を背景に、

ハミルトンを“不純物”として排除する意思を明確化。


サエキ:

左右から引かれる重力に対し、逃げ方を見失いフリーズ中。


(追記)


「……うわぁ」


ジョージは、遠巻きにその光景を眺めながら呟く。


「……これ、“恋愛”じゃなくて、“国家間の利害調整”だよね」


一拍。


「……当のサエキが、いちばんの“被害国”なのに、それに気づいてないのが最高に面白い」

ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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