表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

80/81

第79話:虚無の終着点、そして残響の決戦

 車椅子に座る神崎健人の、わずか数センチの至近距離に瞬間移動したクロノス。神崎は、愛銃デザートイーグルの銃口を狂おしいほどの意志で悪魔の眉間へと向け直したが、引き金を引くよりも早く、クロノスはその右手を伸ばした。

 だが、放たれたのは攻撃ではなかった。

 クロノスは自らの顔を覆っていた無機質な仮面に手をかけると、それを無造作に剥ぎ取り、足元の血だまりへと投げ落とした。カラン、と虚しい金属音が執務室に響き渡る。

 仮面の下から現れたのは、瑞穂の最高権力者でも、アルカディアの絶対者でもない、ただの十七歳の少年、御堂司の素顔だった。

 神崎は、その素顔を見て息を呑んだ。

 そこには、神崎を嘲笑っていた時の愉悦も、家族を奪った時の底知れぬ悪意も、何一つ残っていなかった。司の瞳からは完全に光が消え失せており、まるで底の割れた深海のような、絶対的な「虚無」だけがそこにあった。

「……怒りで、俺を殺すのか?」

 神崎は、銃口を向けたまま、己の声を絞り出した。

「もしお前が、その女の死で我を忘れて俺を惨殺するなら……お前をここまで引きずり下ろした、俺の勝ちかな?」

 神崎の命がけの挑発。しかし、司の心には、その言葉すら一ミリも届かなかった。司自身、なぜ自分の心がこれほどまでに平坦で、冷たく冷めきっているのか分からなかった。ただ、世界のすべてが、どうでもよくなってしまったのだ。日々彼を苛んでいたあの狂おしいほどの「退屈」は、唯一のイレギュラーであった「くるみの死」によって形を変え、自らの存在そのものを押し潰す底なしの虚無感となって胸に居座っていた。

「……もう、どうでもよくなっちゃったんだ」

 司は、乾いた、感情の起伏が一切ない声でポツリと言った。

「アルカディアも、クロノスも、瑞穂も、官邸で死んだ総理も……。もちろん、神崎さん、あんたのことも。全部、全部、どうでもよくなった。自分でもなんでか分からないけどね。多分……飽きたんだと思う」

「何だと……?」

「神崎さんじゃ俺は殺せないし、かと言って、俺も別に死にたいわけじゃない。このおもちゃ箱には、もう俺の興味を惹くものは何一つ残っていないんだ。……だから、終わりにするよ。アルカディアの組織運営は、すべてミカラム……いや、村上さんに任せます。あとは好きにしてください」

 司は一歩下がり、床に横たわる血まみれの星野くるみの遺体を、そっと両腕で抱き上げた。その手つきだけは、世界の何よりも壊れやすいガラス細工を扱うかのように静かだった。

 思い通りに支配できないからこそ、彼女の存在だけが司の退屈を唯一紛らわせていた。その光が消えた今、この世界に司が留まる理由はなかった。

「それから、神崎さん。あんたには、今この瞬間をもって、アルカディアが保有するすべてのレッドセラフィムの絶対指揮権を譲渡します」

 司の言葉に、神崎の後ろに控えていた防衛軍の戦闘員たちが動揺に身を震わせた。

 司は視線を動かし、背後に佇む漆黒の外套の執事を見つめた。

「村上さん。勝手な申し出だけど……いいですか?」

 ミカラム――村上は、主のその凍りついた瞳を見つめ返し、静かに胸に手を当てて一礼した。

「……それがクロノス様の決められたことでおありならば、私は一切構いません。すべて、御心のままに」

 その瞬間、神崎の脳髄が、まるで沸騰したかのような異常な熱に襲われた。

「く、あ……ッ!?」

 神崎は残された右手で頭を痛烈に押さえた。だが、それは攻撃ではない。彼の脳の神経ネットワークに、世界中の、そしてこのディープ・エデンにひしめく何万、何十万体というレッドセラフィムの制御中枢が、ダイレクトに同期していく感覚だった。

 感覚的に理解できた。今や、あの深紅の悪魔たちの絶対的な主人は、クロノスではなく、この自分、神崎健人になったのだということを。

「……もう二度と、皆さんに会うことはないと思います」

 司は最後にそう言い残すと、くるみの亡骸を腕に抱いたまま、その場から音もなく、光の中に溶け込むようにして完全に消え去った。

 影の玉座も、世界の支配も、すべてを放り出して、悪魔は永遠に退場した。

 静まり返った執務室。

 残された村上は、主が消えた空間をじっと見つめ、そのサングラスをゆっくりと外した。彼の紫色の瞳に、哀愁と、そして狂おしいほどの決意が宿る。

(……クロノス様。あなたはお気づきになっていないでしょうが、あなたのその終わりなき虚無は、本当はもう解決したのですよ。あの娘の死に、それほどの虚無を抱いたことこそが、あなたが人間であった証拠なのですから)

 村上は心の中でそう呟くと、自らの運命を受け入れるように不敵に口角を上げた。

(私の最後の任務。それは、あなたを縛り付け、世界を巻き込んだこの悪魔の組織アルカディアを、私の手で完全に破壊し……そして、私自身もこの世から消えることです)

「――おおおおおおおッ!!」

 村上の裂帛の気合いが執務室の壁を震わせた。

 彼の全身から、これまでの比ではない禍々しい紫色のエネルギーが噴き出し、漆黒の外套がバラバラに引き裂かれた。背中から展開した巨大な漆黒の翼が周囲の瓦礫を吹き飛ばし、彼の肉体は完全なる『戦闘形態バトルモード』へと変異した。両腕には、極限まで圧縮された紫色のエネルギーブレードが形成され、その輝きは空間そのものを焼き切らんばかりに明滅している。

「神崎健人。……死力を尽くして、私を止めてみせよ!」

 戦闘の火蓋が、再び、そして最大級のスケールで切って落とされた。

 ***

「総員、構えろ! レッドセラフィム、突撃ッ!!」

 神崎の鋭い号令が、脳波通信を通じて要塞内に響き渡った。

 その瞬間、これまでディープ・エデンの通路で防衛軍と血みどろの消耗戦を演じていた深紅の悪魔たちが、一斉に動きを止め、神崎の命令に従って村上への牙を剥いた。防衛軍の重戦車、装甲車、そして何百機ものパワードスーツ戦闘員、さらに神崎の手駒となった数百体のレッドセラフィム。そのすべてが、最奥の執務室から廊下へと飛び出してきた「ただ一人の悪魔」――村上へと殺到した。

「ハァァァッ!!」

 空間が爆発した。

 村上の移動速度は、もはや常人の網膜には残像すら残さなかった。紫色の雷光となった村上は、正面から突撃してきた一体のレッドセラフィムの胴体を、エネルギーブレードの一閃で一瞬にして両断した。三倍の装甲を誇るはずの新型セラフィムが、金属の絶叫を上げて真っ二つに裂け、爆発する。

 しかし、死を恐れない深紅の軍団は、仲間が爆発する炎の中を突っ切り、死角から無数の高熱粒子線を村上へと照射した。

 ズドドドドドンッ!!

 一本一本がパワードスーツを気化させる熱線の雨が、村上の漆黒の装甲を直撃する。村上は翼を盾にして強引に熱線を弾き返し、そのまま地表を滑るような超低空のステップで敵の懐へと潜り込んだ。

「お前たちの動きは、すべて私が設計したものだ!」

 村上の放った凄まじい回し蹴りが、二体、三体のレッドセラフィムの頭部をチェリーのように粉砕した。破裂した頭部から真紅のオイルが噴き出し、要塞の白い壁を赤く染め上げていく。

 そこへ、防衛軍のパワードスーツ全部隊による一斉射撃が浴びせられた。大口径アサルトライフルの徹甲弾と、対装甲ロケット弾が村上の周囲で連鎖的に大爆発を起こす。

 ガガガガガガガガッ!!

「小癪な人間どもがッ!」

 爆炎を強引に引き裂き、無傷の村上が咆哮と共に躍り出た。彼の両腕のブレードが巨大な光の円弧を描き、パワードスーツの戦闘員たちを装甲ごと容赦なく両断していく。千切れた四肢と金属片が混ざり合い、凄惨な雨となって通路に降り注いだ。

 村上の戦いは、ただ敵を殺すだけではなかった。彼は移動する動線にあるアルカディアの重要施設、動力パイプ、メインコンピューターの配線、防壁の制御装置のすべてを、エネルギーブレードで容赦なく破壊し尽くしていた。

「この悪魔の巣窟を、瑞穂の地底から完全に消し去る!」

 ドゴォォン! ズガァァン!

 要塞のあちこちで大爆発が巻き起こり、天井から巨大なコンクリートの塊が次々と崩落してくる。

 しかし、神崎の指揮する軍勢の物量は、あまりにも絶望的だった。防衛区域から次々と新しいレッドセラフィムが要塞に雪崩れ込み、戦場へと文字通り無限に補給されてくるのだ。

「ターゲット、ミカラム。排除を継続」

 十体、二十体のレッドセラフィムが、文字通り肉の壁となって村上に組み付いた。

 村上は漆黒の翼を羽ばたかせ、凄まじい衝撃波でそれらを弾き飛ばそうとするが、新型セラフィムの圧倒的な質量は、村上の機動力をコンマ数秒だけ確実に削ぎ落とした。

 その僅かな隙を、防衛軍の重戦車部隊が見逃さなかった。

「てーっ!!」

 三台の重戦車が、零距離から主砲の同時微速射撃を敢行した。

 ズドォォォォンッ!!!

 凄まじい破壊エネルギーが村上の至近距離で炸裂した。いかに戦闘形態の村上といえども、この直撃は耐えきれない。彼の左の翼が根元からへし折れ、漆黒の装甲が激しくひしゃげて、内部の生体組織から大量の鮮血が噴き出した。

「ガ、ハッ……!」

 村上は血を吐きながら後方の岩壁へと激しく叩きつけられた。

 間髪入れず、神崎の命令を受けた五十体のレッドセラフィムが、その指先から一斉に収束粒子砲を放った。

「コンビネーション・バースト。最大出力」

 真っ赤な熱線の巨大な束が、壁に激突した村上の身体を完全に飲み込んだ。

 ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!!

 ディープ・エデンの最深部が、その熱量によってドロドロのマグマのように融解し、要塞全体が崩落の危機に瀕するほどの凄ましき大振動が走る。

 熱線の照射が止んだとき、そこには、見るも無惨な姿となった村上が立っていた。

 右腕のエネルギーブレードは明滅を繰り返し、今にも消え入りそうだ。全身の装甲は八割以上が剥ぎ取られ、満身創痍の肉体からは絶え間なく血が流れ落ちている。残された右の翼もボロボロに引き裂かれ、もはや飛翔することすら叶わない。

 それでも、村上は倒れなかった。紫色の瞳の奥にある決意の火は、まだ消えていなかった。

「……まだ、だ。まだ、この身体が動く限り……!」

 村上は最後の力を振り絞り、大地を蹴った。残された右腕のブレードを限界まで引き上げ、突撃してくるレッドセラフィムの群れの中へと、自ら一頭の孤高の狼のように飛び込んでいった。

 シュパッ! グシャッ!

 最後の一閃が、さらに数体のセラフィムを解体する。しかし、それが限界だった。

 数体のセラフィムが村上の両腕と両脚に組み付き、完全にその動きを封じ込めた。そこへ、パワードスーツの戦闘員たちが一斉に高周波ブレードを突き立てる。

 ザクッ! ズブシュッ!!

 何十本もの刃が、村上の強靭な肉体を容赦なく貫通した。

「……が……はっ……」

 村上の口から、大量の鮮血が溢れ出る。ブレードが消失し、彼の身体から力が完全に抜け落ちた。

 セラフィムたちが手を離すと、村上の満身創痍の巨体は、自らの血でできた深い海の真ん中へと、静かに膝をつき、倒れ込んだ。

 戦闘は、終わった。

 激しい銃声と爆音に包まれていたディープ・エデンに、機械の焦げるパチパチという音と、崩落する瓦礫の音だけが響く、異様な静寂が戻ってきた。

 兵士たちの列が静かに左右に割れ、その中央から、一台の車椅子がゆっくりと進み出てきた。

 車椅子に座る神崎健人は、血の海に倒れ、虫の息となっている村上の前で車椅子を止めた。神崎は愛銃をホルスターに収め、その瞳で、かつての友であり、クロノスによって無慈悲に改造され敵の幹部となりながらも、どこかで自分を生かし、導き続けた男の最期を見つめていた。

 神崎はゆっくりと車椅子から身を乗り出し、深く、魂の底からの言葉を村上へと告げた。

「……村上さん。今まで、本当にありがとうございました。……あなたがいなければ、私は、とうの昔に心を病み、生きることを諦めていた。私は、ここまで生きてはこられなかった」

 神崎の声は、悲痛だったが、不思議なほど真っ直ぐだった。

「あなたのくれたこの命と、今、手に入れたこのレッドセラフィムの力……。私はこれから、狂ってしまったこの世界を、人間の手に、元のあるべき姿へと戻すために……すべて使います」

 倒れたまま、血に染まった顔を僅かに上げた村上は、その紫色の瞳で神崎を見つめた。

 かつて復讐の怨念に囚われ、空っぽの人形になりかけていたかつての友が、今、世界の未来を背負う本物の「指導者」の目をしている。その成長の姿を見て、村上は満足そうに、本当に嬉しそうに、かすかに口角を上げて笑った。

「……神崎。……強くなったな……」

 村上は、その一言を最期に、深く息を吐き出した。

 その紫色の瞳から静かに光が消え失せ、彼の強靭だった肉体は、完全に沈黙した。アルカディアを、そして主を影から支え続けた最後の怪物は、自らの望み通り、この悪魔の要塞と共にその生涯を閉じたのである。

 神崎は、息絶えた村上の遺体を静かに見つめ、残された右手を天へと高く掲げた。

 要塞内にひしめく数万体のレッドセラフィムたちが、主人の意志に応えるように、一斉に天に向かって咆哮の音を響かせた。

 狂気の世界の終焉。そして、人間の手による奪還の戦いが、今、ここから始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ