エピローグ:退屈な輪廻と、静かなる湖畔
アルカディア壊滅から、五年。
神崎健人は、自らの手中に収めたレッドセラフィムの絶対指揮権を行使し、瑞穂国内のみならず、世界中の紛争地域へと深紅の悪魔たちを「調停者」として送り込んだ。
圧倒的な武力による、恐怖の均衡。それは皮肉にも、血で血を洗う世界に一時的な絶対の安定をもたらした。
しかし、平和は長くは続かなかった。
悪魔の兵器たちには、「五年」という生体機能の限界寿命が設定されていたのだ。五年後、レッドセラフィムたちが一体、また一体と機能を停止し、ただの砂となって崩れ落ちていくと、力によって抑圧されていた世界は、瞬く間に猛烈な権力闘争の嵐へと逆戻りしていった。
そして、神崎健人もまた、己の限界を超えて世界を背負い続けた身体が限界を迎え、再び混沌へと沈みゆく世界を見届けるようにして天へと召された。絶対的な指導者を失い、安定を保っていた瑞穂もまた、終わりの見えない凄惨な戦国乱世へと突入していったのである。
***
それから、八十年後。
かつて世界を支配していた大国という概念は完全に消滅し、人々は身を寄せ合い、小さな集落を形成して細々と生き延びるだけの荒廃した世界となっていた。
そんな血生臭い世界から遠く離れた、緑豊かな森と青く澄んだ湖畔の横。
そこには、ポツンと小さな木製のロッジが建てられていた。湖面を一望できるテラスには、手作りの木製の椅子が二つ、寄り添うように並んでいる。
片方の椅子には、深く皺を刻んだ一人の老人が腰掛けていた。老人は、隣の椅子へと静かにしわがれた手を伸ばす。
「……また、退屈な人生だったよ」
老人は、ぽつりと呟いた。
「一体、何がこの世界を退屈にするのか……私には、最後までわからなかったよ」
老人が手をかけた隣の椅子。そこに座っているのは、すでに着ていた服も朽ち果て、形もわからなくなった「ただの白骨」であった。
かつて彼を「司くん」と呼び、この湖畔のロッジで一緒に暮らしたいと笑って、彼を庇って散ったひとりの少女の成れの果て。
己の【絶対支配】や洗脳が一切効かない特異体質ゆえに、すべてが計算通りに進む退屈な箱庭で、唯一思い通りにならなかった「イレギュラー」。だからこそ彼女の存在だけが、司にとって最初で最後の『安らぎ』であった。
司は、神崎にすべてを譲り渡した後、誰の目にも触れぬこの場所で、彼女の遺したささやかな夢だけを叶え、ただ老いていったのだ。
老人は、膝の上で読んでいた本が風に吹き飛ばされてパラパラとページをめくる音を聞きながら、静かに目を閉じた。
そして、二度と開くことのない永遠の眠りへとついたのである。
***
目を開けると、そこは「あの部屋」だった。
見渡す限りの純白の空間と、目の前に浮かぶ半透明のステータス画面。
「……またか」
若き日の姿に戻った司は、ひどくうんざりしたように溜め息をついた。
何度繰り返しても、結末は同じ。世界を手に入れても、すべてを投げ出しても、心を満たすものは何もなかった。
「次の人生もどうせ退屈なんだろう。……だったら、ステータスなんて、もうすべて『1』でいい」
司は空中の画面を操作し、知力も、体力も、運も、すべてを最低値の1に設定した。そして何の未練もなく、空間に浮かぶ【スタート】ボタンを押し込んだのである。
司の姿が光となって転生の世界へと消えた、直後。
誰もいなくなった真っ白な部屋に、スッと一つの影が現れた。
黒のフォーマルスーツに身を包み、真っ黒なサングラスをかけた奇妙な男――森田である。彼は、どこにあるとも知れない「カメラ」へと視線を向けるように、ゆっくりと口を開いた。
「……皆様、いかがでしたでしょうか」
抑揚のない、だがどこか人の心を惹きつける独特の語り口。
「二度にわたる彼の人生。すべてを思い通りに操る絶対的な力を持っても、彼はなぜ、これほどまでに『退屈』だったのでしょう。……己の能力が一切通じない、唯一思い通りにならない少女の傍でしか安らぎを得られなかったことが、その答えかもしれません。何でも思い通りになってしまう世界とは、人間にとって至上の苦痛なのです」
森田は、サングラスの奥で不敵に微笑んだ。
「彼は、能力の有無に関わらず、常に退屈の中にいました。それはきっと、彼が自らの足で歩き、目標も、夢も、そして『愛』も、何も自ら見出そうとせずに生きていたからでしょうね。……今、この世界で『退屈な人生だ』と思っている、そこのあなた。もしかしたら、あなたもすでに、彼と同じ『ステータス1』の輪廻の中に、囚われているのかもしれませんよ」
どこからともなく、あの奇妙で不条理なメロディが響き渡る。
森田の姿が陽炎のようにフッと消え去り、物語は完全なる暗転をもって、その幕を下ろした。




