第78話:血の深淵、そして悪魔の虚無
地下要塞「ディープ・エデン」の第一外郭門が爆破され、漆黒の闇に包まれていたアルカディアの本拠地へと、神崎健人率いる防衛軍陸上部隊が濁流のごとく大挙してなだれ込んだ。
その数は数千、いや数万。地響きのような軍靴の音が通路に反響し、最新鋭の重戦車、装甲車、そして強襲用パワードスーツに身を包んだ精鋭たちが、一切の慈悲を捨てて突入を開始した。
しかし、彼らを出迎えたのは、ディープ・エデンの入り口付近に並ぶ、何百という真紅の繭から羽化したばかりの、神の代行者――レッドセラフィムの軍団であった。
旧型セラフィムの三倍以上の出力を誇る深紅の悪魔たちは、無機質な瞳を血のように赤く発光させ、防衛軍の物量に対して正面から立ち塞がった。
「全砲門、開けッ! 撃ち尽くせェェェッ!!」
前線の指揮官の怒号と共に、重戦車の主砲とパワードスーツのガトリング砲が一斉に火を噴いた。狭い地下通路は一瞬にして閃光と爆音に包まれ、毎秒数万発の徹甲弾と高熱のプラズマ弾がレッドセラフィムの群れへと降り注ぐ。凄まじい大爆発が巻き起こり、要塞の強固なコンクリート壁が粉々に砕け散って、視界を遮るほどの濃い硝煙が立ち込めた。
だが、深紅の悪魔たちはその弾雨を真っ向から突き破って進撃してきた。
旧型を遥かに凌駕する装甲強度は、重戦車の徹甲弾を表面で弾き返し、高熱のエネルギーすらも吸い尽くしていく。
「ターゲット、人類。駆除を開始する」
冷徹な機械音声が響いた瞬間、それは戦闘ではなく、一方的な「蹂躙」へと変貌した。
一体のレッドセラフィムが、音速を超える踏み込みで先頭の装甲車へと肉薄した。深紅の掌が装甲車のフロントグリルを素手で引き裂き、内部のエンジンを強引に引きずり出して爆発させる。その爆風の中を平然と突き進み、セラフィムは逃げ惑う歩兵たちの群れへと躍り出た。
「ぎ、ああああっ!!」
セラフィムの放つ圧倒的な物理的暴力の前に、兵士たちの強靭な肉体も装甲も、紙切れのように次々と吹き飛ばされていく。隣にいた兵士は、恐怖のあまり自動小銃を乱射したが、セラフィムはその銃身を素手で飴細工のように捻じ曲げ、そのまま強烈な一撃で男を岩壁へと叩きつけ、一瞬にして沈黙させた。
踏みつぶされる装甲、砕かれるコンクリートの嫌な音が、銃声と爆音の隙間を埋めるように絶え間なく響き渡る。
だが、防衛軍もただ殺されるだけの雑魚ではなかった。神崎が徹底的に鍛え上げ、死を覚悟した男たちの意地がそこにあった。
「怯むな! 数で押し潰せ! 奴らにも限界はあるッ!!」
パワードスーツに身を包んだエリート戦闘員たちが、三位一体のフォーメーションで一体のレッドセラフィムに組み付いた。
一機が背後からセラフィムの動きを拘束し、もう一機が脚部を固定する。
「死ねぇッ、バケモノがァァッ!!」
残る一機が、最大出力の高周波ブレードをセラフィムの首筋へと突き立て、強引にその強靭な装甲を切り裂いた。
青い火花が散り、初めてレッドセラフィムの一体が、頭部の機能を破壊されてその場に崩れ落ちた。
「いけるぞ! 殺せる! 撃て、撃ち続けろ!」
防衛軍は、仲間の犠牲を踏み越えながら、物量による飽和攻撃を敢行した。帝都各所に散らばった個体が多く、この場にいるレッドセラフィムの数は決して多くはなかった。その数の不利を、防衛軍は容赦なく突いた。
一体の悪魔を止めるために、百人の人間の命が消えていく。そんな狂気じみた等価交換の戦いが、ディープ・エデンの全域で繰り広げられた。
重戦車が自爆覚悟で零距離射撃を敢行し、セラフィムの胴体を吹き飛ばす。パワードスーツの集団が、装甲を破壊されながらも悪魔の翼をむしり取る。
通路は、夥しい数の防衛軍の残骸と、レッドセラフィムから流れる不気味な真紅のオイルで満たされ、地獄という言葉すら生ぬるい、凄惨極まりない消耗戦の舞台と化していた。
その激戦によって生じた、ほんの僅かな防衛網の隙間。
それを見逃す神崎健人ではなかった。
***
激しい銃声が遠くで響く中、アルカディアの最奥にある総帥執務室の重厚な扉が、大口径の対物ライフルによって内側から爆破された。
立ち込める煙を切り裂いて突入してきたのは、数機のエリートパワードスーツ戦闘員、そして、その中央で車椅子に座り、白いデザートイーグルを構える神崎健人であった。
影の玉座に深く腰を下ろしていたクロノスは、その惨めな簒奪者の姿を見ると、無機質な仮面の奥でクスクスと愉しげに笑い声を上げた。
「いやぁ、やっと来たねぇ、おっさん。待ちくたびれて欠伸が出ちゃったよ。その手足でよくここまで来られたね。ご苦労様」
クロノスの前には、漆黒の外套を纏ったミカラムが、主を護るように毅然とした態度で立ちはだかり、紫色の瞳で神崎たちを威嚇する。
神崎の瞳には、かつての憎悪も、悲しみも、もはや存在していなかった。あるのは、ただ目の前の災厄を消し去るという、絶対的な意志のみ。
「……お前と語る口は持たない」
神崎の冷徹な一言が合図だった。
「殺せ」
引き金が引かれた。神崎の白いデザートイーグル、そして周囲の戦闘員たちが持つアサルトライフルが一斉に火を噴き、執務室の狭い空間に、凄まじい金属の嵐が吹き荒れた。何百発もの弾丸が、クロノスとミカラムがいる場所へと正確に集中し、背後の壁や床を容赦なく破壊していく。
数十秒に及ぶ絶え間ない銃撃が止み、硝煙がゆっくりと晴れていく。
しかし、神崎たちの目の前に現れたのは、残酷な現実だった。
クロノスとミカラムは、衣服の一スジ、髪の毛の一本すら乱れることなく、完全に無傷のままそこに立っていた。クロノスを覆う不可視の重粒子シールドが、すべての弾丸を触れる前に塵へと変えていたのだ。
「あはは、だから言ったじゃん。無駄だって」
クロノスはソファから立ち上がり、仕立ての良いコートの裾を軽く叩いた。
「さぁ、神崎おじさん。前座は終わりだ。俺らをどうやって殺す? 何か面白いアイディアでもあるわけ?」
クロノスがそう言って、極上の嘲笑を浮かべた、その瞬間だった。
クロノスの視線が、破壊された執務室の扉の陰、瓦礫が積み重なる床の一点へと向けられ、ピタリと停止した。
そこには。
真っ白なパジャマを赤黒く染め上げ、瓦礫の中に倒れている、一人の少女の姿があった。
星野くるみであった。
彼女は司の「ここから出るな」という命令を破り、激しい戦闘の音に怯え、大好きな司の身を案じるあまり、部屋を飛び出してここまで来てしまったのだ。そして、突入してきた防衛軍の流れ弾か、あるいは爆風の破片をまともに受け、その細い身体は血まみれになっていた。
「……くるみ?」
クロノスの声から、初めて余裕が消え失せた。
彼は一瞬で神崎たちの横をすり抜け、くるみのもとへと駆け寄り、その血まみれの身体を抱き上げた。
「何故だ……何故部屋から出てきた。出てくるなと言ったはずだろ」
司の問いかけに、くるみは弱々しく、今にも消え入りそうなほど微かな呼吸の中で、ゆっくりと目をあけた。彼女の瞳には、自分の死への恐怖など微塵もなく、ただ目の前にいる司の無事を喜ぶような、いつものぽんやりとした、優しい光が宿っていた。
「……つかさ、くん……。しんぱい、だったから……無事で、よかった……」
くるみは、司の仮面に血の付いた小さな手を伸ばそうとしたが、その途中で力が尽き、腕が力なく床へと落ちた。
そして、そのまま静かに目を閉じた。二度と、その口から司の名が呼ばれることはなかった。
「……」
沈黙。
司は、腕の中で冷たくなっていくくるみの身体を、じっと見つめていた。
(……俺の洗脳が一切通じず、俺の完璧な計算式を、唯一無意識に狂わせてくれた女)
すべてが予定調和で進む退屈な世界の中で、彼女だけが、司の計算を超えた「イレギュラー」な行動をとり続けてくれた。彼女の存在だけが、司の心に唯一の『安らぎ』という名の『退屈しのぎ』を与えてくれていたのだ。
その世界で唯一の光が、今、完全に消え去った。
ゆっくりとくるみを床に横たえ、司は立ち上がった。
彼が神崎たちへと振り返った瞬間。
その仮面の奥、彼を包み込んでいたのは、怒りでも殺意でもなかった。これまで彼が一度も見せたことのない、世界そのものを色褪せさせるような、底なしの、絶対的な「虚無」であった。
ドンッ!!
空間が歪むような衝撃音と共に、クロノスの姿がその場から消失した。
次の瞬間、彼は車椅子に座る神崎健人の、わずか数センチ目の前へと、瞬間的に移動していた。




