第77話:簒奪の行進、あるいは最後の遊戯
帝都の政務を司る首相官邸、その総理執務室の空気は、完全に凍りついていた。
乃木は、かつての大鷹首相が遺した「あの男を信じるな、あれは人間ではない」という言葉を、頭の中で何度も、何度も反芻していた。
アルカディア。クロノス。
自らの保身と権力欲のために、あの悪魔たちと手を組んでしまった己の愚かさに、乃木は今更ながら激しい後悔の念に駆られていた。
デスクの上に置かれた、アルカディアへと直通するはずの特製ホットライン。そのボタンを乃木は何度も、指が白くなるほどの力で押し続けていた。しかし、受話器の向こうからは、虚しい電子音が響くだけで、二度とあの軽薄な少年の声が返ってくることはなかった。
外のモニターに映し出される帝都の街並みは、すでに日常の形を失いつつあった。新宿や渋谷から溢れ出したレッドセラフィムたちが、人間を素材にして幾何級数的にその数を増やし、霞が関のすぐ近くまで迫ってきているのだ。
「くそッ……なぜ繋がらない……! 私は総理大臣だぞ……!」
乃木が狂ったように呟いた、その時だった。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
重厚な軍靴の音が、静まり返った廊下から響き渡り、執務室のドアの直前でピタリと止まった。
直後、ガシャァァンッ!!という凄まじい衝撃音と共に、頑強な防爆仕様の二重扉が力任せにへし折られた。なだれ込んできたのは、最新鋭の自動小銃を構えた防衛軍陸上部隊の精鋭たちだった。銃口は一斉に、机の裏で硬直する乃木へと向けられる。
「な、なんだ貴様たちはッ!? 私は最高指揮官の……」
乃木が悲鳴のような声を上げた。その兵士たちの列が左右に割れ、中央から静かに一台の車椅子が進み出てきた。
車椅子に座っていたのは、全身に痛々しい包帯を巻き、失われた左腕の袖を虚しく垂らした男――神崎健人であった。右足の膝から下も失われ、かつての「英雄」の面影はどこにもない。しかし、その残された右腕には、あの白いデザートイーグルが、寸分の狂いもなく握られていた。
「何のようだ、神崎……! 君は、我が内閣の官房長官として、私を支えるポストに就いたはずだろう……!」
乃木は、全身から吹き出す冷や汗を必死に隠しながら、できる限りの威勢を張って神崎を睨みつけた。
神崎は、その言葉に対していかなる感情も示さなかった。彼の瞳の奥にあった復讐の狂気すらも、今は完全に削ぎ落とされ、ただ機械的な冷徹さだけがそこにあった。
「……主要な機関は、すべて俺の手の中にある。お疲れ様、乃木」
神崎の声は、低く、重かった。
引き金を引くことに、一瞬の躊躇いもなかった。
ドンッ!!
至近距離から放たれた大口径の弾丸が、乃木の眉間を正確に撃ち抜いた。乃木の身体は後ろへと吹き飛び、悪趣味な調度品が並ぶ壁を赤く染め上げながら、床へと崩れ落ちた。ただ保身のためだけに国を売った男の、あまりにも呆気ない幕切れだった。
神崎は官房長官などという、クロノスに与えられた玩具の席に座るつもりは初めからなかった。彼はその地位を利用して軍部の不満分子を瞬時にまとめ上げ、クーデターの首謀者としてこの国の全権を掌握したのである。
神崎は、床に転がる乃木の死体を一瞥もせず、残された右手で無線機を口元に寄せた。
「全部隊に命令。今から指定するエリアに、持てるすべての火力を集中し、総攻撃をかけろ。敵はアルカディアだ」
ニヤリともせず、勝利の余韻に浸ることもなく、神崎はただ淡々と命令を下した。
***
同じ頃、地下深くのアルカディア本部。
星野くるみとの穏やかな時間を終えた司は、これまで経験したことのないような、異様な喉の渇きを覚えていた。彼はベッドから起き上がると、薄暗い台所へと向かい、冷蔵庫から取り出した冷水をグラスに注いで一気に飲み干した。
冷たい液体が喉を潤した、その瞬間。
気配の抹消において絶対の自信を持っていた司の背後に、突如として「誰か」が立っていた。
「……今回の人生は、どうですか?」
低く、独特の抑揚を持った、どこか不条理な響きを持つ男の声。
司は驚愕し、グラスを握ったまま硬直した。これまで、アルカディアの総帥として、そしてクロノスとして、自分の背後を完璧に取れる人間など、この世に一人として存在しなかったからだ。
ゆっくりと振り返ると、そこには異様な風貌の男が佇んでいた。
仕立ての良い真っ黒なフォーマルスーツ、白いワイシャツ、そして夜の室内であるにもかかわらず、一切の光を通さない真っ黒なサングラス。昭和の時代のテレビからそのまま抜け出てきたような、超然とした佇まい。
司は、自分の脳の記憶回路が激しくバグを起こすのを感じながら、思考よりも先に、その男の名前を口にしていた。
「……森田。何のようだ?」
男――森田は、サングラスの奥で不敵な笑みを浮かべたかと思うと、その輪郭が陽炎のようにゆらゆらと揺らめき、次の瞬間には、空気の中にスッと溶け込むようにしてその場から完全に消え去っていた。
台所には、再び静寂だけが残された。
司は自分の残した冷や汗を手の甲で拭いながら、激しい違和感に襲われていた。
「……俺は、なぜあいつが『森田』だと知っているんだ?」
自分のこれまでの人生の記憶に、そんな男は存在しないはずだった。不気味な謎を胸に抱えながら、司はゆっくりとくるみの部屋へと戻っていった。
部屋の中では、いつものようにぼんやりとした星野くるみが、ベッドの上で膝を抱えて司を待っていた。司が部屋に入ると、彼女はふんわりとした、世界の崩壊など何も知らない、いつも通りの笑顔を向けた。
「司くん……。私ね、もし司くんがゆっくり出来るようになったらさ……静かな湖畔の横に、ちっちゃなロッジを建てて、一緒に暮らしたいなぁ、なんて」
あまりにも現実離れした、おとぎ話のような夢物語。
いつもの司なら、鼻で笑うか、心の中で激しく見下し、無視していただろう。しかし、先程の「森田」との遭遇による奇妙な揺らぎのせいか、あるいは何かが近づいてくる予兆のせいか。司は、自らの口から思いがけない言葉が漏れるのを止められなかった。
「……それも、いいかもな」
くるみは嬉しそうにパッと目を丸くした。司はそのまま彼女の隣でベッドに横たわり、束の間の眠りについた。
***
それから数時間後。
凄まじい地鳴りと地殻の振動が、アルカディアの地下要塞「ディープ・エデン」を激しく揺るがした。
神崎率いる防衛軍の主力部隊が、この地下要塞の全容を完全に割り出し、全軍を進めて総攻撃を仕掛けてきたのだ。
外周での戦闘を終え、数十体のレッドセラフィムを引き連れて戻ってきたミカラムが、焦燥をにじませて司の元へと駆け込んできた。
「クロノス様! 防衛軍がこちらに向かっています! すでに第一隔壁が突破されました!」
司は無言でベッドから起き上がると、いつもの衣服を身に纏い、無機質な仮面を顔に被った。そして、部屋の隅で震えるくるみに「ここから出るな」とだけ言い残し、部屋を出た。
廊下には、秘書官である赤城が怯えたように立っていた。
ミカラムが鋭い口調で赤城に詰め寄る。「何故だ、赤城。このディープ・エデンの座標は最高機密のはず。何故神崎たちに場所が割れた?」
クロノスは一歩、赤城へと歩み寄り、仮面の奥の瞳で彼女をじっと見つめた。「何故なのかな、赤城?」
「わ、私は知りません! 私は何も……!」
赤城は必死に否定したが、クロノスが指先を向け、彼女の精神を強制的に書き換える『洗脳』の波動を流し込むと、赤城の表情は一瞬で虚ろになり、自らの罪をベラベラと吐き出し始めた。
「私が……防衛軍に座標データを流しました……。クロノス様が、あの薄汚いくるみばかりを相手にして、私を見てくれない……。あんな女に夢中になって、組織の運営を蔑ろにするのが許せなかった……!」
ただの、嫉妬。
クロノスは仮面の奥で、本気で驚愕していた。
アルカディアの絶対的な理念による【洗脳】を完璧に施していたはずの幹部が、それすらも凌駕する「嫉妬」という醜く傲慢な人間の感情によって、組織を裏切ったのだ。
(……俺の洗脳が、破られた? いや、違う)
クロノスは、背後にある『くるみの部屋』の扉をちらりと見た。
生まれながらにして洗脳が一切効かない特異体質の女。彼女という計算外のイレギュラーな存在が、無意識のうちに赤城の感情を刺激し、間接的にクロノスの完璧な支配の方程式を狂わせたのだ。
「へぇ……。俺の洗脳と人間の嫉妬、この二つが戦うと、嫉妬が勝つこともあるんだね。人間って、本当に面白いな」
パチン、と。
クロノスが退屈そうに指を弾いた。
直後、見えない巨大な圧力に押し潰されたかのように、赤城の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ち、その命を完全に絶たれた。
「……それでは、嫉妬と恐怖では、一体どっちが上なのかなぁ」
クロノスは冷たくなった死体を見下ろし、ぽつりと呟いた。
「ミカラム、残存するすべてのレッドセラフィムを、ディープ・エデンの入り口に配置しろ。俺たちは執務室で奴らを迎える」
「ハッ。しかし、先の戦闘で捕らえた女性たちはどういたしますか?」
「レッドセラフィムと同じ区域に配置しろ。もう、小細工も戦略もいらない。暴力以外は、何も必要ないからね」
入り口の防衛区域に配置された捕虜の女性たち。その瞬間、レッドセラフィムたちは彼女たちを取り囲み、純白と深紅の装甲を展開して、赤いナノマシンの霧を散布した。
「いやぁっ……! 助けて、やめてぇっ……!」
女性たちの絶望の叫びが響き渡る。だが、無慈悲なナノマシンの霧は彼女たちの生体構造を瞬時に分解し、無機質な金属繊維へと強制的に再構築していく。皮膚の下を真紅の光が這い回り、女性たちはその意識を白く塗り潰されながら、兵器を生み出す何百もの巨大な真紅の『繭』へと姿を変えていく。
ディープ・エデンの入り口は、命をエネルギーに変えて悪魔を量産する、おぞましき防衛線と化した。
影の玉座に腰を下ろすクロノス。その傍らに立つミカラム。
そして、地下要塞の壁を戦車砲と重機関銃で粉砕しながら突き進んでくる、車椅子の簒奪者・神崎健人。
世界の命運を賭けた、クロノスと神崎の「最終決戦」の幕が、今ここに切って落とされた。




