第72話:絶対的な虚無、そして悪魔の慈悲
「強制終了」
クロノスがポツリと呟き、無造作に背を向けた直後。
安嵩鴨ヶ岳の山頂に、サラサラという、ひどく乾いた、砂のこすれ合うような微かな音が響き始めた。
硬直していた1号の巨体に、決定的な「崩壊」が訪れていた。
一〇〇パーセントまで解放され、鋼鉄すら凌駕する硬度と質量を誇っていた赤黒い筋肉が、末端の指先からボロボロと崩れ落ち始めたのだ。それは肉体が裂けるとか、細胞が壊死するといった生易しいものではない。クロノスがブラックボックス経由で送り込んだ不可視の重粒子エネルギーは、1号を構成する分子間の結合を、原子レベルで完全に切断していた。
「……ぁ……あ……」
1号の喉から、声にならない空気が漏れる。
彼の人智を超えた超再生能力が、崩れゆく肉体を修復しようと凄まじい勢いで細胞分裂を繰り返すが、再生する端からそれ以上の速度で砂のように崩壊していく。
やがて、その強靭な両腕が灰色の粉となって風に舞い、巨大な胸板が崩れ、大木のような両脚が重力に負けて砂山のように崩れ落ちた。
カランッ。
1号が常にかけていた黒いサングラスが、支えを失って岩盤に落ち、無惨に砕け散る。
わずか十数秒。
神崎健人が全財産と復讐のすべてを賭け、クロノスすらも一瞬の退屈しのぎに値すると評した究極の生体兵器は、一滴の血を残すこともなく、ただの灰色の塵となって鴨ヶ岳の凍てつく夜風に吹き飛ばされ、完全に消滅した。
圧倒的な、力の差。
もはや絶望という言葉すら生ぬるい、絶対的な次元の違い。
神崎は、すぐ傍らで激しく燃え盛る炎を見つめていた。愛する妻、佳奈の肉体はすでに炭化し、その顔に張り付いていた狂気の笑顔ごと、ただの黒い炭の塊へと変わり果てていた。
武器はすべて失われた。手駒は全滅し、切り札すらも最初から敵の玩具だった。
失われた左腕の付け根が、幻痛を通り越して麻痺している。
神崎は、岩盤の上に這いつくばったまま、静かに目を閉じた。
彼の心の中から、どす黒い復讐の炎も、クロノスへの殺意も、すべてが嘘のように消え失せていた。後に残ったのは、ただ果てしない「虚無」だけだ。
(……ここまでか)
神崎は、自らの魂が冷たく静まり返っていくのを感じていた。
(……佳奈。勇樹。すまない……俺は、何も成し遂げられなかった。だが、今……そっちへ逝く)
死を受け入れた人間の顔は、ひどく穏やかだった。
神崎は、自らを焼き尽くすであろう炎の熱を感じながら、静かに処刑の時を待った。
ザクッ、ザクッ。
仕立ての良い革靴が、砂利を踏みしめる音が近づいてくる。
クロノスであった。
金色の髪を風に揺らし、精巧なゴールドの刺繍が施されたダークネイビーのロングコートを纏った悪魔が、ポケットに両手を入れたまま、這いつくばる神崎を見下ろしている。無機質なマスクの奥の瞳には、何の感情も浮かんでいない。
「……終わりだ。殺せ」
神崎は、目を開けることなく、掠れた声で静かに告げた。
「俺の負けだ。……さっさと引導を渡せ」
死は救済である。この地獄のような現実から逃れ、愛する家族の待つ無の世界へと旅立つための、唯一の希望。
しかし、神崎は目の前の男が、そんな生易しい慈悲を持ち合わせているはずがないということを、誰よりも知っていたはずだった。
「殺す?」
クロノスの、ひどく場違いなほど明るく、冷酷な声が頭上から降ってきた。
「冗談。そんなあっさり終わらせたら、つまらないじゃん」
その言葉の意味を神崎の脳が理解するよりも早く。
クロノスが、ロングコートのポケットから右手を出し、神崎に向かって軽く指先を振った。
見えない重粒子の極小の刃が、空間そのものを切断するような鋭さで放たれる。
「――っ!?」
神崎の『右足』の太ももの半ばが、何の抵抗もなく、滑らかに切断された。
コンマ数秒遅れて、切断された動脈から鮮血が間欠泉のように噴き出し、鴨ヶ岳の岩盤を真っ赤に染め上げる。
「ガ、アアアアアァァァァァァッ!!」
神崎の喉から、獣のような絶叫が迸った。
静かな死の淵に沈みかけていた彼の意識は、想像を絶する激痛によって、この地獄の現実へと強制的に引き戻された。切断された右足が数メートル先に転がり、神崎は残された右腕で必死に切断面を押さえようとするが、溢れ出る血を止めることなど到底不可能だった。
「あはははは! いい声だね!」
血の海でのたうち回る神崎を見下ろし、クロノスは極上の笑みを浮かべていた。
「死んで逃げられると思った? 冗談。そんなあっけない結末、俺が許すわけないじゃん」
クロノスはしゃがみ込み、激痛に歪む神崎の顔を覗き込んだ。
「あんたはさ、俺のこのひどく退屈な人生の中で、一番マシな『暇つぶし』なんだよ。その最高のおもちゃが、俺の許可もなく勝手に壊れて退場するなんて、絶対にあり得ないから」
正義も、罪の精算も、一切関係ない。
ただ自分が退屈したくないから、お前を殺さない。その純粋すぎる自己中心的な悪意が、神崎の尊厳をさらに徹底的に粉砕していく。
「もうちょっと遊ぼうよ、神崎さん。あんたがどこまで惨めになるか。すべてを失って、手足をもがれて、それでもこの泥水みたいな世界で息を吸い続けなきゃいけない絶望。俺が最後まで特等席で見届けてあげる」
そしてクロノスはゆっくりと立ち上がると、足元でのたうつ神崎を見下ろして、ひどく楽しげに笑った。
「手足がこれじゃあ、これからは現場仕事無理だろうからさ。乃木ちゃんに言って、あんたの復帰後のポスト、用意しといてあげるよ」
「……あ、ぐ……な、にを……」
激痛で意識が遠のく神崎の耳に、この世で最も残酷な宣告が落とされる。
「復帰後は、瑞穂の『内閣官房長官』だからさぁ。俺と乃木ちゃんの下で、あんたが一番叩き潰したかったこの国のために、死ぬまで身を粉にして働いてよ」
自分がすべてを賭けて戦った国家。その中枢に、最高幹部として飼い殺しにされるという絶対的な屈辱。死ぬことすら許されず、一生を悪魔の玩具として生き恥を晒し続けなければならない。
それが、クロノスの用意した本当の「地獄」であった。
「また、俺と遊んでよ。神崎さん」
クロノスはコートに付いた見えない埃を払うように軽く手で叩くと、完全に絶望に沈んだ神崎から興味を失ったように背を向けた。
「……おい、村上。いつまで寝てるの。帰るよ」
粉砕された岩壁の陰から、装甲をボロボロに砕かれたミカラムが、痛みに顔を歪めながらも必死に立ち上がってくる。
「……はっ。申し訳、ありません。クロノス様」
ミカラムは大量の血を流しながらも、主の言葉に絶対の忠誠を誓って頭を下げる。
「まったく。お前もまだまだだね。明日からまた特訓だよ」
「……御意に」
クロノスはポケットに手を入れたまま、血の海で痙攣する神崎を完全に放置して、山頂の広場に停めてあるSUVへと歩き出した。ミカラムが足を引きずりながらその後を追う。
エンジンの始動音が響き、強力なヘッドライトが闇を切り裂く。
漆黒のSUVは、鴨ヶ岳の山頂から、来た時と同じようにゆっくりと山を下っていった。
後に残されたのは、20人の傭兵たちの凄惨な死体と、パワードスーツの鉄屑。
1号であった灰色の砂の山。
炭化し、静かに煙を上げる佳奈の遺体。
そして、すべてを失い、死の救済すら奪われ、狂気の国を支える歯車として生きることを強制された神崎健人の、声にならない慟哭だけであった。




