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第69話:漆黒の変異、墜ちゆく純白

鴨ヶ岳の山頂を吹き抜ける風は、もはや冷気ではなく、戦場から放たれる熱気と鉄錆の匂いを帯びていた。

九十パーセント。

その制限解除リミッターカットが行われた1号の肉体は、もはや人間の形をした別の何かに変貌していた。全身の毛穴から噴き出す白い蒸気が、彼の背後でゆらゆらと立ち上り、月光を反射して不気味な陽炎を作り出している。

「……行くぞ」

1号の呟きは、重低音の地鳴りのように響いた。

彼が次の一歩を踏み出した瞬間、地表の岩盤が爆発したかのように弾け飛び、彼の巨体は物理法則を無視した加速で残る五体のセラフィムへと殺到した。

「全個体、最高出力で迎撃! 目標を一点に固定せよ!」

ミカラムの鋭い号令が飛ぶ。

生き残った五体の白き御使い(セラフィム)は、瞬時に陣形を組み直した。彼女たちの装甲翼が限界まで展開され、内蔵された重力制御ユニットが激しく唸りを上げる。五体のセラフィムが円陣を組み、その中心に向けて掌をかざした。

「コンビネーション・バースト。収束粒子砲、照射」

五つの光点が重なり合い、山頂を真っ白に染め上げるほどの巨大な熱線が、1号の胸元を目掛けて放たれた。パワードスーツの装甲を一瞬で気化させる威力の光線が、1号の巨体を飲み込む。

「……やったか」

ミカラムが呟いた刹那、その光線を力任せに「手で引き裂いて」突き進んでくる怪物の姿があった。

「なっ……!?」

九十パーセントまで解放された1号の皮膚密度は、もはやダイヤモンドをも凌駕する硬度に達していた。彼は両腕を交差させて熱線を真っ向から受け流すと、そのままの勢いで円陣の先頭にいたセラフィムの喉元を鷲掴みにした。

「……沈め」

一言。1号が力を込めると、セラフィムの頸椎部分の超硬合金が、乾いた音を立てて飴細工のようにひしゃげた。

1号はそのまま、手にしたセラフィムを「棍棒」のように振り回し、隣接していたもう一体のセラフィムの胴体に叩きつけた。

ドガァァァァンッ!!

衝撃波が山頂を揺らす。衝突した二体のセラフィムは、複雑な機械構造を無惨に露出させながら、岩壁へと深々とめり込んだ。機能停止。残るは三体。

「化物め……ッ! これを見てもまだ、己を人間と言い張るか!」

ミカラムが叫び、ついに自身が羽織っていた漆黒の外套を力任せに引き裂いた。

外套の下から現れたのは、これまでの「執事」のような端正な姿とは似つかない、戦闘に特化した禍々しい装甲服に包まれたミカラムの真の姿であった。彼の全身の各所から鋭利な放熱フィンが展開され、両腕からはこれまでの数倍の出力を誇る、禍々しい紫色のエネルギーブレードが形成される。

「御前を汚す無礼、万死に値する。……ここで塵に還してやろう」

ミカラムの姿が、紫色の雷光となって消えた。

シュパッ!!

1号の頬に、深い切り傷が刻まれる。九十パーセントの1号の反応速度を、戦闘形態バトルモードに入ったミカラムが僅かに上回ったのだ。

ミカラムは縦横無尽に空間を跳ね、1号の死角――背後、頭上、足元から、超高速の連撃を浴びせかけていく。

「ハァッ!!」

紫の閃光が1号の肉体を刻む。だが、1号は痛みに顔を歪めるどころか、サングラスの奥で不気味に目を細めた。

「……速い。だが、軽いな」

1号は、あえてミカラムのエネルギー刃を左肩で受け止めた。

肉が焼ける嫌な音が響くが、1号は構わず、自身の肉体に食い込んだブレードを「筋肉の収縮」だけで固定した。

「……捉えたぞ、スピードスター」

「しまっ……!?」

ミカラムがブレードを引き抜こうとした瞬間、1号の巨大な右拳が、カウンターでミカラムの腹部を捉えた。

ドォォォォォンッ!!

先程までとは比較にならない重厚な衝撃が、ミカラムの全神経を駆け抜ける。戦闘用装甲が悲鳴を上げ、ミカラムは血を吐きながら弾丸のような速度で後方の岩山へと叩きつけられた。

そんな怪物たちの領域の戦いを、クロノスは相変わらず一歩も動かずに眺めていた。

金色の髪、無機質なマスク、そして精巧な刺繍が施されたダークネイビーのロングコート。彼は飛び散るオイルや血の飛沫を、不可視のシールドで悠然と弾き飛ばしている。

「あっはははは! 凄い凄い! まさに『肉』と『鋼』のぶつかり合いだね!」

クロノスは、ポケットに手を入れたまま、神崎へと向き直った。

「ねえ、神崎さん。あの1号ってやつ、本当に最高だよ。あんたが用意したただの使い捨てかと思ってたけど、ここまで楽しませてくれるとはね。……でもさ、一つ聞いてもいいかな?」

神崎は、失われた左腕の痛みなど忘れたかのように、銃口をクロノスの眉間に固定したまま、氷のような視線を返した。

「あんた、あんな化け物に自分の復讐を託して、本当にそれでいいの? 自分が人間であることを辞めてまで、ああいう『暴力の肯定』に縋る姿……かつての正義の記者が聞いたら、なんて言うだろうね」

「……黙れ」

神崎の声は、低く、重い。

「俺が何を捨てようが、何になろうが、貴様を殺せるならそれで構わない。……貴様という災厄を終わらせるためなら、俺は魂を悪魔にでも売る」

「魂? 売り先があるなら俺も教えてほしいよ。俺にはそんなもの、最初からないからさ」

クロノスは肩をすくめ、退屈そうに空を仰いだ。

「でも、残念だなぁ。おっさんが必死に組み上げたこの復讐劇……。その主演俳優(1号)がどれだけ頑張っても、結末エンドロールはもう、俺の手の中で書き換えられてるんだよね」

「……何だと?」

「くくっ。いいよ、今はまだその希望に浸ってて。その顔が絶望に変わる瞬間が、この映画のクライマックスなんだから」

ズガァァァァンッ!!

クロノスの言葉を掻き消すように、1号がさらに二体のセラフィムを、文字通り「引きちぎって」破壊した。

残るセラフィムは、たった一体。

そして、岩壁から這い上がってきたミカラムの装甲はボロボロに砕け、紫色のエネルギー刃も不規則に明滅している。

「……筋力解放九十パーセント、継続。異常なし」

1号は、全身から吹き出す蒸気の中で、サングラスを指で軽く直した。彼の周囲には、もはや「神の代行者」としての威厳を失ったセラフィムたちの残骸が、ただの鉄屑として転がっている。

「……さあ、次は貴様だ。黒コート」

1号の視線が、満身創痍のミカラムへと固定される。

圧倒的なワンサイドゲーム。神崎の復讐の刃が、ついにクロノスの喉元へと届こうとしていた。しかし、クロノスはその状況にあっても、依然として余裕の笑みを崩してはいなかった。

嵐の前の静けさが、鴨ヶ岳の頂を包み込もうとしていた。

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