第68話:怪物の目覚め、白き御使いの墜落
「お互い、ウォーミングアップは終わりかね」
クロノスのそのひどく軽薄な宣告が、鴨ヶ岳の凍てつく山頂に響き渡った瞬間。
神崎健人は、微動だにせず構え続けていた白いデザートイーグルの撃鉄を、カチリと音を立てて起こした。それが、ただ一つの合図だった。
「……了解した」
神崎の低く、感情の死滅した声が風に乗る。
「ここからが本番だ。……やれ、1号」
「承知」
神崎の背後に控えていた大男、1号が短く応えた。
黒いサングラスの奥で、無機質だった彼の瞳に、初めて「純粋な闘争と破壊への渇望」という名の凶悪な光が宿る。1号は、ゆっくりと両腕をだらりと下げ、深く、深く息を吸い込んだ。周囲の冷たい空気が、彼の巨大な肺腑へと吸い込まれ、異常な熱変換を伴って吐き出される。
「……筋力解放。九十パーセント」
ゴアァァァァッ……!!
直後、1号の肉体から、まるで活火山が噴火する前兆のような、恐ろしい低周波の地鳴りが響き始めた。
彼の全身の筋肉が、常軌を逸した速度と質量を伴って爆発的に膨張していく。衣服の残骸が引き裂かれ、露出した分厚い皮膚は、異常な血流と摩擦熱によって赤黒く変色し始めた。皮膚の下では、鋼鉄のワイヤーのように太く強靭な血管がミミズのようにのたうち回り、莫大なエネルギーを全身の細胞へと送り込んでいる。
シューッ、シューッという不気味な排気音と共に、1号の体表から大量の白い蒸気が噴き出した。
ただ筋肉が肥大化しただけではない。彼の存在そのものが放つ「物理的な質量」が跳ね上がったのだ。1号が足を踏みしめている硬質な岩盤が、彼の体重と筋力から発せられる圧力に耐えきれず、メキメキと蜘蛛の巣状にひび割れ、砕けて沈み込んでいく。
「なんだ、あの筋肉は……」
漆黒の外套を纏うミカラムが、かつて見たこともない異常な生体反応を前に、僅かに目を見開いた。
クロノスの背後に整列していた10体の白き御使い――セラフィムたちも、即座にこの規格外の脅威に反応した。彼女たちのAIは、目前の巨大な肉の塊が、先程までとは全く別の次元の破壊力を有していることを瞬時に演算し、最高ランクの警戒態勢へと移行する。
「脅威度、再計算。対象の殲滅を最優先とします」
純白の装甲翼を展開し、5体のセラフィムが先行して宙を舞った。彼女たちの指先から、パワードスーツの分厚い装甲をバターのように溶かした高熱の粒子線が、雨霰となって1号へと降り注ぐ。
だが、1号は回避しようとすらしない。
無数の粒子線が彼の赤黒く染まった筋肉に直撃するが、ジュッという皮膚の焦げる音と白い煙が上がるだけで、1号の足は一歩も止まらなかった。彼の人智を超えた超再生能力と、極限まで密度を高められた筋肉の鎧は、アルカディアの誇る光学兵器を「ただの虫刺され」程度にまで無効化していたのである。
「いくぞ」
1号の姿が、ふっとブレた。
消えたのではない。純粋な脚力のみによる、音速を超える神速の踏み込み。
「――ッ!?」
空中に展開していたセラフィムの一体が、迎撃のプログラムを作動させるコンマ数秒の間に、1号はその懐に完全に潜り込んでいた。
そして、無造作に放たれた右のストレート。
ドゴォォォォォンッ!!
何かの爆発弾が直撃したかのような、凄まじい轟音が山頂に炸裂した。
1号の拳は、セラフィムの純白の胸部装甲に触れた瞬間、それを紙切れのように粉砕し、中枢回路ごと上半身のすべてを「質量」のみで物理的に吹き飛ばしていた。
神の代行者である美しき人形は、悲鳴を上げる機能すら間に合わず、下半身だけの無惨なスクラップとなって岩場に墜落する。
「馬鹿な……純物理の打撃だけで、セラフィムの複合装甲を……!?」
驚愕するミカラムの眼前で、怪物の蹂躙は止まらない。
「遅い。軽すぎる」
1号の重低音の声が響くと同時に、彼の巨体がコマ送りのように戦場を駆け巡る。
背後からビームブレードを形成して斬りかかってきた2体目のセラフィム。1号は振り返りもせず、丸太のような左腕で裏拳を放つ。
グシャァッ!
セラフィムの美しい頭部が、まるで熟れたトマトのように弾け飛んだ。首から上のすべてを失った純白の機体が、痙攣しながら地に伏す。
さらに残る3体が、死角を突いて1号の巨体に組み付こうとする。
しかし、九十パーセントまで解放された1号の膂力の前では、セラフィムの機動力など何の意味もなさない。1号は、自らの右腕に組み付いてきた3体目のセラフィムの顔面を巨大な掌で鷲掴みにした。
「……沈め」
そのまま、圧倒的なパワーでセラフィムを眼下の岩盤へと激突させる。
ズガガガガァァンッ!!
鴨ヶ岳の山頂が大きく揺れ、セラフィムの体は硬い岩盤に数メートルもの深さまでめり込み、完全にひしゃげて機能を停止した。
1号は、岩盤に埋まったそのセラフィムの足首を掴むと、それを「鈍器」として振り回した。
「なっ――」
空中にいた4体目と5体目のセラフィムは、味方の機体という数百キロの巨大な質量兵器による薙ぎ払いをまともに受け、空中で激しく衝突し、純白の装甲を粉々に撒き散らしながら谷底へと墜落していった。
静寂。
わずか十数秒。一分にも満たない瞬きする間の出来事であった。
先程まで、裏社会のプロフェッショナルたちを赤子の手をひねるように解体し、無敵を誇っていた5体の白き御使いが、ただの「暴力」という原始的な力の前になす術もなく破壊され、原型を留めないジャンクパーツへと成り果てていた。
火器も使わず、ビームも使わず、細胞の変異すら持たない。ただひたすらに特化された「純粋な筋力と超再生」による、理不尽なまでの破壊の極致。
赤黒い蒸気を全身から立ち昇らせながら、1号は残された5体のセラフィムと、その奥に立つミカラムをサングラスの奥から見据えた。彼の拳からは、セラフィムの人工血液とオイルが滴り落ちている。
「……化物め」
ミカラムの端正な顔が、初めて明確な怒りと焦燥に歪んだ。
彼は理解した。先程までの1号との格闘戦は、ウォーミングアップどころか、1号がただ「相手の動きを見るための手加減」をしていたに過ぎなかったのだ。五分五分だと思っていたのは自分だけで、1号にとってはただの準備体操だったという屈辱。
だが、その凄惨な破壊の光景を見てもなお、全く動じていない男が一人いた。
クロノスである。
「あっはははは! いいね、最高だよ!」
クロノスは、自分の所有する最高峰の兵器が半壊したというのに、腹を抱えて笑い声を上げた。精巧なゴールドの刺繍が入ったダークネイビーのロングコートが風に揺れる。
「すごいじゃん、おっさん! ただの筋肉おばけかと思ったら、ここまで理不尽なパワーだとはね。あれだけ頑丈なセラフィムが、まるでおもちゃみたいに壊されちゃったよ」
クロノスは無機質な仮面の奥で瞳を輝かせ、まるで欲しかった新作のゲーム機でも見つけた子供のように、パチパチと楽しげに拍手をした。
「いやぁ、ここまで見事な『暴力』を見せられると、逆にすがすがしいね。……ねえ、村上」
クロノスは、笑いを含んだ声で、怒りに肩を震わせているミカラムへと声をかけた。
「そろそろ、あんたもコート脱いだら? このままだと、お気に入りの部下たちが全部鉄屑にされちゃうよ」
主のその言葉を受け、ミカラムは深く息を吐き出し、氷のような殺意を1号へと向けた。
「……御意に」
ミカラムの右手が、自身が羽織っている漆黒の外套の襟元を掴む。
1号は、サングラスの奥で面白そうに口角を上げた。
「……来い。お前の『本気』を、この筋肉で捻り潰してやる」
偽りの拮抗は完全に崩れ去った。鴨ヶ岳の山頂は、いよいよ人智を超えた化物同士が激突する、真の地獄へとその姿を変えようとしていた。




