表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

65/81

第64話:鴨ヶ岳の呼び声、あるいは悪魔の降臨

安嵩あきたか鴨ヶ岳の山頂は、季節外れの凍てつくような強風が吹き荒れていた。

眼下には、司の支配下となり、偽りの平和と狂信的な熱狂に包まれた帝都の夜景が、まるで星屑のように広がっている。しかし、標高千メートルを超えるこの岩場には、死の匂いと圧倒的な静寂だけが支配していた。

神崎健人は、真っ白なコートの裾を強風に激しく煽られながら、ただ一人、暗闇の淵に立っていた。

彼の足元には、真っ赤な血だまりが広がっている。その中心に横たわっているのは、数時間前に自らの手で心臓を撃ち抜いた、最愛の妻・佳奈の亡骸であった。

神崎は、失われた左腕の空洞を庇うこともなく、残された右手で愛銃である白いデザートイーグルを力強く握りしめていた。硝煙の匂いはとうに冷たい風に掻き消されている。佳奈の顔には、死してなお、司に植え付けられた「狂気の笑顔」が張り付いていた。神崎はそれを見下ろしながら、内側から湧き上がる真っ黒な感情を、ただ静かに、そして冷酷に圧縮し続けていた。

神崎の背後には、重鈍な駆動音を響かせる20人の部隊が展開している。

現政府から完全に孤立した神崎が、裏社会のパイプを総動員して雇い入れた非正規の戦闘員たちだ。彼らが身に纏っているのは、闇ルートで調達された最新型の軍用パワードスーツである。漆黒のマット塗装が施された重装甲、油圧シリンダーの微かな駆動音、そしてアサルトライフルと対装甲用の高周波ブレード。彼らは皆、金のために命を張るプロフェッショナルであったが、神崎の放つ異様な「死の気配」に当てられ、ヘルメットの奥で息を殺していた。

そして、神崎のすぐ斜め後ろ。

岩のようにそびえ立つ大男、『1号』が腕を組んで鎮座していた。彫りの深い無骨な顔立ちを隠す黒いサングラス。人間離れした異常な筋肉の隆起は、ただ立っているだけで周囲の空間を歪ませるほどの威圧感を放っている。彼もまた、一切の言葉を発することなく、来るべき破壊の時を待っていた。

準備は整った。神崎はコートのポケットから暗号化されたスマートフォンを取り出し、司の専用回線へと発信した。

数回のコール音の後、ひどく間の抜けた、気怠そうな声が響く。

『……もしもし? 神崎のおじさん? こんな夜更けに何の用?』

「……鴨ヶ岳の山頂にいる。決着をつけよう」

神崎の声は、もはや人間のそれではなく、地獄の底から響く怨念そのものだった。怒りも、悲しみも、すべてを焼き尽くした後に残る「絶対零度の殺意」。

電話越しの司は、少しだけ沈黙した後、心底鬱陶しそうにぼやいた。

『えー。山登りとか、超面倒くさいんだけど。俺、明日も一応学校あるし、優等生やらなきゃいけないんだよね』

「……来い、クロノス。俺はすべてを終わらせる」

『ふーん……』

電話口の向こうで、司が微かに笑う気配がした。神崎の言葉の奥にある、尋常ではない覚悟。玩具が自ら壊れようとする、その最期の輝きに、司の「退屈」がほんの僅かに反応したのだ。

『……まぁ、いいや。家で寝てるよりは、少しはマシな暇つぶしになりそうだし。特等席で待っててよ』

通話が切れる。

神崎はスマートフォンを握り潰すと、そのまま谷底へと放り投げた。

「……来るぞ。気を引き締めろ」

神崎の低く静かな号令に、20機のパワードスーツが一斉に兵装のセーフティを解除し、山頂に金属の鋭い摩擦音が鳴り響いた。

それから一時間後。

漆黒の闇に包まれた山頂へと続く曲がりくねった山道を、強烈なヘッドライトの光が切り裂きながら登ってきた。

先頭を走るのは、装甲が強化された漆黒の大型SUV。その後方には、キャタピラで土煙を巻き上げながら、重装甲の兵員輸送車が不気味なほどの静けさで追随している。

キィィィィンッ……。

ブレーキ音と共に、二台の車両が神崎たちから数十メートル離れた広場に停車した。

エンジンの鼓動が止み、山頂に再び強風の音だけが響く。パワードスーツの傭兵たちが銃口を向け、極限の緊張感が張り詰める中、SUVの後部座席のドアがゆっくりと開いた。

闇の中から降り立ったのは、圧倒的な「恐怖」と「空虚」を体現した男だった。

風に揺れる金髪。感情の一切を読み取らせない無機質で冷酷なマスク。そして、全身に精巧なゴールドの刺繍が施された、重厚なダークネイビーのロングコート。

アルカディアを統べる絶対者、『クロノス』としての正装であった。

クロノスが大地に足をついた瞬間、周囲の温度が数度下がったかのような錯覚に陥る。

その後ろから、運転席から降りたミカラムが、漆黒の外套を翻して静かに控える。さらに、後続の兵員輸送車のハッチが開き、美しい純白の装甲と、悪魔のような角を持つ『白き御使い(セラフィム)』10体が、一切の機械音を立てることなく、滑るように山頂の岩場へと展開した。

漆黒のパワードスーツ部隊と、純白のセラフィム。対極の存在が、殺意を交錯させる。

クロノスは、ポケットに手を入れたまま、ゆっくりと神崎の元へと歩み寄った。

彼の視線が、神崎の足元に転がる、真っ赤に染まった佳奈の遺体で止まる。

仮面の奥の瞳が細められ、クロノスは心底嬉しそうに、いや、極上の芸術作品を鑑賞するような目つきで、静かに口角を上げた。

パチ……パチ……パチ……。

クロノスは両手をコートから出し、ゆっくりと、わざとらしく無機質な拍手を送った。

その乾いた音が、風に乗って山頂に響き渡る。

「……素晴らしい。神崎さん、やっとそこまでたどり着いたねぇ」

クロノスの声には、純粋な称賛が込められていた。

「自分の手で、最後まで信じてくれていた愛する奥さんを殺すなんて。……本当に、狂ったねぇ。最高だよ。やっぱり俺の目に狂いはなかった」

「……お前に褒められるとは、光栄の至りだ。クロノス」

神崎の瞳には、一切の動揺がなかった。煽りにも、嘲笑にも乗らない。ただ、目の前の悪魔の首を狩るための計算だけが、彼の脳内で冷徹に回り続けていた。

「俺はすべてを失った。だが、そのおかげで、お前を殺すことに対する『一切の迷い』も消え去った」

神崎が右手のデザートイーグルをゆっくりと持ち上げ、クロノスの仮面の眉間へと照準を合わせる。

「……ほう?」

クロノスが、面白そうに首を傾げる。

神崎の背後で、1号が微かに前傾姿勢をとり、全身の筋肉を軋ませた。パワードスーツの20人も、一斉にセラフィムとミカラムにロックオンを完了する。

ルビコン川を渡り切った男の、最後の狂宴。

瑞穂の未来でも、正義でもない。ただの純粋な「殺し合い」が、この極寒の鴨ヶ岳山頂で、今まさに幕を開けようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ