第63話:未練の清算と、優等生の仮面
前日の夜。
神崎はかなり久しぶりに、かつての旧知である相馬が経営する居酒屋『海燕』に足を運んでいた。
周囲は乃木政権が推進する再開発地区に指定されており、かつて賑わっていた街並みは更地になり、相馬の古びた店だけがポツンと取り残されたように建っていた。
引き戸を開けると、カウンターの奥から「いらっしゃい」と相馬の声が聞こえた。
しかし、神崎の顔を見た途端、相馬の表情が強張る。
「……あっ、お前かぁ」
それは決して歓迎されていないことが、声のトーンだけで明確にわかる響きだった。
「なににする?」
「熱燗を頼む」
神崎が静かに席に座り、コートを脱がないまま答えた。
相馬は、神崎の失われた左腕と、削り取られたような殺伐とした顔つきを見て、少しだけ目を伏せた。
「……その様子だと、随分苦労したんだろうな」
「いや、自分で決めた道だ」
神崎は熱燗の猪口を受け取り、一口だけ口に含んだ。
「今日は最後に、相馬に会いたくてな」
相馬は何も言わず、無言で煮込みのお通しをカウンターに置いた。
「……今日で、この店も閉店さぁ」
相馬が寂しそうに店内を見回す。
「乃木の新法によって、こういう古い店は『景観にふさわしくない』んだとさぁ」
「……そうか」
神崎は一言だけ応え、猪口を空にした。
「……相馬。俺と組まないか?」
神崎が静かに誘い水を向けるが、相馬は力なく首を振った。
「いや……俺には、お前のようになれる気がしないさぁ。大人しく、田舎に帰るよ」
「……」
(あのときは、すまなかった)
喉まで出かかったその謝罪の言葉を、神崎はぐっと飲み込んだ。すでにルビコン川を渡った自分に、過去を謝罪する資格などない。
神崎は無言で代金を置き、夜風の中へ去っていった。
***
翌日。
神崎は、1号と共に大型のSUVで北へと車を走らせていた。
向かう先は秋嵩市。かつて愛した妻、佳奈の実家がある場所である。神崎自身の、人間としての『最後の未練』を完全に断ち切るためだった。
1号は何も言わず、ただサングラスをかけて後部座席に静かに座っている。運転席の神崎もまた、無言のままだった。ただ、バックミラーに映るその目には、すべてを焼き尽くすような決意が宿っていた。
車が秋嵩市内の住宅街に入り、古びた一軒家の前に停まる。
神崎が車を降り、実家のチャイムを鳴らすと、少ししてドアが開き、佳奈が現れた。
「……何か用事?」
かつて愛し合った夫に対するものとは思えない、ひどく素っ気なく、空虚な声だった。
「あぁ」
神崎は静かに頷くと、ぽつりぽつりと、自戒のように語り始めた。
「俺は、どこで間違えたのか……ずっと考えていたんだ」
佳奈は無表情のまま、ただドアの前に立っている。
「出会って……正義のために、真実を世の中に知らしめないといけない、それが俺の使命だと思っていた時からなのか。新聞記者になって、最初のスクープを潰された時……自分は新聞記者を辞めているべきだったのか。佳奈は、何を思ってそんな俺についてきてくれたのか」
神崎の言葉には、深い後悔と血の匂いが混じっていた。
「それとも、南波でスクープを手に入れて戦い抜いたことが間違いだったのか。……周りから作られた『英雄』になって、有頂天になって……俺は、息子まで失った」
神崎はゆっくりと、懐から真っ白なデザートイーグルを取り出し、サイレンサーを装着した。
「俺はもう、前に進むしかない。……クロノスを叩き潰すまでな」
銃口が、佳奈の心臓に向けられる。
「俺は、何もかも消し去ることにした。……すまない」
その瞬間、無表情だった佳奈の顔に、不気味なほど満面の『笑顔』が張り付いた。
優子と同じ、司によって心を壊された者特有の、純度100パーセントの狂気の笑顔だった。
「先に逝っています。……クロノス様に消されるあなたが、私には目に見えます」
パスッ。
くぐもった発砲音が響き、佳奈は満面の笑みを浮かべたまま、崩れ落ちて絶命した。
神崎は倒れた妻の亡骸を一度だけ見下ろすと、表情を変えることなく車へと戻り、再びアクセルを踏み込んだ。
***
同日。第一帝都高校。
司が登校し、教室の扉を開けると、そこには何ともいえない重苦しい空気が漂っていた。
司の自宅が火災に遭い、恋人であった優子の家も燃え、全員が死亡したというニュースは、すでに学校中に知れ渡っていた。
昨日まで優子を「狂っている」と糾弾していた生徒たちも、あまりの凄惨な事件に言葉を失い、司になんと声をかけていいかわからず、ただ遠巻きに見つめることしかできなかった。
「御堂……その、本当に大変だったな。気を落とさないでくれよ……」
担任の教師たちが、恐る恐る近寄り、月並みな慰めの言葉をかける。
しかし、司の心の内には悲しみなど微塵もない。
(……ほんと、馬鹿みたいだ)
ただ、この空気に付き合うのが心底面倒なだけだった。
司は、完璧な『優等生の仮面』を被り、少しだけ目を伏せて悲しげな表情を作った。
「ありがとうございます、先生。でも、大丈夫です。……二人の分まで、強く生きますから」
その言葉に、教師たちは息を呑み、女子生徒の何人かは思わず涙ぐんだ。
「今はしばらく、親戚のおじさん(ミカラム)のところでお世話になりますので、ご心配されなくて大丈夫です」
悲劇を乗り越えようとする、完璧な少年の気丈な振る舞い。
この一言が、教師や生徒たちの心に強烈な「感動」を与えた。
「御堂くん、立派だよ……!」
「司くん、何か私たちにできることがあったら、なんでも言ってね!」
「応援してるからな!」
クラスメートや他のクラスの生徒たちが、次々と司の周りに集まり、同情と励ましの言葉をかけ始めた。
感動の渦に包まれる教室の中心で、司は悲しげな笑みを顔に貼り付けたまま、心の中で毒づいていた。
(……あぁ、くだらない。退屈すぎて、欠伸が出そうだ)
司は、こみ上げてくる盛大な欠伸をこらえるのに、ただ必死であった。




