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第60話:漆黒の箱庭と、白き復讐者

大鷹宰相の死が伏せられた「空白の三十日」を経て、乃木内閣が発足した瑞穂国は、司にとっての巨大な「遊び場」へと変貌を遂げていた。

街には司の気まぐれな審美眼によって『国民風紀維持法』が施行されている。

「不快な表情を浮かべること」や「洗練されていない服装で歩くこと」は罪とされ、違反者は即座に連行される。公園では、ただ「美しい」という理由だけで、古くから市民に愛された広場が取り壊され、中身のないサイバーパンクな鏡面のモニュメントが乱立した。人々は司が描く「完璧な風景」のパーツとして、引きつった笑顔で日常を演じることを強要されていた。

***

そんな狂気の熱狂を他所に、神崎健人は退院の日を迎えた。

彼が向かったのは、国家情報省・諜報局が管理する極秘の『強化人間研究所』。

神崎は全身を潔癖なまでの白で統一したコーディネートで現れた。

真っ白なコートをマントのように肩に掛け、失われた左腕を隠している。その姿は、血塗られた過去を塗り潰そうとする復讐者の執念を体現していた。

「退院、おめでとうございます。局長」

高田所長が神崎を迎えるが、神崎はその言葉を無視し、冷徹な視線をカプセルへと向けた。

「高田。……例のものは、すでに起動しているのか?」

「待機モードです。完全起動させれば、代謝の異常加速により、おそらく一年程度しか生命活動を維持できないでしょう」

「一年もあれば、十分だ。……起動しろ」

高田がコンソールを操作すると、不気味な吸引音と共に培養液が排出され、カプセルが開いた。

中から現れたのは、彫りの深い無骨な顔立ちをした、岩のように強固な筋肉を纏う男だった。

「1号について解説します。彼は、かつての『モルフ』が得意とした細胞変形や、天童が最終形態で見せた生体ビームといった特殊機能は一切持たせていません。細胞の全リソースを、純粋な『筋力コントロール』と『自己再生』のみに特化させた、物理破壊の極致です」

高田は自らの最高傑作を見つめ、恍惚とした表情を浮かべた。

「局長……私は、とうとう葦原を超えた。満足ですよ、この成果には……!」

「そうか。満足か」

神崎の声は低く、空虚だった。

「高田。君は満足した。……そして、この研究所は、すでにその価値を失った」

ズドンッ!

密閉されたラボに、重厚な銃声が響き渡った。

神崎の右手には、硝煙を上げる真っ白なデザートイーグルが握られていた。

胸を撃ち抜かれ、信じられないという顔で床に伏せる高田。

「な……ぜ……」

神崎は死にゆく男を一瞥もせず、1号に視線を向けた。

「……1号。君の力が本物か、見てみたい。ここにいる全職員を殲滅しろ」

1号は無言のまま、ゆっくりと神崎に頷いた。

「……承知した」

その声は、地響きのように重く、一切の感情を欠落させていた。

1号の身体が、不気味に脈動する。

「……筋力解放。十パーセント」

その瞬間、1号の肉体がわずかに膨張し、圧倒的な威圧感が空間を支配した。

逃げ惑う職員たち。1号は走らない。ただ確実な一歩で距離を詰め、その巨大な拳を振るった。

グシャッ……。

防護壁を背に震える職員が、壁ごと一撃で粉砕される。十パーセントの解放でありながら、その威力は大型重機が衝突したに等しい。

「ひ、ひぃぃぃっ!」

隠れようとするガードマンの頭部を、1号は無造作に掴み上げ、ただ握り潰した。

警備兵の銃弾がその肉体に吸い込まれるが、1号は弾き飛ばすか、あるいは瞬時に傷口を塞ぎ、無敵の歩みを止めない。

悲鳴、断末魔、そして肉と骨が砕ける重低音だけが響き渡る。

わずか数分の間に、最新鋭のセキュリティを誇った研究所は、1号という「質量」だけで蹂躙され、血塗られた静寂に包まれた。

「……素晴らしいな」

神崎は返り血一滴浴びず、死体の山を見つめて呟いた。

「で。君の名前だが、何と呼んでほしい?」

「……名前など、いらない」

1号は元の無骨な男の姿に戻り、短く答えた。

「1号で十分だ。……過去を振り返るには、一年の命は短すぎるんでね」

「なるほど、理解した」

***

アルカディアの司令室。

司は、真っ白な背景に血の赤が散らばるその惨劇を、全てトレースしていた。

「……ふふっ。お帰り、神崎のおじさん。やっぱりあんたは、こうでなくっちゃ」

静かに笑う司の周囲には、あるじの理不尽な要求と終わりの見えない業務に付き合わされ、心身ともに限界を迎えた秘書たちが、床にぐったりと寝転んでいた。彼女たちの表情には、もはや生気はない。

だが、司は彼女たちを一顧だにしない。

仮面の奥の瞳を輝かせ、モニターに映る「1号」の動きを食い入るように見つめていた。

「これなら、少しはマシな『暇つぶし』になりそうだ」

研究所は不気味な静寂に包まれ、そこには、全てを失った男と、全てを消し去った怪物が、灰色の空を仰いで立っていた。

司の最大の退屈しのぎが、今、血の雨と共に幕を開けたのである。

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