第59話:ルビコンの此岸と、深淵からの覚醒
深い、深い暗闇の中。
神崎健人は、心地よい微睡みの中で意識を取り戻した。不思議とそこに自分の「肉体」があるという感覚はなかった。
不意に、暗闇の中に暖かな光景が浮かび上がってきた。
小さなダイニングテーブル。くたびれた顔をしながらも、穏やかに微笑んでいる自分。その向かいには、妻の佳奈が優しく笑い、幼い頃の息子・勇樹がはしゃいでいる。
それは、家族団欒を楽しむありふれた休日の風景。――だが、実際の神崎が、スパイという血塗られた裏社会を歩む中で『決して得ることの出来なかった』偽りの光景だった。
(……俺は、死んだのか?)
幻影を眺めながら、神崎は深層心理の中で自問自答を繰り返した。
(俺は、何をどう間違えて今ここにいるんだろう……)
英雄と呼ばれるようになったあの日。いや、すべては始まりのスクープを手に入れたあの時から、俺の人生の歯車は狂い始めていたのかもしれない。
答えなど出ることのない、永遠に終わらないワルツのような時間が流れていく。
しかし、その穏やかな偽りの世界に、突如として『ノイズ』が走った。
空間が歪み、土足で踏み込んでくる足音が響く。第一帝都高校の制服を着た男――司が現れたのだ。
司は、虫ケラを見下すような冷たい目で神崎を一瞥すると、楽しそうに笑いながら、神崎の大切な幻影たちを次々とズタズタに引き裂き、壊していった。
「やめろッ!!」
神崎は絶叫したが、呪縛されたように腕が動かない。すべてを壊され、血の海に沈む家族の残骸を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
絶望する神崎の横に、いつの間にか『クロノス』の漆黒の外套を纏った司が立っていた。
仮面の奥の瞳が、嘲るように弧を描く。
『――あんたには、一生俺の遊び相手でいてもらいますよ。英雄さん』
そうだ。司という悪魔に出会うことも、俺の狂った人生における必然だったのだ。
俺は何もかも失った。佳奈も、村上も。そして、守ろうとした世界すらも。なら、この悪魔を壊すことしか、俺にはもう残された目標がない。
(……こんな暗闇に留まることなど、許されない!)
神崎の魂が、激しく吠えた。
すでにルビコン川は渡りきっている。後戻りなどできない。
(クロノス……いや、司! 貴様が俺を極上の玩具にしたいなら、それで構わない。俺はお前を破壊することでしか、もう生きる価値がないのだ!!)
***
ゆっくりと、神崎は重い瞼を開いた。
視界に映ったのは、真っ白で清潔な病室の天井だった。生臭い血の匂いはない。強烈な消毒液の匂いが鼻を突く。
「……あ、気がつかれましたか!」
駆け寄ってきたのは看護師であった。すぐに白衣を着た医師が病室に入ってきて、モニターを素早く確認する。
「……血圧、心拍、数値正常です。峠は越えましたよ、神崎さん」
その声を聞き、神崎は再び静かに目を閉じて眠りについた。
(……まだ、あいつを破壊するチャンスはある)
次に神崎が目を覚ました時、病室の傍らには諜報局の書記官が立っていた。
神崎は、自分の左腕が肩から先、すっぽりと無くなっていることをすでに確認済みであった。激痛はない。神経をブロックされているのだろう。失った腕のことなど、これからの破壊工作の算段に比べれば『ただの確認作業』に過ぎなかった。
神崎は書記官から、自分が眠っていた間に起きたすべての現状の報告を受けた。
大鷹宰相の死。乃木体制の確立。そして、かつて大鷹派だった者たちが次々と粛清され、閑職へと追いやられているという事実。
神崎は、表情を変えることなくただ頷きながら、恐ろしく冷徹な頭脳で情報を処理していった。
(……しかし、何故俺の『諜報局局長』の肩書きは失われていない?)
疑問の答えは、すぐにはじき出された。
何故、あの時乃木は暗殺から逃れられたのか。あの場にミカラム(村上)が居たことで、答えなど疾うに出ている。
乃木とクロノスは手を結んだ。そして、瑞穂政府は実質的にクロノスの配下になったのだ。
大鷹派の筆頭とも言える自分が粛清されず、この地位のまま生かされている理由。それは、クロノス――司が、自分を最高の『玩具』として遊ぶためのお膳立てに他ならない。
(……クロノスくん。最高のチャンスをいただいて、光栄だよ)
神崎は、氷のように冷たい瞳で心の中だけで呟いた。
ふと見ると、一通りの報告を終えたはずの書記官が、ひどく言いにくそうな顔をして俯いたまま立っていた。
「……まだ、報告があるのか?」
神崎が静かに問い詰める。
書記官は、重々しく、震える口を開いた。
「……局長。阿国(アトラス連邦)攻略へ向かっていた第一艦隊より報告がありました。ご子息である……神崎勇樹副艦長が、名誉の戦死を遂げられた、と……」
その言葉が病室に落ちても、神崎の顔からは一切の感情が読み取れなかった。ただ、残された右手がシーツを微かに強く握りしめただけだった。
「……そうか」
神崎は短く応えると、淡々と質問をした。
「最後はどうだった?」
「……はっ。敵の決死隊の潜入に対し、瑞穂武尊を護るために自ら爆弾を抱え、特攻されたとのことです。……立派な、英雄としての最期であられました」
「……」
神崎は、ただ深く、一度だけ頷いた。涙は出なかった。いや、流す資格など自分にはないと分かっていた。
(クロノス。君のおかげで、俺は本当になにもかも失ったよ)
愛する妻も、盟友も、そしてたった一人の息子すらも。
神崎の心にあった「人間としての未練」は、これで完全に消え去った。残されたのは、絶対零度の殺意だけだ。
(今度は――俺のターンだ)
神崎健人は、失った左腕の痛みを噛み殺しながら、静かに、そして強い決心と共に、窓の向こうの空を見つめていた。
***
――同時刻。
国家情報省・諜報局の管理下にある、極秘の『強化人間研究所』の最深部。
緑色に濁った培養液で満たされた巨大なカプセルの中で、無数のチューブに繋がれ、ひたすらに肉体と細胞を「強化」され続けていた『ある男』が、ゆっくりとその凶悪な瞳を醒ましたのである。




