第52話:神の退屈と、誇り高き塵芥
「そろそろ飽きてきたなぁ」
クロノスのそのひどく平坦で、あくびでも混じりそうなほど退屈な呟きは、轟音の吹き荒れる第七埠頭において、なぜか天童の耳にだけ異常なほど鮮明に届いた。
「……なに?」
全身の黄金の装甲をボロボロに砕かれ、自らの寿命を燃やして立ち上がっていた天童の動きが、一瞬だけ止まる。クロノスは、まるでひどくつまらない映画の途中で席を立つ観客のような、冷め切った目で天童を見下ろしていた。そこには、これまでの死闘に対する敬意も、強敵に対する熱も、欠片ほども存在していなかった。
「もういいや。お前の『誇り』とやらの底も見えたし、限界も分かった。……ただのガラクタの詰め合わせだ。つまらないんだよ、俺を満足させられないおもちゃなんてさ」
クロノスが、ゆっくりと右手を持ち上げた。親指と中指をすり合わせ、パチン、と指を弾く構えを見せる。その何気ない、ただの子供の遊びのような仕草を見た瞬間――天童の全身の細胞が、かつてない『絶対的な死の気配』を感知してけたたましい警鐘を鳴らした。
(――避けろ!!)
本能が叫び、天童は残された全エネルギーを脚部のスラスターに叩き込んで後方へと跳躍しようとした。
パチン。
乾いた音が、夜の空気に響いた。
「……え?」
天童は、自分が跳躍できていないことに気がついた。視線を落とす。地面を蹴ろうとしたはずの自らの右脚が、太ももの半ばから『存在していなかった』。
切断されたのではない。血も流れていなければ、断面もない。ただ、空間ごと削り取られたかのように、そこにあったはずの質量が完全に『虚無』へと還元されていた。かつて東都で、モルフを消し去ったのと同じ力。物理法則を完全に無視した、原子レベルでの空間消去。
「ア、ァ、ガァァァァァァァッ!!?」
一拍遅れて、天童の脳髄を直接焼き切るような、想像を絶する激痛が襲いかかった。神経を原子の単位で強制的に引き剥がされる痛覚のバグ。天童の巨体が、バランスを崩してコンクリートの地面に倒れ伏す。
「あはは。痛い? そりゃ痛いよね。神経ごとこの世から消し飛ばしてるんだから」
クロノスは、地面で悶え苦しむ天童を見下ろしながら、残酷な笑みを浮かべた。
「でも、モルフの時のように一瞬で全部消してやるほど、俺はもう優しくないんだ。お前、俺の服を汚そうと随分頑張ってたからな。……少しずつ、じっくりと壊してやるよ」
パチン。
二度目の指鳴り。
「ガァァァァッ!!」
今度は、地面を這いつくばろうとした天童の左腕が、肘から先で砂のように崩れ落ち、虚空へと溶けて消えた。ジュゥゥゥッ……と、残された肉体から必死にモルフの再生能力が働こうとするが、原子レベルで存在の概念ごと消去された傷口は、いくら細胞を活性化させようとも『そこに何もない』ため、再生することすらできない。
「どうしたの? 立てよ、ヒーロー。さっきまでの威勢はどうしたんだ?」
クロノスは嘲笑しながら、ゆっくりと天童に近づいていく。
パチン。パチン。
指を弾くたびに、天童の身体が削り取られていく。左脚が消え、右肩の装甲が消え、残された右腕の指先が一本、また一本と空間から消滅していく。
それは、もはや戦闘などという生易しいものではなかった。神が、虫の羽を一枚ずつむしり取って遊ぶような、圧倒的で、悪辣で、おぞましい処刑だった。
(……化け、物……め……!)
全身を削り取られ、這うことすらできなくなったダルマ状態の天童。常人であれば、とうの昔に発狂し、涙と鼻水を流して命乞いをしているはずの凄惨な拷問。だが、天童の複眼の光は、決して死んでいなかった。
「……ハ、ハハ……」
天童の口から、血の泡と共に低く濁った笑い声が漏れた。
「……どう、した……。……そんな、ちまちました攻撃しか……できないのか……?」
「あ?」
クロノスの足が止まった。
天童は、両手も両足も失い、胴体と頭部だけになった無惨な姿のまま、残された首の筋肉だけで頭をもたげ、クロノスを真っ直ぐに睨みつけていた。
「……こいよ、悪魔。……俺たちの、誇りは……こんなものでは、砕け……ない……」
天童は、顎の装甲を開き、最後の力を振り絞って口内に高熱重粒子砲のエネルギーを収束させようとした。出力は弱く、放ったところでクロノスには届かない。それでも彼は、絶対に抵抗をやめようとしなかった。降伏の言葉も、命乞いの叫びも、彼の中には最初から存在していない。
その光景を前にして。クロノスの完璧な作り笑いが、ピシッ、と音を立てて崩れた。
「…………なんで?」
クロノスの口から漏れたのは、純粋な疑問だった。そしてそれは、瞬く間にドス黒い『苛立ち』へと変わっていった。
「なんで、お前は絶望しない? なんで命乞いをしない? なんで泣き叫んで、俺の足元に這いつくばらないんだ!?」
クロノスの声が、初めて大きく荒ぶった。物理的に勝敗は完全に決している。これ以上足掻くことは、数学的にも論理的にも100%の無駄だ。なのに、目の前のゴミは、俺を恐れるどころか、哀れむような目ですら俺を見ている。思い通りにならない。計算式が狂っている。
「意味が分かんないんだけど! そんなことして、何が面白いんだよ! お前はもう死ぬんだ! 誇り? 仲間? そんな実体のないゴミクズのために、なんでそこまで虚勢を張れるんだよ!!」
クロノスは激昂し、感情を露わにして叫んだ。絶対的な神として君臨していた彼が、初めて見せた『理解不能なものに対する恐怖と怒り』。
それを見た天童は、機能を停止しかけている複眼を細め、心底おかしそうに笑った。
「……フ、フフ……。……そうか」
天童の血まみれの口元が、わずかに弧を描く。
「……はじめて、人間らしさが出たな……」
「……ッ!!」
「……どんなに、神のフリをしても……。……お前も、ただの癇癪持ちの……ガキだ。……俺は、その顔が見られただけで……十分、満足、だ……!」
力では勝てなかった。世界を救うこともできなかった。だが、あの絶対的な虚無を纏った悪魔の心に、泥を塗りたくり、感情を引きずり出してやった。人間の『誇り』の強さが、一瞬だけでも神の計算を狂わせたのだ。
「――――ッ!!」
クロノスは、かつて感じたことのない屈辱と焦燥感に顔を歪ませた。天童のその悟りきったような満足げな顔が、耐えられないほどに腹立たしかった。
「お前は、本当に……心の底から、俺を苛つかせたよ……ッ!!」
クロノスは怒りに任せて、右手を乱暴に振り抜いた。最後の一撃は、指鳴りすら必要としなかった。
空間そのものが断層のようにズレ、凄まじい衝撃波と共に、最後までクロノスを睨みつけていた天童の頭部が、首の根元から完全に『消去』された。砕け散る音すらない。完全なる沈黙と消滅。
後に残されたのは、第七埠頭の抉れた地面と、天童であったものの僅かな灰だけだった。
「……ハァ、ハァ……ッ」
クロノスは荒い息を吐きながら、誰もいなくなった虚空を憎々しげに睨みつけた後、そのまま振り返ることなく、苛立ちの足取りで夜の闇へと消えていった。
***
同時刻。瑞穂国の極秘研究室。
モニター越しに戦闘の一部始終を見届けていた神崎の顔には、深い絶望の影が落ちていた。天童の黄金体をもってしても、クロノスにダメージを与えるどころか、彼が本気を出せば文字通り「指先一つ」で原子レベルから消し飛ばされてしまうという絶対的な事実。
神崎は、傍らでガタガタと震えている石原を、冷たく見下ろした。
「……天童の命を弄び、無駄死にさせた挙句がこのザマか。……これでお前も、終わりだな、石原」
神崎の冷酷な宣告に、石原は青ざめた顔で床に這いつくばり、悲鳴のように懇願した。
「お、お待ちください、神崎様!! 違います、天童の戦いは決して無駄ではありませんでした!」
「……何?」
「天童が身を挺して引き出した、あの悪魔の『空間消去能力』の行使データ、そして奴の感情のバイタルデータ……。それらすべての戦闘データは、すでに【1号】へとリアルタイムで送信されております!」
石原は狂気じみた笑みを浮かべ、神崎の靴にすがりついた。
「1号が、必ずあの男を倒します! 我々の研究の真の最高傑作である『1号』が目覚めるまで……どうか、どうかもうしばらくのお時間を!!」
神崎は、足元で這い蹲る石原を見下ろしたまま、沈黙した。
モニターに映る無惨な第七埠頭の跡地。圧倒的な魔王を前にして、人類の足掻きは、まだ終わっていなかった。




