【星降る夜の渡り兎】
それは、雲ひとつない満月の夜だった。
ウォーターシップダウンの広場にある酒場、はいつものように賑わっていた。
仕事終わりの老整備士のエリック爺さんがオイル混じりのビールを煽り、獣人整備士のリンやパラポーンの鉄腕兄弟がカードゲームに興じている。
「……ん?」
ふと、リンが獣の耳をピクリと動かした。
「どうしたリン?負けそうだからって誤魔化すなよ?」
「ちがうよお爺ちゃん。なんか、来る」
その直後だった。
ズズズズズ……と、地面が微かに、しかし確かに震え始めた。
「地震か!?」
「いいや、違う。これは足音だ!」
酒場の客たちが表へ飛び出す。
そして、彼らは息を呑んだ。
森の奥から白銀の波が押し寄せてきたのだ。
それは水ではない。
一匹一匹が月光を浴びて青白く発光する苔を毛皮に宿した、数万匹の野うさぎの群れだった。
「すげぇ……」
「まるで、星が降ってきたみたいだ……」
うさぎたちは人を襲うこともなく、静寂を保ったまま集落のメインストリートを埋め尽くした。
それは、幻想的で圧倒的な生命の奔流だった。
「なんだなんだ、夜襲かい!?」
騒ぎを聞きつけたフリーテルがパジャマの上に白衣を羽織ってラボから飛び出してきた。
続いてクラリス、ミヒャエル、ジェーン、そしてノエルも現れる。
「素晴らしい!これは希少なバイオ種、『月光兎』の群れだよ!」
フリーテルは目を輝かせた。
「彼らは数年に一度、月の引力に導かれて大移動を行う『渡り兎』だ。だが妙だな、通常ならここはただの通過点のはずだ」
その言葉通り、うさぎの群れはラボの前の広場でピタリと足を止め、動こうとしなかった。
数万の赤い瞳が静かに一点を見つめている。
ザッ……。
群れがモーゼの海のように割れた。
その中心から、一匹のうさぎがゆっくりと歩み出てきた。
それは他の個体よりも一回り大きく、全身に無数の傷跡があり、左目が機械化された長老兎だった。
彼はボロボロの体を引きずるようにしてノエルの前まで歩み寄ると、糸が切れたように崩れ落ちた。
「ああっ!」
ノエルが慌てて駆け寄りその体を抱きかかえる。
(……助けて、とは言っていない)
ノエルは長老兎から伝わってくる感情を読み取った。
(ただ……休みたいって、言ってる)
フリーテルが聴診器を当て携帯端末でスキャンを行う。
周囲を心配そうな住人たちが取り囲む。
「……ふむ。老衰だね」
フリーテルは淡々と告げた。
「全身の臓器機能が低下している、バイタルは風前の灯火だ。この移動が彼にとって最期の旅だったんだろう」
「そんな、治せないの?」
ノエルが涙目でフリーテルを見上げる。
フリーテルは少し考え込み、そして無邪気な笑みを浮かべた。
「ああ、もちろん治せるさ」
彼女は白衣のポケットから、一本の注射器を取り出した。
中には毒々しいほどに鮮やかなピンク色の液体が入っている。
「寿命というシステムのエラーなら、書き換えればいい。僕の細胞を移植するんだ」
「えっ……?」
「僕やクラリス君の体は特殊でね。細胞分裂の回数制限が存在しない。無限に増殖し、再生し、決して死なない、いわば『癌細胞』の究極系だ」
フリーテルは注射器の空気を抜いた。
「こいつを希釈して投与すれば彼の老いた細胞は活性化し、死なない体へと作り変えられる。簡単なことさ、永遠をプレゼントしてあげよう」
それは、化け物である彼女なりの純粋な善意だった。
彼女にとって死とは克服すべきバグであり、敗北なのだから。
「さあ、腕を出し……」
ガシッ。
フリーテルの腕が強い力で掴まれた。
振り返ると、クラリスが悲しげな瞳で彼女を見つめていた。
「……いけません、姉さん」
「クラリス君、なぜ止めるんだ。救える命を見捨てるのかい?」
「それは『救済』ではありません、『呪い』です」
クラリスの声は静かだが、痛いほどの重みが込められていた。
「終わりのない生がどれほど孤独で虚しいものか、それを一番よく知っているのは私たち自身ではありませんか?」
「……ッ」
フリーテルの動きが止まった。
彼女の脳裏に、自称数百年にも及ぶ長すぎて色の褪せた記憶たちが過る。
大切な人々を見送り続け、自分たちだけが取り残されてきた永遠の孤独。
「彼は十分に生きました。今はただ、安らかに眠らせてあげるべきです」
クラリスの手が震えるフリーテルの手から注射器を優しく抜き取った。
フリーテルは黙って引き下がった。
広場には静寂だけが満ちていた。
ノエルの腕の中で、長老兎の呼吸がゆっくりと浅くなっていく。
その瞳から赤い光が徐々に消えていく。
「お疲れ様」
ノエルは優しく、傷だらけの耳を撫でた。
「みんなを守ってここまで連れてきたんだね、ゆっくりおやすみなさい」
その言葉が届いたのか。
長老兎は最期に一度だけ小さく、しかし満足げに鼻を鳴らした。
次の瞬間。
長老兎の身体が、ふわりと崩れた。
肉体は光り輝く粒子となって解け、月夜の空へと昇っていった。
「……綺麗だ」
ミヒャエルが帽子を取り、ジェーンが胸の前で十字を切る。
それは死というよりも、命がより大きなエネルギーへと還っていくような、厳かな光景だった。
粒子が空へ消えゆく中、群れが再び動き出した。
数万匹のうさぎたちが一斉に地面を叩く。
タン!タン!タン!
そのリズムに合わせるように群れの中から一匹の若いうさぎが歩み出てきた。
その額に長老兎が遺した光の粒子の一部が宿り、新たなリーダーの紋章となって輝いていた。
「継承されたか」
フリーテルが静かに呟いた。
若いうさぎは、一度だけラボの方を振り返り力強く鳴いた。
まるで先代を看取ってくれた礼を言うかのように。
そして、彼は踵を返し南の空へと走り出した。
群れがその後を追う。白銀の波が再び流れ始めた。
夜明け前。
最後のうさぎが森へと姿を消し、ウォーターシップダウンには元の静けさが戻っていた。
「行ってしまったね」
ノエルが少し寂しそうに呟く。
しかし、その表情は晴れやかだった。命の終わりと始まりをその目で見届けたからだ。
「……しかし、妙だな?」
酒場の軒先で煙草をふかしていたエリック爺さんが空を見上げて眉をひそめた。
「彼らは南へ向かった。じゃあ、彼らが逃げてきた『北の空』はどうなってる?」
「え?」
全員が北の空を見る。
夜明けにはまだ早いはずだが、地平線の向こうが赤く染まっていた。
「あれは、朝焼けではありません」
クラリスが目を細め、風の臭いを嗅ぐ。
「焦げ臭い。それに、微かですが爆発音が聞こえます」
「なんだと?」
フリーテルが表情を引き締めた。
「つまり、彼らはただの移動をしていたわけではない。『何か』から逃げてきたということか」
ゴゴゴゴゴ……ッ
遠く北の森から、黒煙が上がり始めた。
それは、穏やかな日常の終わりと新たな災厄の到来を告げる狼煙だった。
「森が、燃えています」
クラリスの言葉に、住人たちの顔色が凍りつく。
うさぎたちの楽園を追いやった炎が、今度はこのウォーターシップダウンへと迫っていた。




