【小さな逃亡者】
ウォーターシップダウンから数キロ離れた深い森の中。
しとしとと降り続く冷たい雨が、木々の葉を濡らしていた。
その雨音に混じり、パチパチという焚き火の音が聞こえる。
岩陰で雨宿りをしているのは一人の男と、漆黒のウサギ型ヘキサギアだった。
「ふぅ、雨の日は骨が疼く」
ミヒャエルは紫煙をゆっくりと吐き出した。
身長180cm強の筋骨隆々たる巨躯。
無精髭を生やしたその顔つきは、30代中盤の働き盛りといった風情だが、その瞳には実年齢以上の深い年輪と、修羅場を潜り抜けた鋭さが宿っている。
彼は今日、非番を利用して愛機ウーンドウォートの動作テストを兼ねたソロキャンプに来ていた。
パラポーンである彼には休息など必要ないのかもしれないが、人間としての余白を楽しむのがこの里の流儀だった。
ガサッ……。
不意に、茂みが揺れた。
「ん、ウサギか?」
ミヒャエルは視線だけを動かした。
この森のウサギたちは人慣れしているが、こんな雨の中を出歩く物好きは少ない。
ガサガサッ!
現れたのはウサギではなかった。
泥だらけのボロ布を纏った小さな人影だった。
「子供?」
ミヒャエルが眉をひそめる。
年齢は10歳前後だろうか。
痩せこけた体、雨に濡れた髪が頬に張り付いている。
そして何より異様なのは、その瞳に一切の光がないことだった。
「おい、坊主。どこから入った?」
ミヒャエルが声をかけると、子供はビクリと肩を震わせ後ずさりした。
その拍子にボロ布の隙間から首元が露わになる。
そこには、バーコードと共に無機質な文字列が刻印されていた。
『パラポーンNo.404』
「MSGの刻印か。お前、研究所から逃げてきたのか?」
ミヒャエルは瞬時に理解した。
自分と同じように作られた命。
だが、この子は戦闘用ではない。もっと繊細で純粋な何かだ。
子供は寒さと恐怖でガタガタと震えている。
ミヒャエルは短く舌打ちをすると、着ていた防水ジャケットを脱ぎ、無造作に子供の頭に被せた。
「風邪引くぞ、こっちに来て火に当たれ」
焚き火の前。
ミヒャエルはカップに注いだスープを子供に差し出した。
ジェーンが持たせてくれた特製のポタージュだ。
「食え、熱いから気をつけろよ」
子供は恐る恐るカップを受け取った。
匂いを嗅ぎ小さく口をつける。
その瞬間、光のなかった瞳が大きく見開かれた。
「!」
「美味いか?」
子供はコクコクと何度も頷き、夢中でスープを飲み干した。
味覚など不要とされた実験体にとって、それは初めて知る生の味だったのかもしれない。
「そうか、ならいい」
ミヒャエルは目を細め、新しいタバコを取り出した。
柄にもないことをしているという自覚はある。
だが、捨て置くこともできなかった。
その時。
背後の闇に溶け込んでいたウーンドウォートが、赤くカメラアイを明滅させた。
『警告、周辺に複数の熱源反応。識別信号、MSGVF特殊部隊。包囲されています』
厳格なKARMAの声にミヒャエルの目つきが変わる。
30代の男の色気は消え、歴戦の兵士の顔になる。
「嗅ぎつけるのが早えな」
森の木々の間から、ゆらりと影が現れた。
光学迷彩を解除した数人のガバナーたちだ。
その装備は、かつてミヒャエルが所属していた部隊のものだった。
『久しぶりだな、裏切り者のミヒャエル』
隊長らしき男の声が拡声器越しに響く。
『そのガキは我々の所有物だ。重大な欠陥が見つかった廃棄処分品でな、大人しく引き渡せ』
廃棄処分。
その言葉を聞いた子供がスープカップを取り落とし、ミヒャエルの背中にしがみついた。
ガタガタと震える小さな手の感覚が伝わる。
ミヒャエルは吸いかけのタバコを指で弾き飛ばした。
火の粉が雨の中に散る。
「廃棄処分だと?」
ミヒャエルはゆっくりと立ち上がった。
その背中は子供にとっては巨大な壁のように頼もしく、敵にとっては絶望的なほど巨大に見えた。
『そうだ、感情というバグを抱えた不良品だ。貴様と同じようにな』
「あいにくだが。こいつは今、俺のツレでな」
ミヒャエルはジャケットの下から愛用のショットガンを引き抜き、ジャキッ!とポンプアクションさせた。
重い金属音が森に響く。
「飯の最中を邪魔するような無粋な奴は、客とは呼ばねえんだよ」
『我々に逆らうつもりか?旧式のミラー如きが!』
「旧式上等。消えな、ここは俺の庭だ」
ミヒャエルは子供を抱え上げ、ウーンドウォートのコクピットハッチを開けた。
「乗れ、坊主。少し揺れるがジェットコースターだと思って楽しめ」
『総員、攻撃開始!裏切り者ごとスクラップにしろ!』
敵の銃口が一斉に火を噴く。
だが、それよりも速く漆黒のウサギが跳躍した。
「ウーンドウォート!教育指導の時間だ!!」
『了解、ミヒャエル。排除モード起動、徹底的にやりますか?』
「ああ、俺の休日を台無しにした詫び料を高くふんだくってやる!」
雨の森で男の戦いが幕を開けた。
ズガガガガッ!!
森の静寂を切り裂く銃声。
四方八方から放たれる銃弾が、ウーンドウォートの周囲で泥と木片を跳ね上げる。
『警告、被弾率上昇。シールド残量70%。敵戦力比、1対5。真正面からの突破は推奨しません』
ウーンドウォートの冷静な報告。
コクピットの中で、ミヒャエルは子供の頭を抱え込むようにして操縦桿を握っていた。
子供は恐怖で震え、耳を塞いでいる。
「計算はいい。おい、坊主。少しうるさくなるぞ、舌噛むなよ?」
ミヒャエルはニヤリと笑い、スロットルを全開にした。
「行くぞ、ウーンドウォート!若い連中に泥遊びの作法を教えてやる!」
ギュイィィン!!
ウーンドウォートがその場で急旋回し、なんと後ろ向きに敵の包囲網へ突っ込んだ。
『なっ、バックだと!?』
敵兵が動揺する。
ミヒャエルはフットペダルを巧みに操り、泥濘んだ地面を利用して機体をスライドさせた。
「戦場じゃ教科書通りの動きなんて、死にに行くようなもんだぜ!」
ドォン!!
すれ違いざま、ウーンドウォートの太い脚部が敵機の関節を蹴り砕く。
最新鋭の機体制御AIの予測にはない、泥臭い格闘戦だ。
「まずは一機!」
『クソッ、なんだその動きは!?こちらの照準が定まらない!』
敵隊長の焦り声。
彼らのゴーグルには、最適化された予測軌道が表示されているはずだ。
だが、ミヒャエルの動きはそれをことごとく裏切る。
木の幹を蹴って跳躍し、視界の悪い雨を利用して姿を消し、死角から現れる。
「お前らのAIは優秀だがな、綺麗すぎて退屈なんだよ!」
ミヒャエルがトリガーを引く。
ショットガンが至近距離で炸裂し、二機目の敵を吹き飛ばした。
『ちぃっ、生意気な旧式が!総員、一斉射撃!奴をハチの巣にしろ!』
残る三機が逃げ場のない十字砲火を浴びせようとする。
『ミヒャエル、回避不可能です』
「いや、ここだ」
ミヒャエルはコンソールのスイッチを叩いた。
「展開しろ、スペード・ロワー!!」
ウーンドウォートの尾部から、三機の自律兵装が分離した。
それらは蝶のように宙を舞い、敵の射線の軸上に割り込んだ。
ガギィンッ!!
敵の銃弾をスペード・ロワーが盾となって弾き返す。
『なっ、自律兵器だと!?旧式にこれほどの演算能力が!?』
「へっ、俺の相棒は頭が固いが仕事は完璧なんだよ!これで終わりだッ!!」
ミヒャエルは隙だらけになった敵隊長機へ肉薄する。
ゼロ距離。
ショットガンの銃口を、敵のコックピットハッチに押し当てる。
「型落ちナメんじゃねえぞ、若造」
ドォォォォォンッ!!!
轟音と共に、隊長機が火花を散らして沈黙した。
リーダーを失った残りの二機は戦意を喪失し、這うようにして撤退していく。
「二度と俺の庭に入ってくるな」
ミヒャエルは彼らの背中に紫煙を吐きかけ、ショットガンを下ろした。
戦闘終了。
いつの間にか雨は止み、雲の切れ間から朝日が差し込んでいた。
「終わったぞ、坊主」
ハッチが開く。
ミヒャエルが降りると、子供もおっかなびっくり顔を出した。
敵の残骸と硝煙の匂い。
しかし、自分を守ってくれた大きな背中を見つめるその瞳には、以前のような虚無ではなく確かな信頼の色が宿っていた。
子供はウーンドウォートから飛び降り、ミヒャエルの足にしがみついた。
服の裾をギュッと握りしめて離さない。
「チッ、しゃあねえな」
ミヒャエルは苦笑いして、その大きな手で子供の頭を乱暴に、しかし優しく撫でた。
「No.404じゃ呼びにくい、『ノエル』だ。今日からそう名乗れ」
「ノエル?」
子供が初めて言葉を発した。
その響きを口の中で確かめるように繰り返し、やがて花が咲くように微かに笑った。
「ノエル!」
「ああ、悪くない名前だろ」
ミヒャエルはノエルを抱え上げ肩車をした。
30代の無骨な男と小さな子供。
奇妙だが、温かい家族の姿がそこにあった。
「さあ、帰るぞ。ジェーンに怒られる前にな」
「ジェーン?」
「ああ、世界一怖い金髪の魔女さ。でもまあ、美味いスープは作ってくれるがな」
朝日を背に、漆黒のウサギと二人の影が伸びる。
ウォーターシップダウンにまた一人、新しい家族が増えようとしていた。




