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上野千年桜1

 上野駅から逃げ出した俺達は、上野公園の不忍池沿いを歩いていた。


 上野公園は、ソメイヨシノの開花時期だけあって、普段より混雑している。人妖混ざり合って酒を飲んだり、喧嘩をしたりしているる姿があちこちに見られた。


 遠くから消防車のサイレンの音が聞こえる。轍の放った玉赤花が貫いたビルが燃えがっている。きっと酒飲み共のいい酒の肴になってることだろう。


「あなたいったいどんだけ悪い事してるんですか?」


「してねえよ」


「そんなわけないじゃないですか! 上野駅吹っ飛んでましたよ! いますぐ自首してください!」


 ボロボロの服の雪子が俺の隣でギャーギャー騒いでいる。うるせえ。


 不忍池は一周にニ十分ほどかかる大きな池だ。


 ここからは上野公園に佇立する巨大な上野桜花を眺められる。


 ソメイヨシノに囲われたそれは、はるか上空で大きく枝を広げ、桃色の花びらを散らしている。樹高は東京タワーをわずかに抜いて、三三四メートル。その広がる枝は直径一キロにもなる。


 上野公園の野外ステージ付近まで来たところで、俺は立ち止まった。


「なあ、よく考えてみろよ。俺がどんだけ悪いことをしてたとしてもだな。いきなり駅のホームぶち壊すやつのほうが悪いんじゃねえのか」


「犯罪の内容にもよりますね。婦女暴行とかだと、とんとんです」


 んなわけねえだろ、と口に出しそうになって、アホらしいので、やめた。


 もうこいつに用はない。というか、元々用はない。親切してやろうとしただけだ。


 俺は後ろ手を振って、別れを告げた。


「それじゃあな」


「え? ちょっと待ってくださいよ」


「なんだよ?」


「あなた傷だらけじゃないですか。治してあげますよ。少なくとも私のやった分は」


「あ? あんなヘボみてえな傷、もう治ったよ。じゃあな」


 俺は再び手を振って、女に別れを告げた。

 傷は痛むがやられた奴に治されるのもしゃくだった。


 公園で服と傷口を洗って、待ち合わせに向かうとするか。


「えいや」


「うおおおぉっっっ!」


 後ろから腕を引っ張られた。

 それも、かなり、体重をかけて、だ!


 傷口が開いて、痛みが脳天に刺さるようだった。


「てめえ、ぶち殺すぞ!」


「おらっ!」


「ぐっ、うぅぅぅぅ」


 傷口を腹パンされて、俺は蹲った。


「ほら、全然治ってないじゃないですか」


「くそったれが!」


 俺はコルトを引き抜き、雪子の顔面にぶち込もうとした。


「遅いですよ」


 彼女が生み出した氷の柱に俺の腕は弾かれ、続いて白いワンピースがなびき、回し蹴りで繰り出された踵が、俺の顔面に迫った。


 だが、その衝撃はやって来なかった。


 足は目の前で止まった。寸止めされたようだった。ワンピースが空気を孕んで膨らみ、それからゆっくりと萎れていった。


「なに止めてんだ」


 目を細めた俺に、彼女は少し言葉を詰まらせてから、言った。


「……別に、理由はないですけど」


「パンツ見えてんぞ」


「うげえ!」


 寸止めされた踵が突き出され、俺の額を蹴り飛ばした。

 それから彼女は何かに気づき、「あ!」と声を上げた。


「ヒールが、ヒールが無くなってる!」


「駅で無くしたんだろ」


「それに、キャリーバッグもない」


「それも駅だろ」


「それも駅だろ、じゃないですよ!」


 立ち上がった俺に、彼女は詰め寄ってきた。その黒い瞳が怒りに燃えている。


「キャリーバッグはあなたが蹴り飛ばしたんじゃないですか! 鶯谷で!」


「そうだったか?」


 そういえばそうだったな。


「そうですよ! あれには、私の大切なものが詰まっているんです」


「だったら、手を離さないでいることだな」


「なに説教じみたこと言ってるんですか? あなたのせいですよね!? いきなり私につっかかってきたあなたのせいですよ!」


 彼女は怒り心頭の様子だった。人の親切にも気づかない田舎者のくせにだ。


 こうまで言われて、人助けをモットーにする優しい俺でも腹立たしくなってきた。


「ああ、ああ。確かに俺のせいだ。俺のせいですよってんだ」


 怒る女を睨みつけ、丁寧に説明してやることにした。


「だがなあ、五等車両なんて人間が乗るもんじゃねえんだよ。知ってるか? あの場所はどこの警察署(サツ)の管轄でもねえ、人死にがでても鉄道会社の河童共が責任を取ることもしねえ、狂った電車だ。死体がぶら下がってても、ぶっこわれてフレームだけになってても五等車両が走る限り誰も気にしねえ、そういう場所なんだよ」


 だから毎日死傷者がでている。くそったれ車両だ。


 俺の説明に、雪子は冷ややかな瞳で、首を傾げた。


「だから?」


「はあ? バカか? だから俺はあの時、お前に乗るなって、教えてやっただろ」


「乗るなって、教えてやった?」


 彼女はその黒い瞳を丸くして、俺の言葉を復唱した。


「あ? わかんなかったのか?」


「わかるわけないでしょう! いかれた不良に絡まれたとした思いませんでしたよ!」


「うっせえな。じゃあなんだ、俺が悪いっていうのか」


「え? あなたが悪いに決まってるじゃないですか。自覚ないんですか?」


 俺の言葉に信じられないといった様子で、少女は眉を寄せた。


 なんだこいつ? ガチで俺が悪いって思ってんの?


 だが、ここまで主張されると、俺にも若干の落ち度があるような気がしてきた。考えてみればキャリーバッグを蹴飛ばすより先に、こいつをぶち抜いて電車から下ろしてやればこんなことに巻き込まなくても済んだのだ。


「わかったわかった。てめえのキャリーバッグを見つけりゃあいいんだな」


 不承不承ながら俺は両手を挙げて降参してやることにしたが、こいつはそれを断った。


「そんなことしなくても、謝ってくれればそれで許します。きっと鶯谷駅に落とし物として届いているはずですから」


「は? 寝ぼけてんのか?」


「あなた、態度悪すぎません?」


 雪子は目を細くした。


「そりゃあ、てめえの頭がお花畑だから、こっちも馬鹿にしたくなるわ。あんなもん盗まれてるに決まってんだろ。今頃バイヤーが買い取って闇市に持ってくとこだ」


「え!? 東京はどんだけ治安悪いんですか!」


「当り前だろ。落ちてんなら拾ってバイヤーに売るだろ」


 届け出ても横流しされるだけだからな。


「じゃあ、どうすればいいんですか……。本当に、本当に大切なもの、だったんです」


 雪子はしゅんとした。本気で落ち込んでいた。

 なんだかよくわからんが、そこまで悲観することでもないだろうに。


「バイヤーに売られたってことは、今度はそいつが売ってんだ。だったら、買いに行きゃいいだろ」


「そんなの、どこで売ってるか分かるものなんですか……?」


 彼女は縋るように俺を見上げた。こいつは、そんなことも知らねえで東京に来たのか。


「んなもん決まってんだろ。闇市、アメ地下だよ」


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