早池峰雪子1
それは僕が八歳の夏だった。
僕はある事がきっかけで、盛岡市を離れ、小さい頃暮らした大迫町に帰ってきていた。
盛岡市から車で一時間、早池峰山の麓にある大迫町は、コンビニが一店舗しかない、山間の小さな町だ。
かつて宿場町だった街の中心の街道沿いには赤と紺のトタン屋根の古い家々が並び、街道から外れた住宅地には黒瓦の新しい家々が集まっている。
町はずれのローソンの自動ドアから外に出ると、店内の冷房に冷やされた肌が、真夏の日差しとアスファルトの熱気にあぶられた。
セミの声が全てを掻き消してくれるほど、やかましかった。
僕は買ったばかりのガリガリ君を早速開けた。
ガリガリ君は宙に生成した氷で掴んでいた。
そのガリガリ君の袋の端を、右手で撫でた。
微かな青い輝きを残して、ガリガリ君の袋のギザギザは消え去った。
上部が開いたガリガリ君をひっくり返して、別の氷で受け取って、氷を操り口元まで運んでガリガリ君をかじった。
外側の固く甘い氷と、刺さりそうなほど繊細な内側の氷が、口の中で溶けて、二つのソーダ味が混じり合う。
「……」
僕はシャリシャリとそれを味わい、熱気の中、ぼんやりと立ち尽くしていた。
蝉の声がうるさい。
三十分かけて僕は毎日ここにやってくる。
することがないから。
ソーダ味のガリガリ君は、どこか虚しかった。
僕はもう一口、ガリガリ君をかじった。
「すご」
「は?」
いつの間にか目の前には男の子がいた。
見たことない子だった。
大迫町は山間の小さな町だ。どこそこ某さんでもある程度通じる。
おそらく他所の子だ。
帰省した家族の子か、旅行客か。
まあ、前者はないか。
その場合、僕に近づかないようにしつけられるだろうから。
「すっげえ魔法が上手いね!」
男の子はそう言い放った。
黒い髪に、くりくりした黒い瞳。バカそうな明るい顔をしている。
男の子は滝のような汗をかいていた。
おそらく町のほうから走ってきたのだろう。こんな暑いのによくここまでくるな。
それは僕も同じか。
男の子は指を鳴らして、銃の形で僕を指さした。
「わかった、雪男でしょ」
「はぁ? バカ?」
はっきりした。こいつはよそ者だ。
「雪女は女しか生まない」
そんなのこの地方の住民にとって常識だ。
雪女は雪女しか生まないし、人に化けた雪女も人間の女しか生まない。
「そうなんだ。え? じゃあ天才?」
バカな子だと思った。
でも、天才という称号はよかった。
天才。天才ってのはいい。響きが良い。孤独な僕に似合っている。
僕は自慢げでないよう、さりげなく、それを肯定した。
「天才」
「へえ! 僕もそうなんだ!」
「はあ?」
なんだこいつ。
「じゃあ、何ができるの?」
僕は彼に尋ねた。
「頭が良いし、運動もできる。あと、魔法が使える、ようになる予定」
「予定じゃだめじゃん」
「天才だから大丈夫。ばあちゃんの孫だから」
僕はため息をついた。
話にならない。
バカと話していても時間の無駄だし、いらいらする。
何も考えてないで気楽そうに生きてる。僕の気持ちなんてわからない。
「あっそう、じゃあね」
「待って――」
立ち去ろうとした僕の手を、少年が掴もうとした。
全身に鳥肌が立った。
僕の腕が何の感触もなく、煙のように貫いたあの嫌な子の身体を思い出した。
周りの子たちの悲鳴を、地面に流れた赤い血を、思い出した。
思わず抱いた自分の両腕が落ちたあの空き教室の床を思い出した。
赤い血が広がっていく、あの空間の全てが、フラッシュバックした。
「僕に触るな!」
反射的に生成した氷で彼を突き飛ばした。
尻餅をついて、少年は目をぱちくりさせた。
僕はバツが悪くなった。
「き、君が突然僕に触れようとするから……、僕は悪くない」
でなければ、彼の手は消え去っていただろうから。
「あっ」
次の瞬間、少年はコンビニの駐車場にヘッドスライディングした。
「セーフ」
少年はガリガリくんをキャッチした。
どうやら、氷のコントロールが狂って、落っことしてしまったらしい。
「あちあち」
少年はアスファルトを熱がりながら立ち上がり、ガリガリ君を僕に差し出した。
「ほら、これ」
僕が突き飛ばしたことも、ガリガリ君が落ちる前に拾ったことも、彼はなんてことないように、僕に差し出した。
僕は彼から目を逸らした。
「……いらない」
「いらなくないでしょ」
「あげる!」
踵を返して走り出した。
「あ、逃げた!」
ワンテンポおいて、少年が僕の後を追い掛け始めたのがわかった。
突然、風が吹いたのかと思った。
「はいだめー」
目の前には彼がいた。
目を疑うような速さだった。
先に駆けだしたのに、駐車場を出る前に回り込まれてしまった。
「ほら、これ」
少年は僕にガリガリ君を差し出した。真夏の熱気のせいで、表面がつやつやしてきていた。
「いらない」
「あっ、溶ける溶ける。氷使えるなら、冷やしてくれない」
好機が訪れた。
「いいよ」
僕はほくそ笑み、ガリガリ君に手を差し向けて、一瞬にしてそれを凍らせた。
ついでに、少年の腰から下を氷漬けにした。
彼はブカブカの袴を履いたように、地面と氷で繋がった。
「うわっ、なにこれ。動けないじゃん」
「氷が解けるまで、ガリガリ君でも食べてれば?」
僕は鼻で笑い、彼とすれ違うように駐車場を出て行こうとしたその時だった。
「はっはっは」
少年が笑った。
「何が可笑しい?」
「君と同じで、僕は天才なんだ。ふんっ」
少年が力を込めると、氷にひびが入った。
「うそ」
僕は慌てて、すぐ溶けるよう加減して生成していた氷を固く強化した。
だが、それは無駄だった。
「ふん――――――!」
バキバキッ、バリン!
股の下から地面に向かって、氷に亀裂が入って砕け、少年は一歩踏み出した。
僕は後ずさった。
「ついてこないで!」
少年が走り出した。
僕は逃げ出した。
彼は追っかけてきた。
「ぬはははははははははははははは!!!」
「ひ、ひぃ」
何この子! こわい!
「なんで、追ってくるの!」
「ぬは、ぬは、ぬははははははは!!」
頭おかしいやつ!
今度はすぐには追いつかれなかった。
さすがに腰回りから脚に氷があっては、自称天才も速くは走れなかったようだ。
街からコンビニへ行く際は、人を避けるため街道を通らず、遠回りになる道を使うが、この時ばかりは街道に逃げ込んだ。
僕は走りながら、氷の壁や、障害物を生成したが、少年は追いかけてきた。
「なんでついてくるの!」
「ぬははははははは! ぬっははははははは!!」
「そっちが、その気なら!」
僕は街道沿いの民家の庭に駆け込み、庭への道を氷の壁で封鎖し、奥へ走った。
街道は川に沿っている。
僕は川に向かって、飛び出した。着地点を凍結させ、水の上を走り、一気に渡り切った。
「ぬは、ぬははははははっ!」
振り返ると、氷の壁をよじ登って飛び降りた少年が、こちらに走り出してきていた。
とはいえ僕と彼の間には川がある。
もう追っては来れないだろう。
そう思ったのもつかの間、彼は川べりよりだいぶ前で、踏み切った。
人間離れした跳躍力だった。
ひとっとびで、十メートルくらい飛んでるんじゃないだろうか。
僕は驚愕したが、一瞬で切り替えた。
球体の氷の礫をいくつも生成し、川を飛び越える少年にぶつけた。
それらは少年を打ち据え、彼は川に落ち、水しぶきがあがった。
「やった!」
僕は喜んだ。が、それはすぐ別の感情に塗り替えられた。
川にガリガリ君が突き立っている。
いや違う、彼はガリガリ君が沈まないよう、かばいながら着水したのだ。
すぐに少年が水面に顔を出した。
「ガリガリ君溶けるじゃん! ガリガリ君食え!!」
「ひっ! な、なんでっ!」
僕はあたり一面を凍結させて、逃げ出した。
「待てえ!」
氷の割れる音がして、彼は追いかけてきた。
僕は必至に逃げた。
氷で段をつくり、屋根の上に逃げても彼は跳躍し追い掛けてきたし、広い公園で少年を氷室に閉じ込めてもこじ開けてでてきたので、仕方ないから氷の礫で打ち据えたりした。
それでも、少年はガリガリ君を片手に追い掛けてきた。
逃げ切って隠れても、野生の勘でもあるのか、なぜか見つかった。
その度、僕はまた逃げるしかなかった。
恐怖だった。
この早池峰の娘が初めて他者に恐怖を抱いた。
「はぁっ……はぁっ……」
僕はとうとう愛宕神社の石段を上った。
早池峰の本家に身を寄せていない僕は、お姉ちゃんと交流のある愛宕神社に帰ってきていた。
時刻は夕暮れになっていた。
神社の境内で僕は力尽き、ご神木を背に、膝を折った。
夕焼けに燃える赤い山を背景に、少年が階段を上ってきて、神社の境内に現れた。
「母さん、母さん! ……助けて!」
僕は声を上げたが、返事はなかった。
母は太古の雪女で、彼女の在り方は良く言っても旧弊的、悪く言えばネグレクトだった。
母は幼い僕を早池峰神社に預けた。
僕は優しいお姉ちゃんに縋って大迫から盛岡に行った。
僕は自分を愛さない母を憎んでいた。
頼りたくなかった。
でも、小学校で僕の力は暴走した。
人を傷つけ、命を奪いかけた。
そして、お姉ちゃんに連れられ、母を頼りに、大迫に戻ってきた。
母を頼っても、触れるもの消し去る力の暴走は収まらなかった。
学校にも行けなくなった。
僕は氷を駆使し、私に興味の無い母と、孤独に生活していた。
今日は、知り合いの少ない母にしては珍しく来客を迎える為、愛宕神社に一日中いるはずだった。
母の返事はなかった。
僕は僕を愛してくれない母が嫌いだった。
なのに、いざ頼ってみたら、答えはなかった。
僕は絶望した。
それは母にではない。
いつも憎んでる母を頼った自分が情けなくて、誰も助けてくれない自分が情けなくて、涙が出てきた。
「こないで……」
少年は枷のように手足に氷を纏い、ボロボロの姿をしていた。
それも全て僕のせいだった。
僕が氷をぶつけたり、氷漬けにしたりしたからだった。
少年は僕の前までくると、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
夕暮れによる逆光で、影になって表情は見えない。
怒っているのだろう。何をされるのかわからない。だって、ボコボコにしたんだから。
この瞬間、僕が右手か左手をふるったなら、彼の身体は容易く二つに裂けただろう。
でもそんなことは嫌だった。
誰も傷つけたくなかった。
自分の力が恐ろしかった。
なのに、目の前の少年はボロボロにしてしまった。
いったい僕は何がしたいのか、何をしたくないのか、自分でもわからなくなった。
彼がこれから僕にすることこそ、僕への罰だ。
僕はそれを受け入れなければいけない。
少年が僕の顔へと腕を突きだした。
僕は両腕で庇うこともできず、恐ろしくて目をつむった。
殴られる、あるいは処刑される。戦争の時、ひどいことをされた雪女の話が思い浮かんだ。
だが彼は僕を殴りもせず、意味不明な言葉を吐いた。
「……ガリガリ君」
「……え?」
僕は恐る恐る目を開けた。
少年は僕に、溶けて棒だけになったガリガリ君を見せつけていた。
「溶けてきちゃったから途中で食べたけど、当たったから」
視線を向けてみると、棒には『あたり』と書いてあった。
「そんなことのために……?」
「ガリガリ君食べちゃって、ごめん。でもさ、これ返すから」
少年は謝った。
なんで?
どう考えても僕が悪いのに。
体の力が一度に抜けていくのがわかった。
僕は呆れて、笑えてきた。
「何言ってるの? そんなのどうでもいいのに」
「え? そう? ガリガリ君とか、一日一本しか食べれないのに? 怒ってない?」
「怒ってない」
僕は笑った。
少年も笑った。
「じゃあ、当たり棒でガリガリ君買いに行こう」
少年が僕の手に当たり棒を握らせようとした。
瞬間、僕は最後の力を振り絞って、氷を生成し、少年を弾き飛ばした。
「僕に触れるな!」
「え、え? やっぱり、怒ってる……?」
「怒ってない!!」
僕は声を上げて、立ち上がった。
夕暮れの中、僕らは街道を歩いてまっすぐローソンへ向かった。
コンビニでガリガリ君を買って、駐車場で食べながら僕は彼に自分の力の事を説明した。
「だから僕は氷で、こうやって生活してるんだ」
「すごっ」
彼は目を輝かせてそう言った。
心から褒められるのは気持ちいい。学校で向けられるような嫉妬と違って。
「絵とか描けるの!? 絵とか!」
「え、わかんないけど」
「やってみてよ!」
僕はコンビニのガラスに、氷を操って、ちょちょいとウサギの絵をかいてみた。
「まあまあ、だね」
正直、自分でも下手だった。
でも、そう思われたのが、たまらなく悔しかった。
「だったらかいてみてよ」
「へへーん。見てなよ~」
彼はなぜかコンビニで、ノートとペンをだけを買っていた。
彼は新品のノートとペンで、絵を描き始めた。
「下手じゃん」
銃がごてごてついた黒いコートの怪物(彼曰くヒーローらしい)の絵だった。
でも、良い絵だと思った。彼の絵には情熱があった。
「僕は将来漫画家になるんだ!」
「漫画家?」
「そう漫画家! 僕は天才だから、漫画家になって、医者も頭いいから余裕だし、宇宙飛行士も余裕だし、一級魔術師は確実だし、一級魔術師の中でも天照様の親衛隊になって、あと、音楽家にもなって、あとは、歌手! ……はカッコ良くないからやめとくとして……」
「なにそれ、絶対無理じゃん」
僕は笑った。
彼は怒らなかったが、強く否定した。
「無理じゃないよ。僕は天才だから!」
実現性の有無は別として、そう言い切る彼は、眩しかった。
「なんたってばあちゃんの孫で、天才の父ちゃんと母ちゃんの息子だからね!」
「おじいさんは?」
「じいちゃんは普通!」
「じゃあ、三つくらいしかなれないんじゃない?」
多分三つもなれないだろうけど。
「そんなことないよ! 見ててよ、夏休みに漫画を十個書いて、すっごい賞とるんだから!」
彼はそう言って、落書きを書き始めたが、その夏、結局一本も漫画は完成しなかった。
なぜなら、ずっと僕と遊んで過ごしたから。
これが、彼、琴平暁との出会いだった。




