プロローグ 2
キキーーーーッ!!
激しいブレーキ音がした。
迫るスポーツカーに、あっと思った時には、跳ね飛ばされ宙を浮き、硬いコンクリートの塀にぶつかった。
詰まった息がどっと吐きだされ、ぶつけた頭に痛みが走った。傷がぱっくりと開いていたのか、顔まで血が流れてきて、地面に落ちていった。
「おい僕! 大丈夫か!?」
車から男の人が下りて駆け寄ってきた。
その人の心配そうな顔に、なぜか涙が出そうになった。
でも、その時、ボンネットの大きく凹んだ車を見つけた。
僕はそれを見て、血の気が引いた。そして、野良猫のように逃げ出した。
「ちょっと! 君!」
その当時、とあるニュースが盛んに報道されていた。どっかの神様が実際に轢かれるガチの当たり屋をやって、保険金詐欺などを働いたせいで、法改正が行われた。その結果、神身事故は神側の責任割合が九割になっていたのだ。
弁償させられる! 僕はそう思って逃げ出した。
逃げてから、もっと胸が苦しくなった。
学校でみんなに言われた事も、車から逃げた事も、たまらない思いがした。
走り続けて、僕はとうとう、僕の住む山間の町、石神前に帰ってきた。
早くばあちゃんに会いたかった。
ばあちゃんに抱きしめてもらいたかった。
朝の会のことが再び思い起こされた。
たった十分もない、あの短い時間は、クラスの人気者で、おちゃらけていた僕を奪った。
今までの自分は、もう取り戻せないと思った。
みんな友達だと思っていた。多分友達だった。でも、僕はみんなに嫌われていた。
『どう思うかではなく、どうしたいと思いますか?』
そう先生に聞かれた時、誰の顔も見ることができず、俯いたまま、僕は言った。
『……みんなが、思うように、で……いいです』
僕は知らなかった。
たかしが僕を恨んでいたことを。いつだって僕と競争してくれていたから。
あきらくんが僕にプライドを傷つけられていたことも。だって、昨日だって、僕を褒めていたから。
妖怪のクラスメイトが、僕を差別の風よけにしていたことも。
僕は神様であるばあちゃんの孫で、常に勝者だった。
負けているみんながどう思っているのか、考えたことなんて無かった。
僕は恥ずかしかった。
僕を嫌っている彼らが僕の事を好きだと思っていた無知と厚顔さに、泣きたくなってきた。
神社の入り口、鳥居の所に、オーバーとかを着込みモコッモコになったばあちゃんが石段を下りてきた。
「ん? 孫?」
ばあちゃんは僕の姿に気づいて、白い瞳を丸くし、立ち止まった。
ばあちゃんは神様だから、とても綺麗な人間の少女の姿をしている。
姿形は僕より上くらいの小学六年生みたいにみえる。膝くらいまである長い銀髪(白髪っていうと怒る)を今は丸めてどこかに仕舞っていた。
ばあちゃんの顔を見た時、重しが乗っていたような胸が軽くなった。
「ばあちゃん!!」
僕は、ばあちゃんに飛びついた。
熱くなった顔を押し付けたオーバーは冷たかったが、熱くなった体には心地よかった。
「おお、おお、どうしたどうした。今日は学校休みじゃったか?」
ばあちゃんがあやすように、僕を抱いた。
僕はばあちゃんの顔を見上げた。
その白く丸い綺麗な瞳を見た瞬間、あの時からずっと張り詰めていた緊張が解けた。僕はたまらなくなって、涙が溢れてしまった。
「ばあちゃん、みんなが、みんながぁ……!」
僕は朝礼であったことを、ばあちゃんに話そうとした。
聞いて欲しいことは山ほどあった。
みんなが僕に言ったこと、先生が守ってくれなかったこと、車に轢かれて逃げ出したこと……。
でも、僕は全く違う言葉を吐いていた。
「たかしはサッカーバカのくせに! こう君はガリ勉エロメガネのくせに……! 先生は頭頂部ハゲのくせに……! みんなが僕をいじめるんだ!!」
僕は涙を流しながら、激怒していた。
だって、たかしは舞ちゃんと僕の席が二回続けて隣なのが気に入らないんだし、あきらくんは保健体育が僕より点数が良いのを厭味ったらしくずっと自慢してきている。妖狐は本気で僕の事が嫌いなだけだし、たぬきは何も考えてないバカだし、河童はみんなよりも算数ができないアホだし(計算ができない河童は哲学に逃げる)、みんなの気持ちなんて、どうでもよかった。
要するに、僕はバカなやつらにプライドを傷つけられたのが許せなかった。
でも、みんなに裏切られたことだけは、本当に悲しかった……。
だから、ひとしきり怒りの言葉を吐いたら、今度は、本当に聞いて欲しかった悲しかった事が自然と口から出てきた。
「ばあちゃん……クラスのみんなが――」
「待て! 孫! もしかして、今日は、祝日じゃったか?」
涙を流す僕を、ばあちゃんは真剣な表情で制した。僕の話を遮ったばあちゃんの様子に、涙が少し引っ込んだ。
「平日だけど……」
「そうか! それは安心じゃ!」
ばあちゃんは僕を引き離して、その綺麗な白い瞳で僕をじっと見つめた。
「孫、今日は一月九日じゃ」
「う、うん。九日だね」
戸惑う僕をさておき、ばあちゃんは人差し指をピンと立てた。それから功徳を語るように神妙な顔で言った。
「九のつく日はパチンコ『ブッダ』が強いんじゃ。九は仏教では縁起のいい数字じゃからな。それに今日は一月九日。1と9は逝くとも読むことができ、これは涅槃への至る事の暗喩でこれ以上ない強い日じゃ」
「……え? ん???」
ばあちゃん、何を言ってるの?
「祝日じゃと開店時間が一時間早まるから、孫が帰ってきた時焦ったが、平日じゃから今からわしの時間停止能力を使えば、開店前のパチンコ台の抽選にギリ間に合うんじゃ。わかるか? 最近、パチンコ屋は行列防止のために抽選をやるようになったんじゃ」
ばあちゃんが見当違いな事を言いだしたので、僕は強引に話を戻そうとした。
「ばあちゃん、僕、学校で……、お父さんのことも、犯罪者だって、言われて……。それって本当なの?」
僕の質問に、ばあちゃんは躊躇わず答えた。
「それは本当じゃ。バカ息子の皓月は確かに生死問わずで国家指名手配されているが、じゃが、今、そんなこと気にしても仕方ない」
引き留めようとした僕の肩を、ばあちゃんは強く叩いた。
「孫よ、強くなれ。大丈夫、強くなればだいたいのことは解決する! 力こそがこの世界の道理じゃ! どうせ学校で神と人間がどうとかでどうこうしたんじゃろ。いつの時代もつまらんことにこだわるのう。わしは息子の時にもそういうのいろいろ経験しとるからな! 安心せえ、強さこそ正義じゃ! 孫が強くなれば全て解決する。それに、パチンコも強い日に行く方が良い! 待ってろパチンコ『ブッダ』! わしに微笑め『苦境涅槃XIII』!!」
あっけにとられている僕から、一歩離れると、ばあちゃんは微笑し軽やかに手を振った。
「孫。今夜は焼肉パーチーじゃ。帰りはスーパーで牛肉を刈ってくるから、ご飯を炊いておいて、ホットプレートを出しておくんじゃぞ! 楽しみにしておれ!」
ばあちゃんの姿は一瞬にして掻き消え、僕は冷たい神社の石段に取り残された。
朝の冷たさから昼の暖かさへと変わりゆく陽光の中、僕は立ち尽くしていた。長く走り続けて熱くなった身体の汗が冷え、冬の寒さが身に染みた。
「……うぅ。うぅ――」
涙が溢れてきた。
この涙の理由は、僕には全く分からなかった。
手の甲で目を拭い、ジャンバーの袖で鼻を拭い、それでも収まらない嗚咽に、しゃがみ込んだ。
なにがなんだかわからなかったが、とにかく泣けてきた。
学校もクソだし、友達もクソだし、先生もクソだし、ばあちゃんも、クソだと思った。
特にばあちゃんはひどいと思っだ。孫よりパチンコが大事だっていうの!? なんだよ! ひどすぎる!!
膝を抱え、うーうー、泣いた。
この世界を呪った。
僕はこの広い世界に一人きりだと思った。
母さんに会いたいと思った。でも、母さんはもういなかった。僕は一人で我慢するしかなった。
世界を壊してやりたいほど悲しくて、ずっと泣いていられるような気がした。
でも、時間は流れた。
いつしか涙は止み、悲しみも、憎しみも過ぎ去った。その時、ばあちゃんの言葉だけが残った。
『孫よ、強くなれ。大丈夫、強くなればだいたいのことは解決する! 力こそがこの世界の道理じゃ!』
ぎゅっと拳を握りしめ、僕は立ち上がった。
琴平神社の前には民家が背を向けて並んでいた。歴史の浅い琴平神社には、由緒ある神社の門前町のような壮麗さはない。
車同士がようやくすれ違えるありふれた田舎道で、僕は誓った。
「……なってやる。強くなってやる……! それでいいんでしょ、ばあちゃん……!」
その夜、ばあちゃんは、大盛りのペヤングソース焼きそばを申し訳なさそうに持ち帰ってきたので、二人でご飯のおかずにして食べた。
そして僕は、強くなったらまずこのババアを倒してやろうと、天照大御神に誓った。




