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黄昏の堕天使— She Could Not Stop Saving People —  作者: 夏乃緒玻璃


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鏡の中のスペクトラ②

 瑞季の目が、期待と、ほんの少しの恐怖に輝く。


 僕らは吸い寄せられるように、人通りの絶えた5番街の「奥」へと足を踏み入れた。


 かつて高級ブティックや輸入雑貨店が軒を連ねていた、迷宮のような回廊を進む。

 

 人通りの絶えた通路は、空調の音さえ聞こえず、自分たちの足音だけが不自然に高く響いていた。


「ねえ浦部さん――普通こう言う場所はこんなに簡単に入れないんじゃないかな――」


「――うふ。鏡の幽霊に誘い込まれたのかもしれないよね?……あ、あそこだよ。プリズマ」


 瑞季が指差した先。

 厚い埃に覆われたショーウィンドウの奥に、その店はあった。

 

 かつては地中海の太陽を思わせる明るい内装だったのだろうが、今は色褪せた壁紙が幽霊の皮膚のように剥がれ落ちている。

 

 そして、店の突き当たり。

 

 闇を吸い込むように鎮座しているのは、優美な曲線を描く、巨大な金縁の鏡だった。

 

「……上崎くん、見て。あれ」

 

 瑞季の声から、いつもの茶目っ気が消えた。

 鏡の前に立った二人の姿を映し出すはずの鏡面が、微かに波打っている。

 

 埃を被っているはずなのに、鏡の中だけが、異常なほどに「明るい」のだ。

 

 鏡の向こう側。


 そこには、現在の静まり返った5番街ではなく、眩いばかりの照明に照らされ、着飾った人々が笑いさざめき、イスパニア通りを闊歩する、かつての「本牧」の幻影が広がっていた。

 

「すごい……本当に、昔の光景なの?」

 

 光は、ポケットの中のモアサナイトが、微かな熱を帯び始めたのを感じた。

 

「こんな馬鹿な事があるなんて――」

「でも、私にも見える。私の知らない時代の人たち」

 

 その時、鏡の中を歩いていた一人の女性が、ふと立ち止まった。

 

 彼女は鏡の中から「こちら側」にいる光と瑞季を、じっと見つめ――。

 

「……いらっしゃいませ。お探しのものは、何かしら?」

 

 閉ざされたはずの鏡の向こうから、鈴を転がすような、けれど心臓を冷やすような声が響いた。


 それは、声だったのか。

 あるいは、閉ざされた店内に遺された、かつての接客放送のノイズだったのか。

 

 鏡の中に立つ女性は、瑞季や光に語りかけているのではなく、虚空に向かって微笑んだ。

 

 鏡の向こう側。

 そこは照明が眩いばかりに輝き、着飾った人々が笑いさざめく、かつての「この街」の絶頂期。

 

 街の幽霊――いや、街の記録を封じた鏡。


「上崎くん。お父さんの話、覚えてるよね」

 

 少し低い声で瑞季が聞く。

 

「もちろん」

 

 忘れたりするものか。

 答えると、瑞季は、鏡を見つめたまま、そっと僕の手を握ってきた。


「お父さんは、あの論文を出したあと……ある日突然、いなくなった。何を探してたのか、どこへ行ったのか、誰も教えてくれない。……でもね、もし『幽霊は実在する』って言ったお父さんの言葉が本当なら、もしかして、一番好きだったこの場所の記憶の中に、まだいるんじゃないかって」

 

 瑞季は、鏡の中に映る「かつての幸せだった本牧」を、食い入るように見つめた。

 

 鏡の中を行き交う群衆。

 その中に、見慣れた背中を探すように、彼女の瞳が細かく動く。

 

「浦部さん、しかしそれは――。そこにもしお父さんがいたとしても、それは――違うよ。君が探している、君のお父さんじゃない」


「うん。わかってる……ただ、確かめたかっただけ。お父さんが見ていたものが、これだったのかって」

 

 瑞季の声が、わずかに震えた。


 その時、鏡の中の群衆が一斉に立ち止まり、その「視線」の圧力が一段と強まった。

 

 ガタッ。

 

 誰もいないはずの店内で、商品棚が微かに揺れる。

 

 鏡の中の住人たちが、一斉にこちらの「現実」を凝視し、その境界線が歪み始めた。


「鏡が、僕たちを見た?……浦部さん、下がって」


 ポケットの中のモアサナイトを強く握りしめた。石はもう、無視できないほどの熱を放っている。


 僕は――その石を鏡に近づけた。

そうすべきだと、なぜか思った。


 鏡面が、悲鳴のような軋みを上げた。

 手に持つモアサナイトの「光」と、鏡が放つ「光」がぶつかり合い、分厚いガラスの奥からピシッ、と不吉な亀裂の音が響く。


「上崎くん!」

 

突然、瑞季が叫んだ。


「お父さんだ! 若いけど――お父さんがいる。光くん、どうしよう、そこにいるよ!」


 瑞季が鏡に縋り付くように身を乗り出した。

 

 彼女の視線の先、セピア色の群衆の中に、まだ大学生くらいだろうか、瑞季によく似た面差しをした青年が、楽しげに輸入雑貨を眺めている姿があった。

 

 彼はふと足を止め、鏡越しにこちらを見た。

 焦点の合わない、けれどどこか懐かしそうに目を細めるその仕草。


 瑞季が、手を伸ばした。


「浦部さん、ダメだ、離れて!」

 

(吸い込まれる――鏡に。体じゃない。浦部瑞季の魂が、吸われている――だけど)


幸せそうだった。

楽しそうだった。

光が満ちて、熱があった。

 

そこに――探し求めていた人と共に、その世界で永劫の幸福感と共に封じられるのは、ほんとうの幸福とは違うのだろうか。


そんな考えが、頭をよぎり――僕は首を振る。

このモアサナイトを使えば、鏡は壊せるだろうか。


だが壊してしまえば、瑞季がようやく見つけた「父親の面影」も、この街がかつて持っていた輝きも、永遠に失われてしまう。


 「壊したくない……でも!」

 

 歌声が聞こえる。

 讃美歌のような。

 天使が歌っているかのような。

 

 それが、鏡の中のショッピングモールから流れている音楽だと気付いた時、僕はこの鏡が――悪魔の作った罠では無く、天使が祝福した「門」なのではないか、と感じた。

 

 瑞季は、恍惚の表情で――門をくぐろうとしていた。


「ごめんよ浦部さん。浦部瑞季さん」

 

 僕は瑞季の体を鏡から引き離し、モアサナイトを鏡面に掲げた。

 

 熱と光が反発し、せめぎ合い――そして。


 パリン。


 あっけないほどの小さな音。

 ――鏡は、割れた。


 衝撃に目を閉じ、再び開けたとき。

 

 そこには、元の、埃を被った静かな「プリズマ」の店内が戻っていた。

 

 熱も輝きも失せ――ただ暗い闇が、そこにあった。

 瑞季は、鏡に触れたまま、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。

 

「……いなくなっちゃった」

 

 瑞季は静かに一言、呟いた。


 気付けばここは――墓場のようだ。

 

 狂熱は去った――もう二度と戻らない。

 世界中のどこを探しても、宇宙の果てまで彷徨っても――もうその光景は存在しない。

 

 唯一の棲家――記憶からすら、いま消えた。

 瑞季は、うつろな表情で――座り込んだまま、言った。

 

「どうしよう上崎くん。お父さんの顔――思い出せない」

 

「浦部さん――」


「どうしよう。それなのに――私、悲しいと思わない。そんな感情がなくなってしまった!どうしよう、どうしよう――怖いよ。このまま私、お父さんの事、忘れちゃうのかな!」


「浦部さん、大丈夫だよ」


 僕はわかった。

 瑞季は、少しだけ――僕と同じになったんだ。

 

 でも大丈夫。

 僕と親たちの未来は壊れたけど、瑞季が失ったのは、本来なら瑞季自身が生まれてすらいない頃の、若いお父さんだ――幻影だ。

 

「――幻影が壊れただけだよ。きっと、一眠りすればすぐ、優しかったお父さんを思い出すよ」

 

「――」

 

 瑞季は僕にしがみついたまま、しばらく息を整えていた。

 

「ねえ上崎くん。悲しい事を忘れてしまうのと――悲しい事を思い出すのは、どっちが幸せだと思う?」

 

 僕は、答えられず、ただジャージ越しに揺れる瑞季のポニーテールを見ながら、瑞季を励ますように握った手に力を込めた。


 「うん」

 

 瑞季は、僕の手を握り返す。

 

 「ありがとう――少しずつ、思い出してきた。少しずつ、悲しくなってきた。私は、私の抱えた悲しみのまま、私に戻るんだね」

 

「浦部さん――」

 

「瑞季でいいよ。クラスのみんな、名前呼びで騒ぐかな。楽しみ――あ、あと、ほっぺにキスとかしてあげよっか。超感謝してるし、いいよ?」

 

 え――?

 いや、そんな――。

 いいのかな――これは、いいの?

 

 一瞬、深いステンドグラスの紫色の光が頭に浮かんだ。

 その時――

 

「ミャオ」

 

 聞き慣れた猫の声。

 びくりとして振りむくと――通路の先でサイモが「やれやれ」というように尻尾をひと振りし、闇の奥へと歩き出していた。

 

 サイモ、未遂だよ?

 僕は祈るようにその後ろ姿を見つめていた。


◇◇


「おかえりなさい。無事で何よりです」


 呼び鈴――

 カタン。

 窓が開き「どうぞ」という、穏やかな声。

 門のオートロックが解除されるギィという機械音。

 

 じっと見つめる幽霊のような猟犬バフォメット。

 いつもと同じ――同じになった日常。


 屋敷の門をくぐると、すでにテラスには柔らかな光が灯っていた。


 りりせさんは穏やかな表情で、新しい茶器を並べている。

 

「さあ、毒味の時間ですよ。今日は――ジャスミンをベースに、乾燥させた林檎の皮と少しだけシナモンを。琥珀色に澄み渡る、夕焼けの色を目指してみました」

 

 差し出されたカップの中には、濁りのない美しい金色の液体が揺れている。

 

 一口飲むと、華やかな香りの奥に、林檎の優しい甘みが広がった。


 五番街の冷たい空気で強張っていた体が、内側からゆっくりと解けていく。

 疲れが取れる――最高の一杯だった――その味を除けば。

 

「あら、今度は少し――シナモンが多すぎました」

 

 がっくりと肩を落とす、りりせさん。


 「……りりせさん。この石、ありがとうございました」

 

 僕はポケットからモアサナイトを取り出し、テーブルに置いた。


 石はすっかり冷たくなり、月光を浴びてただ静かに輝いている。

 

「役にたったのでしたら、なによりです」

 

 りりせさんは満足げに目を細めると、傍らに置いてあったガラスのケースに手を伸ばした。

 そして、一番隅に置かれていた小さな細工物を取り出す。

 

「はい。無事に返してくれたご褒美です」

 

 掌に乗せられたのは、指先ほどの大きさの、透明なガラスの小鹿だった。

 

 華奢な脚、誇らしげに反った角。

 それは、今にも駆け出しそうなほど繊細で見事だった。


 しかし、光を透すと一本の線が――足首の辺りにあった。

 

「……折れてしまって、接着剤で直したのですが――気になりますか? 私はこれが好きだったので差し上げようと思ったのですが――やはり一度傷付いたものは失礼でしたね」

 

 何か別のガラス細工を、と見繕うりりせさんを、僕はすぐに止めた。

 

「これがいいです。これが、凄く綺麗だし――足の傷も、接着剤の跡がキラキラして。大事に修理したものだって気がして、余計にいい」

 

 僕は本心からそう思った。

 

 ガラスを光にかざすと、精巧な細工がそれを反射し分光のように七色に輝いた。

 

「不思議ですね。そのプリズムもまた、鏡に映る幽霊と同じく、スペクトラと呼ばれるのですよね」

 

 りりせさんは目を細め、少しだけ不安そうに、僕に言った。


「それでいいと――傷のついた細工でも、それがいいと本当にそう思うんですか」


「もちろんですよ。ほら――この鹿の表情とか、光を受けて喜んでるみたい。凄いな、綺麗です。ありがとう」


「‥‥どういたしまして」



りりせさんは紫の瞳を伏せ、少しだけ寂しげに、けれど幸せそうに微笑んだ。




 episode 完

 


 

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