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黄昏の堕天使— She Could Not Stop Saving People —  作者: 夏乃緒玻璃


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濁流の姑獲鳥②

 申し分ない雨の日がきた。

 この前のように物好きな学生が近くに来てくれれば、不意に声をかけられて驚いたせいだとでも、ぶつかってこられたとも、いくらでも言えたのに。


 もう、あんな機会は無いだろう。

 あの時、一部始終を見ていた少年さえいなければ――。  

 しかし、仕方がない。

 

 どうせ自分は、病んでいるのは事実なのだ。

 処方箋もある。

 大きな罪には、ならない。


 母親は一歳の娘、ゆりかの体を、高い高いするように掲げて、川に向かって突き出した。


 増水した川の、黒い水がうねる。


 さようなら――私の娘。

 

 しがみついてくるその小さな手、悲しそうなガラスの瞳。ママーという微かな、甘えた声。

 忘れない。


 あなたを――たぶん愛していたから。

 自分と、あの人の次に。


 でも、だからこそ、その愛は重かった。

 その瞳が私を縛り、どこにも行かせてくれない。


「さよなら、ゆりかちゃん。またいつか」

 

 地獄で会いましょう。

 そういって、母親は濁流の上で手を離した。

 

「さよなら――」


 娘の小さな口がそう動いた。

 深緑の硝子の瞳が、深い悲しみをたたえている。

 小さな手が、さよならのポーズで手を振る。

 

 ゆりかの姿が遠ざかる。

 ゆりかの姿が空に向かってゆく。

 

 空に――?

 川ではなく?

 下ではなく?

 

 違う――遠ざかっているのは、私の体だ。

 川に、濁流に向かって背中から落ちていくのは、私だ。

 

(いいえ。手を離したのは、確かにあなた――)

 

 耳元で何かが囁く。


 落ちていきながら、母は――誰かに抱かれながら、ゆりかが、ゆっくり手を振るのを見た。

 

 娘を抱く人影の背に、黒い翼がはためいた気がした。

 ハーブの香りを感じた。

 黒い羽根が、雨に舞う。

 

 ――それが、最後だった。


 母親は水に沈み、魂は闇に溶けた。

 ――身体は、濁流を流れていった。


 走ってきた光は、橋に佇む黒い影を見た。

 

 後ろ姿。

 逆光でシルエットしか見えないが――嵐の去った無風の夕暮れに、その髪は激しい嵐の中にいるかのように蠢いていた。

 

 それは、のたくる蛇の群れのように見えたが、光はそれが、まるで苦しみや悲しみに悶えているようだと感じた。


「りりせさん!」


 走り寄り、声をかける。


 振り向いた彼女は、幼子を抱いていた。

いつものように美しく――栗色の髪が夕陽を浴びて神々しく輝いていた。

 

 赤子を抱く聖女のよう――

 しかし、その表情は、どこか寂しげに見えた。


「巷の噂だった、 妖怪姑獲鳥の正体は――悲しい母親でしたが――濁流に消えました。身を投げました」

 

 「そんな――この流れじゃ」


 黒い水の濁流を見る。

 光は、しかし察していた。


(僕の家の時と同じ――きっと、りりせさんは、この子の命を救った――とても悲しい方法で)


 幼女の目は暗く静かな光を湛え、虚空を見ていた。


「光くん。戸籍のない私に代わり、あなたは警察に、こう言わなければなりません。橋の横に、この子がいました――遠くから、女の人が飛び込み流されていくのを見ました、と。お願いしていいですか?」


「それが一番いいのなら。でも、この子の瞳は――とても悲しい。りりせさんも――」

 

 最後の言葉は、口の中に消えた。

 光は、幼女をもう一度見る。


 小さなその瞳は、虚ろなビー玉。


「――間に合って良かった。その瞳には、これからたくさん――色々な光りを映していけばいい。でも、まずは」


 突然、りりせさんは幼女の顔を覗き込み――その目を見ながら、ぷくっと頬をふくらませ、指で目尻を下げながなら舌を出した。


 「べえ」

 

幼女は、しばらくポカンとしていたが、やがて――


 「あ、あははっ」

 

「――まずは、なくした笑顔の光りから」


 光は、なんだか凄いものを見てしまったという表情で、頭を掻いた。

 

 りりせは、クスリと笑う。


「私の恥ずかしい顔をお見せしたのですから、きちんとやって下さいね光くん」


 二人は歩き出す。

 

 10分も歩けば、警察署があったはずだ。

 りりせは、ゆりかの小さな手をやさしく触り、愛おしくて堪らないといった様子であやしながら、言った。


「――済んだらご褒美に、新しいブレンドのお茶をお出ししますから、楽しみにしていて下さい」


完。

 

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