幽霊の背④
茶色い子猫。
奈津美が助けた小さな命は、一時的に瑞季の家に引き取られ、世話されていた。
その色合いから「アンバー」と瑞季は名付けた。
琥珀の事だ。
「サイモは、猫目石の事。この子は琥珀――ふふふ、面白い縁ですね」
りりせが笑う。
光が、りりせに頼まれて用意したもの。
その一つが「アンバー」で、もう一つが――
「はい、特上のキャットフード」
留守番のサイモに渡す報酬だそうだ。
今夜は、新月。
特殊な月の時でないと成功し辛い魔法があるという。
「魂移し」
見張りの番犬バフォメットのせいで外に出られないりりせさんが、いつか試そうと思っていた「悪戯」だそうだ。
「この子の魂を私に移し、私の魂をこの子に移します。光くん、バフォメットに睨まれても動じずに、堂々と門から出ていくのですよ。ばれたらふたりとも噛み殺されてしまうかもです」
笑いながら、りりせがいう。
外に出る――という行為のせいか、どことなく上機嫌だ。
「あの、犬だから匂いとかでバレてしまうんじゃ」
光が不安そうに言う。
「いやですね。猫の体からは猫の匂いしかしませんよ?」
「あ、そうか」
りりせさんの体は、その間――椅子に座り、サイモが肩に乗り見張る。
いや――何に対して見張る?
バフォメットは室内に入ってこないだろうし、何か来た時、サイモは対応できるのか?
光が疑問に思っていると、察したりりせが笑う。
「ここも古い家ですから――虫に刺されたり、万一あの、ぐにゃぐにゃ妖怪が体にたかったりしていたら、私は戻った時にショックで死んでしまうかもしれませんから」
――ぐにゃぐにゃ妖怪。
なんでも、りりせが大嫌いな虫で、それが出たせいでティーポットをいくつも壊してしまったのだという。
弱点は、塩。
つまり、所謂――ナメクジの事のようだ。
光が後ろを向いているうちに、りりせさんは事を済ませたようだった。
肩にひょいと、アンバーが乗る。
「ニャー」
一声鳴くと同時に「さあ、行きますよ」と、頭の中に声が響いた。
時は黄昏。
渡部邸へ、急がないと――。
◇◇
どこかでカエルが鳴いている。
だが、りりせさんは無反応だ。
――良かった。
三すくみ、というのだっけ。
ナメクジが怖いりりせさんの本質が、もし――もし、時折見せるあの蠢く髪のシルエット通りだったら――そんな心配をした。
もし、そうだったら――僕は、りりせさんの本当の姿を見た瞬間に、石になってしまうかもしれない。
りりせさんが、どんな姿だって――それは全然構わないし、怖がったりしない自信はある。
でも、その姿を見たらもう――その関係、或いは命が終わってしまうのは、残念な事だからだ。
僕は、不思議な安堵を覚えつつ、渡部さんの家に向かう最後の路地を曲がった。
◇◇
路地を曲がると、光は包帯女とぶつかった。
手には木刀。
下着姿でブーツを履いている。
「光くん――これが悪霊ですね? まあ、なんとはしたない姿」
ヒョイと飛び退きながら、アンバーのりりせが心に語る。
「違います――。おい、渡部さん、渡部さん」
奈津美は頭を振り、激痛に耐えながら――木刀を離さない。
「私を笑うのは、あんた?――私を、笑うな!」
木刀が振り上げられる。
――だが。
光は驚きも、かわしたりもしなかった。
木刀は奈津美の頭上に振り上げられたまま――そこで止まっていた。
「渡部さん――錯乱した振りなんかしなくてもいいんだよ。僕は君が、それを人に向かって振り下ろせる人かどうか――知っているから」
光がじっと奈津美の目を見ながら――「笑う」。
その目から、涙が、ボロボロと溢れる。
「なによ――私たち……クラスメイトだけど、そんなに話した事、なかったじゃん」
言いながら、奈津美は光にしがみつくように倒れ込む。
抱き止めながら、光はまた、笑った。
「そうだね、おかしいね。でもたぶん――浦部さんも、僕も――君と少し似ているんだ。きっと」
「――ああ。あんたも、色々あったって――ごめんね、そんなゴシップみたいな話、聞く気も無かったんだけど」
「僕もだよ。立ち入ってごめんね。でも――立ち入りついでに、今夜で全てを終わらせる手伝いをするよ。いいよね」
その時、アンバーがヒョイと光の肩に乗る。
「あ、あれ――その子」
光はアンバーを撫でながら「君が助けた命だよ。今度は君を助けてくれるって」と言った。
(光くん、今のはなかなか、男の子していましたね。私はなんだか感無量です)
アンバーりりせからの心話に、光は「大袈裟ですよ」と肩をすくめた。
気恥ずかしいのを誤魔化すように、光は奈津美を家に戻るよう促した。
(くすくすくす――)
笑い声は、家の中から聞こえている。




